飛べないもの
眠れないと思っていたら、いつの間にか眠っていた。
──あなたは……
不愉快な夢を見た。夢というよりも、記憶だ。
何度も反芻させられる、記憶。
──そんな愚かな方ではないでしょう。
夢なんだから少しくらい救いがあってもいいだろうに。
暗く濁った目をした男は、一字一句記憶と違わぬ台詞を吐く。
魔石が床に叩きつけられた音で目が覚めた。
一人きりの部屋で窓の外を見上げる。真っ黒だった。
夜明けには程遠い空だった。
黒い服に着替えて部屋を抜け出す。警備兵の目を盗んで進んでいると、泥棒か侵入者にでもなったみたいで何だか笑えた。魔王なのに。
目的の部屋の扉はノックする前に開いた。
「こんな時間にどうされたんですか、陛下」
咎めるように他人行儀な言葉遣い。視線を上から下へ走らせて、彼の表情は更に怪訝そうなものへと変わった。
何も説明せず、抗議もせず、
「朝練行こうぜ、コンラッド」
それだけを言う。
場違いに明るくなってしまって、おれは一人で空回る。
「……まだ夜ですが」
淡々と揚げ足を取るあんたこそ、真夜中の癖に軍服じゃないか。
「じゃあ夜練?」
溜息だけが返された。
彼はずっと起きていたのか、それとも、この部屋へ向かうおれの気配を察しでもして、瞬時に着替えてみせたのか。有り得ないと言えないところが恐い。一番現実的なのは、おれの隠密行動なんて優秀な見張りの皆さんにはバレバレで、見て見ぬ振りをしつつコンラッドに報告していた説か。
どうでもいいけど、と思考を放棄。
言いっぱなしで答えも聞かずに踵を返した。長く国を離れていた引け目のせいか、最近少しだけ遠慮がちなウェラー卿は、魔王を捕まえて力尽くで部屋へ連れ戻すことができない。勿論おれを一人で行かせることもできないし、他の者に任せたりもしないだろう。だから待たなくて大丈夫。
静まり返った外は真っ暗で冷えていて、明け方ですらないことは明白だった。
外へ出てからは誰とも会っていない。まるで今も夢の中にいるようだ。
彼と二人っきりの夢の中。それも悪くないなと思う。
いっそ本当に夢でもいい。馬鹿なことをしている自覚はあるのだから。
いつものロードワークとは違う道を行く。所々明かりが燈っているけれど、走るには心許なくて、一歩一歩確かめながら歩くことしかできない。
過保護な護衛の声が追ってくる。
「一人で先に行かないで」
黒は闇によく溶ける。
すぐ後ろを歩いている癖に、見失いそうで不安になったらしい。
学ランを選んだことに理由はなかったのだけれど、目的を考えれば都合がいい。うっかり白ラインの緑ジャージを手に取らなくてよかった。
「足元に気をつけて。もう少しゆっくり歩いてください」
振り返らずに足を早めて、細い道を歩き続ける。
「……っ、ユーリ!」
今度は切羽詰まったような鋭い声。
「なんだよ?」
捕まえようとする指からひらりと逃げた。あんたはもっと早く止めるべきだったんだ。もっと早く捕まえておけばよかったのに。
悲鳴に似た声。
「その先には階段が……っ!」
──知ってる。
足を踏み出した。
空を飛んでみよう、だとか。子供じみた空想に耽っていた訳ではない。
人間は空を飛べない。人型の魔族ももちろん飛べない。おれだって今は飛べないだろう。上様モードになる理由がないから。
落下するだけだと知りながら飛ぶのは、あまりに夢がなくて寂しいと思う。
「……っユーリ!!!」
おれは飛んだ。正確には落ちた。石段のてっぺんから。
「……っ……!」
硬い地面に叩きつけられた瞬間は、声を出すこともできなかった。
「ユーリ!!!」
しんとした暗がりに彼の声ばかり響く。
ぎゅうっと丸まって痛みに堪える。しつこいくらいに名前を呼ぶ声が聞こえる。呼吸を続けることすら難しい。
軍靴が物凄い勢いで石段を駆け降りてくる。転がり落ちるんじゃないかと少しだけ心配した。
「ユーリ! 意識はありますか!?」
霞む両目に映った彼は、今にも泣き出しそうだった。
「ユーリ!」
清々した。
「……だい、じょーぶ。頭、は打って、ないよ」
絞り出した声で途切れ途切れに答える。
意識ははっきりしているし記憶も飛んでいない。落ちる途中で左足を酷く打っていて、当分立ち上がれそうにないけれど。
「足を見せて! この高さだ。どこか折れているかもしれない」
伸びてきた彼の手を払う。
「ユーリ!?」
とりあえず至近距離で喚くのを止めてほしい。
「平気だよ。自分で、治せる。あんたに、見せたって、治る訳じゃないし」
「そう、ですが」
敢えて冷たい言葉をぶつけると、コンラッドは悔しげに眉を寄せた。
動かせない両足に手を当てて、この前ギーゼラに教わった通り、少しずつ魔力を注いでみる。今はまだ色々なところが熱を持って痛むけれど、たぶん足以外は打ち身程度だろう。放っておいても治るはず。
流れた汗が入って目まで痛い。溜まった涙も一緒に零れた。自分の怪我を治すのは苦手だ。全く集中できやしない。
おれに触れ損なったコンラッドは、中途半端に屈んだ姿勢のまま動かない。何もできないことに歯噛みしながら、どうしてこんな事故が起きたのかを考えている。
「あなたは、この道を知っていた。ここに、階段があることも……」
確認するように、認め難いことを受け入れるための時間を稼ぐように、感情のない声でゆっくりと呟いた。
さすがコンラッド。あんたの推理は正しいよ。
あっさりと真実を見抜いてみせた男は、得意げどころか愕然として、言った。
「……わざと、落ちましたね?」
Yes以外の答えは有り得ないと確信しながら、否定してもらえることを望んでいるような。
「やっぱり判った?」
へらりと笑う。
「なに、笑ってるんですか」
地を這うように低い声だ。
「笑いたい気分だから?」
「……っ、ふざけるな!!」
敬語も忘れて怒鳴られる。彼がここまで激情を露にするのは珍しかった。
「どうしてこんなことをしたんだ!」
「どうしてって……」
それでも気圧されることはなく、おれは微笑ったまま平然と答える。
「あんたへの復讐、っていうか嫌がらせ、かな?」
「いやがらせ……?」
耳にした言葉の意味が理解できないとでもいうように、茫然とコンラッドが繰り返す。
「そうだよ。最近、同じ夢ばっか見せられるからさ」
「……どんな夢……?」
らしくなく無様に震えた声だ。何かを恐れているような。
「あんたに突き落とされる夢」
彼は顔を強張らせた。
気にせず続ける。
「で、あんたに仕返ししてやろうと思ってさ。すっきりすれば見なくなるかもしれないから」
いったい何をすれば仕返しになるのか、彼にダメージを与えることができるのか、眠れない夜に考え続けた。彼が顔を歪めたのはどんな時だった? 穏やかさをどこかに置き忘れてきたのは?
一人で過ごす夜はとても長くて、考える時間なら持て余すほどにあった。
「おれは、あんたを苦しめて、思いっきり傷つけたかったの」
集中力の欠如した治癒魔術でもそれなりに効いたのか、足の痛みは引いていた。魔王の魔力は伊達じゃない。これが魂の資質ってやつ? あんまりよく判っていないけれど。
平気そうだと判断し、まずは腕を使って慎重に身体を起こした。そのまま立ち上がろうとして失敗する。肩を掴んだコンラッドに邪魔されたせいだ。
「なんだよ」
近すぎる顔を睨みつけた。いつの間にか辺りは幽かに白み始めていて、瞳の中の銀まで見えそうだった。
「俺を傷つけてあなたの気が晴れるなら、好きなだけ殴って、切りつけていい。ユーリの身体さえ傷つかなければ、何をしてもよかったのに……どうして……」
しまいには泣き出す寸前みたいに声が途切れて、痛みを堪えるようにきつく眉を寄せる。
「殺された方がずっとましだ」
酷い言葉を平気で吐くから、やっぱりこの男は許せないと思う。
「だからだよ」と言って笑った。
「これは復讐なんだから、一番効果ある手段を選ぶに決まってる。コンラッドが一番傷つくのは、おれが傷ついた時だ。もう判ってるよ」
笑えるけれど彼の顔を見ることはできない。おれの両肩を掴む大きな手が、ふっと力を失った。
「……ユーリ……」
見なくても声を聞くだけで判る。目の前にあるのはズタズタに傷ついている顔だ。その顔が見たかった。見たかったはずなのに。
彼を視界から追い出すように俯いて、ぎゅっと胸の辺りを掴んだ。涙が出るのは痛いからだ。笑いながら泣いている。
「……おれたち、なんで、こんな風になっちゃったんだろ」
肩に触れていた体温が、馴染んでしまった頃にようやく離れた。
「おれは、なんでこんなことしかできないんだよ……」
痛い。痛い。体中が痛い。
痛くて涙が止まらない。
コンラッドは言葉を失くしたまま、子供のように泣き続けるおれを見ていた。
それから、彼にしてはぎこちない手つきで触れてきて、迷いながらおれを抱き寄せる。一番安心できる匂いに包まれて、吸いこむたびに痛みが遠くなる。コンラッドのせいで痛いのに、それを消してくれるのもまた彼だった。
ずっとこの腕の中にいられたら、おれは馬鹿なことなんか考えずに済むだろう。
「ユーリ」
聞き慣れた声が降ってくる。頑是ない子供を寝かしつけようとしている時みたいに、優しく言葉を繋いでいく。
「いいことを教えてあげます。俺はあなたが思っているよりずっと打たれ弱いので、あなたに余所余所しい態度を取られるだけで傷つくし、本気で大嫌いだと言われたら泣きますよ。それはもう、ギュンターにも負けないくらいの勢いで泣き暮らす自信がある」
嘘つけ、と思う。大嫌いだと言われてもコンラッドは泣かない。黙っておれの前から姿を消すだけだ。
「俺への復讐なんて言葉だけで十分だから、こんなことは二度としないと約束してください……っ」
穏やさを装いきれない声でされたそれは懇願だった。素直に頷いて謝ればこの話は終わって、何も起きなかったことになるんだろうか。
彼が待っていない言葉を伝えるために、顔は上げないまま口を開いた。
「おれは、嫌いだなんて言いたくない。あんたに冷たくするのも嫌だし、殴ったり切りつけたりもしたくない。傷ついてほしくないし、傷つけたくない。おれは」
もう、涙は止まっていた。
ゆっくりと息を吸って、吐く。みっともなく声が震えてしまわないように。
「おれはコンラッドのことが好きだから、大嫌いなんて言えないよ」
彼は何かを答える代わりに、縋るようにおれを抱きしめた。
少しだけ不規則になった呼吸が、おれの髪を揺らしている。今度こそ泣いているのかもしれなかった。
あんまり彼の力が強いから、黙っていられずに訴える。
「痛いんだけど」
更に腕の力が強くなった。
「いいんです」
両手の指が食い込んでいる。跡が残りそうなほど、強く、強く。
「いいんです」
譫言のように彼が繰り返す。
「ごめん」と口を動かした。それはとても小さな声で、その上くぐもっていたけれど、コンラッドならちゃんと拾ってくれる。
たぶん、本当は傷つけたかった訳じゃなくて。
動揺した彼の顔を見たかっただけ。あの時と同じようにおれが落ちたら、どんな顔をするのか知りたかった。そんなの、判りきっていたはずなのに。
くだらない夢に惑わされて、あんたを信じられなくなったおれが悪い。
2021.2.23
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