致死量の優しさ
「坊ちゃーん」
陽気なハスキーボイスがおれを呼ぶ。
彼はひょいと右手を上げて、ウインクなんかもサービスして。
誰もがつられそうな笑顔でそこにいる。
「……ヨザック…」
つられると思ったのに涙が出た。
瞬きを忘れた両目から、流れ落ちる滴が止まらない。これじゃ、まるでギュンターだ。
「そんなに泣かないでくださいよ」
「……ごめん」
拳を作って目許を擦ると、彼が両腕を広げるのが見えた。飛び込んでおいでと言うように。
「坊ちゃんが謝ることなんてないんです」
たくましい腕に抱き寄せられる。こんなに近くにいるのに遠く感じる。
「ごめん」
涙まじりの情けない声で、おれは何度も繰り返す。
彼はうっかり惚れてしまいそうなほど立派な筋肉の持ち主だから、ふざけて抱きしめられる度、苦しいと悲鳴を上げたものだ。
今は、何も感じない。
「ごめん」
だから判ってしまう。
「ごめん」
これは夢だ。
おれの夢。
瞬きで彼の姿は消えてしまって、おれは独りで泣いているんだ。
頬に触れる枕がじっとりと濡れていた。
「くっそ……」
乱暴に目を擦る。止まらない。
こんな思いをするくらいなら眠らない方がマシだ。
眠るたび、彼の夢を見ている。
「練習熱心ですね」
感心したような台詞に反して、コンラッドの声はどこか苦かった。
「こんな真夜中にまで素振りですか」
「まあね」
惰性で繰り返していた動きを止める。心地いいとは思えない疲れが全身を襲う。
扉の開く音にも気付かなかった。
「なんでおれの部屋にいるの?」
「心配だったからです」
赤く腫れた目を見られたくなかったから、おれは振り返らなかった。
「なにが?」
僅かな逡巡の後、彼は答えた。
「今日はヴォルフラムがいないでしょう」
「おれ別に添い寝されなくても眠れるけど?」
むしろ迷惑だし、とうそぶく。
放り投げたバットがベッドの上で弾んだ。
コンラッドは黙っている。
無駄に広い部屋に足音だけが響いて、正面へ回ったらしい彼の長い足が視界に入った。
「ほら、おれの心配はいーからあんたももう寝なよ」
逃げるように腕時計へ目を落とす。
「地球時間で3時だよ。真夜中じゃん」
ややあってコンラッドがぽつりと零した。
「俺はいない方がいいですか?」
思わず顔を上げてしまった。
「陛下がそう望まれるのならば、すぐに出て行きますが」
直後、泣き腫らした目に気付いたらしい名付け親は、痛みを堪えるような顔でおれを見た。
彼のそんな顔は見たくないのに。
おれは唇を噛み締める。
やめた、と言って彼が深く息を吐いた。
「やっぱり出て行くのはやめました。例え不快に思われようと、朝までずっとここにいます」
不快だなんて。
「そんなこと思わないけど」
「それはよかった」
にこりと笑う。
「うちの弟の代わりに添い寝しますよ。子守唄つきで」
「子守唄って……いつものアレ?」
「はい。アレです」
地球の歌だ。ラブミーなんちゃらっていう。よく聞くと恥ずかしい歌詞がついてるやつ。
「さあ、ベッドへどうぞ」
「…うん」
とりあえず頷いたけれど身体が動かない。
ベッドにはバットが鎮座してるし。
――眠りたくないんだ。夢を見るから。
「……失礼します」
再び溜め息を吐いてから彼が動いた。
「ちょっ、コンラッド!?」
突然の浮遊感に瞠目する。
彼に抱き上げられたのだ。それはもう軽々と。
そのまま数歩分運ばれて、そっとベッドへ下ろされる。
「寝てください」
両目を大きな手の平で覆われた。熱を持った目許が冷やされて気持ちいい。
続いて、彼がぞんざいにバットを退かしたのが判った。ずいぶん扱いが違う。いや、人と物なのだから当然だけど。
ふわりと掛布を被せられ、胸の辺りをぽんぽんと叩かれた。
「大丈夫。もう悲しい夢は見ません」
優しい目。甘い声。
大切にされすぎて胸が痛くなる。いつも。
おれは何も返せないのに。
守られるばかりで、それどころか、きっと沢山のものを奪っていて。
おれを守って失った腕、おれのせいで失いかけた親友、それから。
それから。
疲弊した頭に浮かんだ言葉を、気付けば口に出していた。
「あんた、おれのこと恨んでないの?」
虚を突かれた顔で彼は幼子をあやすような手つきを止める。
「どうして?」
「だって、おれは……」
視線を逸らして天井を見上げた。
高すぎて月明かりも届かない。
真っ暗だった。
「おれは、あんたから大切な人を奪った」
噛み締めるようにその事実を口にする。
人は誰しも過去に生きて死んだ誰かの、犠牲の上に立っているのだろう。
戦でこの国を守って亡くなった誰かとか、創主たちと闘って封じ込めてくれた御先祖様とか。おれの場合は少し特殊で、次代魔王が使うからという理由で、魂を譲り渡してくれた人がいる。彼女の犠牲の上におれは立ってる。
「おれさえ生まれてこなければ、ジュリアさんは…っもが」
真剣に訴えていたのに間抜けな声が出た。手の平で口を塞がれたせいだ。
「うっかり求婚したくなるようなことを言うのは止めてください」
一瞬ぽかんとしてしまったが。魔族特有の風習を踏まえて意訳すると、平手打ちしたくなるようなことを言うな、といったところか。
顔を見れば、声を聞けば、コンラッドの言いたいことくらい判る。
どこら辺が彼の不興を買ったのかまではいまいち判らなかったけれど、不用意な発言を深く後悔する。
「二度と聞きたくありません」
それは怒りよりも悲痛さを含んだ声だった。
「……ごめん」
と言ったつもりだったが、伝わったかどうかは定かでない。口を塞がれたままだったので。
「いいです。聞かなかったことにするから」
漸く手の平を退かした彼が、疲れたようにおれの隣へ転がった。本気で添い寝するつもりらしい。
「ユーリ」
改めて口を開いたコンラッドの真摯な顔は、前髪が触れるくらい近い。
「どうか覚えておいてください。俺はあなたが生きているだけで幸せなんです。例え会うことができなくなっても。
あなたが生まれてきてくれてよかったと、本当に心から思ってる」
「……うん」
目を伏せたまま小さく頷く。
知ってる。
「あなたのためなら何を犠牲にしても惜しくないし、何もかも捨てられますよ、俺は」
「おれが王様だから?」
「いいえ」
コンラッドは答えを微塵も迷わなかった。
「ユーリだからです」
答えになっていないような気もしたけれど、それで十分だとも思った。
「俺がユーリを恨むのは、あなたを失いかけた時だけです」
「って、死にかけた時ってこと?死んだ時じゃなくて?」
「そんなこと、あってはなりません」
コンラッドはきっぱりと言い切った。
「俺が起こさせませんから」
彼曰くの“子守唄”を聞いているうちに、おれはあっさりと眠ってしまった。
やっぱりヨザックの夢を見た。
彼と抱擁を交わすおれの後ろに、ウェラー卿が立っている。
彼はヨザックに笑いかけて、ヨザックもにっこり笑い返して。
コンラッドはおれごとヨザックを抱きしめる。挟まれたおれは笑いながら苦しいと悲鳴を上げる。本当に苦しかったのだ。
これは夢ではないのかもしれない。
目が覚めると自室のベッドの上で、添い寝コンラッドと朝帰りヴォルフに、ぎっちぎちに挟まれていた。兄弟間で取り合いの喧嘩でもあったのだろうか。
寝苦しいはずだ。
「ゆめ、か」
判りきっていることを、突き付けるように呟いた。
「あれは、夢、なんだよな……」
夢があまりにも優しすぎて、大声を上げて泣きたくなった。
END
2013.4.23
title:capriccio
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