企画提出 | ナノ

苦し紛れのアイラブユー


 静かな部屋。ベゴニアだけが植えられているベランダ。どれも総て木立ち性の一般的なもの。枯れることを知らないように、ずっと綺麗に咲き続けている。太陽の明るすぎる照明は、私の部屋に影を宿していた。


「猫君、君は何をしに来たの?」


視線はベランダにある花に注がせて、私は背後のソファにきっちりと座る後輩に訊ねた。


「……先輩、本当に暗部を引退してしまうのですか」


少し躊躇いながらも、彼の詞はとても真直ぐだった。彼は昔からそうだった。とても真直ぐな声を持っている。先輩にも堂々と意見を述べる彼を、他の人は生意気、と云っていたけど、私は彼のそういう所が昔から好きだった。それは随分と成長してしまった今でも、変わらない。


「猫君は、この花の名前を知っているかい」

「……ベゴニアですよね」


自身の問いに応答しない私に、彼は不服そうに答えた。なんだかんだで先輩には従う彼を、やっぱり好いなと思った。私は目を少しだけ伏せて、ベゴニアの雌花を摘んだ。花は抵抗するようにしがみ付いていたが、直ぐにブツリと切れ、その反動で他の花が揺れた。そして種を植えるように、摘んだ雌花を土の上に落とす。


「この花たち、いつも綺麗に咲いていると思わない?」

「先輩の家には数回しか来たことがないですけど……いつも満開のように咲いていますよね」

「そりゃあ、ちゃんとお礼肥や剪定をしているからね。知ってる? 花は受粉するまで綺麗に咲き続けるんだよ。だから、いつまでも咲き続けるよう故意に雌花を摘むんだ」


云いながら雌花を摘み続ける。ブチ、ブチという音がひっきりなしになった。彼は何も云わない。それでも構わずに摘み続けた。そして、今度は化成肥料の袋に手を伸ばす。白くて丸い肥料の袋には、10,8,7という数字が大きくプリントされていた。


「この肥料にはね、植物の生育に必要な主成分が入っているんだ。しかも割合もきちんとされていて、理想的な数字なんだよ」


肥料を一掴みし、土にパラパラと蒔く。白い粉が手に纏わりつくのを見て、チョークに触った後のようだな、とぼんやり思った。そして同じ動作を、他の鉢にも繰り返す。彼は私の作業が終わるまで、ずっとソファに座り沈黙を続けた。私は相変わらず、彼に視線を合わせない。 私が腰を下ろすと、彼はじれったそうに同じ質問をした。


「本当に辞めてしまうのですか。先輩程の力を持った人が、なぜ今辞めるのかボクには分かりません。先輩なら未だやれると思います」

「猫君、君は分かっていないね」


君は、私の黄金期を知らない。それは仕方のないことだ。時は常に進み続ける。止まるはずがない。だからこそ、私はその力を維持し続けようと、色々なモノを断ち切ってきた。最初はそれで好かった。でも、無理をしてきたせいか段々と何かがおかしくなってきたんだ。見た目とは裏腹に、私はもうボロボロなんだよ。

私の心を読んだのか、彼の雰囲気がゆらゆらと揺れた。動揺しているのか。私は彼に追い討ちをかけるように、はっきりと詞に表した。


「私は、暗部を引退するよ」


今度はぐらぐらと揺れた。そんなに動揺するなんて君らしくない。私は、君の尊敬の眼差しをうけるほど、できた奴じゃあない。その証拠に、私は人の名前さえ覚えられない。顔だって危ういくらいだ。ころころと一定の形を、顔は保ってくれない。怒ったり、泣いたり、笑ったりと忙しない形を、私はいちいち覚えられないんだよ。

もしかしたら、これは代償かもしれない。でも、暗部のときは別にそれでも構わなかった。皆無機質で変わることのない面を着けていたから。だから私は、君のことを猫君と呼ぶ。そして君は、名乗らない私を、勝手に先輩と呼び始めた。その響きは不思議と、心地好かった。


「先輩は、引退しても、ボクの先輩ですから」


随分と読心術が上手くなったと思う。それとも、単に私の力が衰えただけだろうか。何にせよ、こんな後輩を持てて私は幸せだと思う。私に付き合ってくれるなんて、彼くらいだ。


「猫君、面を取ってくれないか。私だけ素顔を晒しているのは卑怯だと思う」


そういう私は、未だ一度も顔を彼に向けていない。単に彼の素顔が見たいだけ。多分、今日で会うのが最後だからだと思う。だから最後に彼の顔を見てもいいかなって思えた。直ぐに忘れてしまうのかもしれないけど。


「先輩、ボク今日は面を着けていませんよ」

「……そう」


私は彼の返答を訊いて、わざと水やりを始めた。彼は何も云わずに私の背中に視線を注ぐ。彼は最初からずっと、私の背中を見続けていた。最初から、ずっと。

水を浴びたベゴニアの葉には水滴ができ、太陽の光を浴びてキラキラと輝いていた。それとは裏腹に、土の上に投げ捨てられた雌花は濡れた土を被り、とても惨めな姿に変わり果てていた。同じベゴニアなのに、この差はなんなのだろう。外見だけは綺麗に保とうと、私は大事な何かをたくさん落としてきた。その結果がコレだ。

私は水やりを終えると、これからは雌花を摘まないでおこうと考えた。もう、無理をしなくて好い。花が美しい見た目をするのは受粉をするためであり、人のためではない、自分のためなのだ。いい加減目標に向けて咲かせ続けるのは酷だろう。もう、種を実らせるべきだ。


「……ついでに、猫君の名前を教えてくれないだろうか。その歳になって、猫君だなんて嫌だろう?」


忘れてしまうかもしれないけど、と心の中で呟いて、私は初めて振り返った。ソファには朽葉色の髪と、真直ぐな涅色の目をした青年が座っていた。


「初めまして」


何年も一緒に居た人に、この詞は変かもしれない。けれど私には、それがしっくりきた。ただ顔を見ただけなのに、彼は猫君ではないように感じられた。私の知らない人のような、それでいて雰囲気は私の好く知っている彼のまま。


「初めまして先輩。テンゾウです」


テンゾウ、と私は声に出して反芻する。忘れないように、何度も何度も、小さく小さく。初めてずっと覚えていたいと思えた人、絶対に忘れたくない。私は、今日ほど自身の覚えの悪さを呪ったことはない。テンゾウ、テンゾウ、テンゾウ。

馬鹿みたいに繰り返した。そして一歩一歩彼に近づく。彼は動かずに、私を受け入れてくれた。あの比とは違い、随分と背の高くなった彼。両手で彼の頬を包む込んだ。私の行動に少し驚いた表情。


「ねぇ、もっと色んな表情を私に見せて。私が、テンゾウを忘れないように一つ一つ覚えていくから。ねぇ、テンゾウ」


初めて人に見せる弱さ。子どものように縋りつく私を、テンゾウは変わらずに受け入れる。誰にも手を加えられず、ありのままの私をテンゾウは見つけてくれた。

野生種は目立たないほど小さく、か細い。それを改良して、どんなに豪華に着飾らせても、花はやっぱり元の場所で咲くのが一番似合っている。例え崖の上にあるひっそりとした場所でも、そこは花が根を下ろした場所。

でも私は、力強い花なんかじゃあない。しっかりとした根は、疾うに腐れてしまった。陽を浴びる葉は、見えない染みが皮膚全体を覆い、上手く呼吸が出来ない。ゆっくりと身体が朽ちていくのを日に日に感じていた。時間がゆっくり私を蝕んでいく。


「テンゾウ。こんな私を、先輩と呼んでくれて、ありがとう」


初めて口にした、愛の詞を告げる術を知らない私の精一杯の詞。赤いベゴニアには敵わないが、赤くなったテンゾウの表情。私は今、どんな表情をしているのだろうか。開けっ放しにしている窓から、風が吹き込み、テンゾウと私の髪を揺らした。ベゴニアも風に身を任せ、さわさわと動いているような気がした。






END.






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ありがとうございました。