獅子と黒猫

1.三男閣下

その猫は地球式に「にゃあ」と鳴く。凶悪なゾモサゴリ竜と同じ鳴き声だが、地球では「めえめえ」ではなく「にゃあにゃあ」なのだと、生前ユーリが教えてくれた。だから血盟城に迷い込んできた黒猫は地球生まれなのかもしれない。ユーリと同じ世界から来たのかもしれない。
そう思ったところで気が触れてしまった次兄を倣って、「ユーリ」と呼ぶ気にはとてもなれないが。

現実と向き合うことに堪えられず、逃げてしまったのでしょうとギーゼラは言った。弱虫めと罵ることはできなかった。それも無理はないと思う。
ユーリはよりにもよってコンラートを庇い、あっさりと命を落としたのだ。どんなに強大な魔力を持っていようと、心臓に矢が刺さっては即死するに決まっている。治癒魔術を施す隙もなかった。
彼は矢が刺さると同時に魔力で水竜を操り、自分を殺した敵を追い払いもしたのだが、何にせよへなちょこな死に様だ。
一人の臣下の為に死ぬというあまりに王らしくない彼の行為は、その場に居た者以外には伏せられた。

葬儀を終えて二月が過ぎた今でも、多くの魔族がユーリというへなちょこながら最上の王を失ってしまった悲しみから、未だ立ち直れずにいるけれど。
コンラートだけは幸せそうだ。
いつも黒猫を抱いていて、あろうことかその小動物を魔王の名で呼ぶ。



その猫がとても愛らしいことは認めよう。ユーリに似て誰彼構わず愛想を振り撒く尻軽な猫だ。長兄も人目のないところではデレデレだった。
「にゃあと鳴く猫もいいものだな」などと零しながら、幼なじみの実験の餌食にされないよう、命懸けで守っているらしい。
人懐っこい黒猫のお陰で、城内は少しだけ明るさを取り戻した。
しかし、と思う。
いくら珍しい黒猫と言っても、猫は猫であってユーリではない。
彼は二度と戻らない。確かに死んでしまったのだから。
その死に様をこの目で見たのだから。







「おはよう、ヴォルフラム。今日は早起きだな」

「……コンラート」

今朝も石廊下で鉢合わせた次兄の肩には、黒い猫がちょこんと乗っていた。猫がこちらを見てにゃあと鳴く。ひょい、と右前脚まで上げている。

――おはよ、ヴォルフ!

ユーリにそう言われたような気がしてしまって、慌ててその場から立ち去った。どうせジャージ姿のコンラートは、猫を連れてろーどわーくに出掛けるのだ。立ち話で引き止めない方がいいだろう。

正気を失った彼にどんな言葉をかけるべきなのか、ヴォルフラムには全く判らない。
会話を試みてみたところで、あの黒猫がユーリなのだと、散々主張されるだけである。放っておくのが一番いい。思い詰めた果てに死なれるよりはずっといい。
何よりコンラートは本当に幸せそうなのだ。幸せそうに猫と生きているのだ。
ならばこれでいいじゃないかと、必死で自分に言い聞かせる。



去り際、コンラートの声が微かに耳に届いた。

「そんな顔しないでください、ユーリ。ヴォルフラムだっていつか信じてくれますよ」

黒猫はどこか寂しそうに、短く「にゃあ」と鳴いただけだった。



2.次男

葬儀が終わった夜に死ぬつもりだった。

確実性を重視して頸動脈を切るか、折角だから日本の侍のように切腹してみるかを迷ってはいたが、今夜死ぬことだけは決めていた。
ユーリを守るどころか死なせてしまった自分が、のうのうと生き続けていてはいけない。何より自分で自分を許せない。
椅子へ腰掛けて唇を歪める。

本当は、何度も死のうとした。けれどどうしても出来なかった。
ユーリの声が聞こえるのだ。

――夢に女の人が出てくるの。死んじゃだめって。まだ死んじゃだめって言うの。

かつてのゲーゲンヒューバーと同じだ。眠るまでもなく聞こえるのだからヒューブより酷い。
全く、情けなくて嫌になる。

埋葬されてしまえば幻聴も止まるはずだと根拠もなく思った。実際、今日はまだユーリの声を聞いていない。

「やっと、あなたに会いに行けますね、ユーリ……」

死に方の結論は出ないまま呟いて、とりあえず剣を鞘から抜いてみた。その、瞬間だ。

「コンラッドぉ!」

僅かな衝撃と共に想定外の邪魔が入ったのは。



「どうしよう!」

彼の声の幻聴が聞こえるのは、四六時中のことだから今さら気にならないとして。

「って、ちょっとおい!あんた何してんだよ!?」

飛び掛かってきたのは小さな猫だった。
可哀相になるくらい痩せっぽっちで、元の毛色が判らなくなるくらい汚れた子猫だ。
剣を構えたまま固まった。

「そんなことしてる場合じゃないんだって!大変なんだよ!」

膝の上に乗った猫はコンラッドの右腕をパシパシ叩いて、何かを訴えようとしているようだ。

「大変って、何がです?」

気付けば声の必死さに押されて、ぼんやりと子猫に尋ねていた。つい敬語で。
さすがに幻聴と会話したのは今夜が初めてだ。

「おれ、猫なんだよ!」

「……はあ」

まあ、猫は猫だろう。会話が成り立っているような気がする猫と出会ったのは初めてだが。

「はあ、じゃなくて!死んだ後、目が覚めたら猫になってたの!」

「ええと……元は違う動物だったんですか?」

まさか毒女、もといフォンカーベルニコフ卿の実験の餌食になった動物なのだろうか。元は羊だったとか馬だったとか。
有り得ないと否定しきれないところが恐ろしい。
死んだ後と聞こえた気もするが、それはきっと空耳だろう。

猫は腕を叩くのをやめていた。

「……あのさぁ」

ユーリと同じ黒い瞳で、じっとこちらを見上げてくる。

「あんた、おれのこと判らないの?」

その目が悲しんでいるように見えて戸惑ってしまう。

「小動物の知り合いはいないはずですが」

「だから、猫じゃなくて!おれは渋谷有利なの!」

とすん

剣を、取り落とした。
絨毯が床を覆っていたお陰で派手な音は立たなかった。
甲高い音が立てば正気に戻ることができたかもしれないのに。

それにしても、と思う。とうとう気が狂ってしまったらしい。
猫が「渋谷有利」を名乗るなんて、間違いなくコンラッドの妄想だ。正気の内にとっとと死んでおけばよかった。

それでも縋るように問い掛けてしまう。

「……陛下、なんですか?」

「陛下って呼ぶな」

不満そうにまた腕を叩かれる。
恐る恐る呼んでみる。

「……ユーリ?」

「そーだよ」

猫はこくんと頷いた。何となく満足げな顔だった。
やはり猫がユーリの声で話しているように感じる。話すというより、声が直接頭に響くような。

「ところでコンラッド」

声と身振りも一致しているように見える。

「おれ、猫になってから何も食べてないし、物凄くお腹空いてるんだけど。とりあえず食べられそうなものないかな?」

いきなり現実的な要求をされて、コンラッドは考えることを放棄した。
大変だ。ユーリがお腹を空かせている。大至急、食べ物を用意しなくては。

「厨房へ行って、もらってきます」

大真面目に子猫へそう伝えて、急ぎ足で自室を出た。







「魚とか、ないかな」

こんな遅くにどうしたんです、と聞く厨房係に、

「ユーリがお腹を空かせているから」

真顔で答える。

「……ええと……閣下?」

狂人を見るような目で見られてしまった。


3.陛下

このまま死んではいけないと強く思った。このままでは彼まで死なせてしまう。それだけは絶対に駄目だと思った。
おれのために傷つくばかりの彼を初めて守れたのに、死なれたら全く意味がない。わざわざ死んだ意味がなくなってしまう。
そもそも死ぬつもりはなかったのだけれど。

未練のせいか強い魔力のせいかは判らないが、

「にゃ、にゃーあ……?」

目が覚めた時には猫だった。

――なんで!?なんで猫!?

喚いたところで「にゃあ」としか聞こえない。猫は「めえ」ではなかったのか。

死の淵から奇跡的に生還したかったのであって、まさかこんな展開が待っているとは、想像もしていなかったのだ。呆気なくパニックに陥った。
それから城に戻ってくるまでのことは、実は殆ど覚えていない。







「ごちそうさまでした!」

放心状態だった彼が、二、三度瞬いてからこちらを見る。
声を出している訳ではないが、伝えたいことを思うだけで、何故かコンラッドには伝わるらしい。
一欠けらも残さず空になった皿を、おれは前肢で押し出した。カチャンと微かな音が立つ。

「……お口に、合いましたか?」

「うん。ありがと」

正直、長く続いた絶食のせいで、味など判らなかったのだけれど。
とりあえず落ち着けたと思う。
こんな事態になってしまっても、コンラッドはおれの言いたいことをちゃんと解ってくれる。そのことに何よりホッとした。

「ユーリ?」

恐る恐る伸ばされた掌へ擦り寄る。

「なんだよ名付親」

記憶にあるよりずっと大きい。

「本当にユーリなんですか?」

大きくて少し震えている。

「信じてくれねーの?」

包み込むようにそっと撫でられた。

「信じていない訳では……」

彼は困惑顔で言葉を濁しながら、おれを棚の上に乗せてくれた。助かった。
遥か上にある顔を見上げすぎて首の辺りが痛くなってきていたし、見下ろし続けるコンラッドだって、そのうち腰を痛めるかもしれない。これでやっと自然に顔を合わせることができる。
隣には黄色いアヒル船長。

「しかし一体どうしてこんなことに……」

眉間に皺を作ったコンラッドが改めて聞いてくる。

「……実はおれもよく判ってないんだけど」

本当に、どうしてこんなことに。
それを問いたいのはおれの方だ。

「死んで、目が覚めたら猫だったとしか……説明しようがないんだよなぁ」

死という言葉を口にした瞬間、彼の身体がビクリと揺れた。
気付かなかった振りをして、殊更明るい声で続ける。

「もう、ここに来るまでが大変でさ……なんせ死んだ時と同じ村で目が覚めたし、猫だから馬にも乗れないし、あんた達は王都に戻った後だったし、仕方なくこっちへ行きそうな馬車に潜り込んで、乗り継ぎ乗り継ぎ来たって訳。すっげえ時間かかったけど、あんたが死んじゃう前に戻ってこられて本当によかったよ」

そこまで一息に言い切った。途中から得意のトルコ行進曲。
彼が何度も口を挟みたそうな顔をしていたので。

仕上げに軽口を叩いてみる。

「あんたもさ、おれが死んだくらいで死のうとするなよ」

「……あなたが、死んだくらいで……?」

ぴく、と彼の眉が上がった。まずい。失言だった。

「俺にとって、ユーリを失うことがどんな意味を持つのか……」

不気味なくらい静かな口調で聞かれる。

「あなたには判らないんですか」

「……判ってるつもり、だけど……」

ぼそぼそと答える。

「だったら!」

コンラッドが悲痛な声を上げる。

「どうして俺を庇ったんだ!?」

どうして、だったんだろう。あんたがいつもおれを守る理由と同じだよとか、彼の真似をして「つい」なんて答えたら、ますます怒らせそうだから黙っていた。

「あなたは王で、俺は臣下です!陛下が護衛を庇ってどうするんです!おかしいでしょう?」

おかしくはないと思う。おれにとってコンラッドは臣下じゃなかった。誰よりも大切な人だった。

「……もう陛下じゃないよ」

おれは少しだけ迷ってから、一番言いたいこととは違う答えを返す。
結果としてあんな死に方を選んでしまったおれに、陛下と呼ばれる資格なんてない。

「死んだんだし」

「ユーリは生きているじゃないですか!!」

はっと胸を突かれるような声だった。

「死んだ、なんて、そんな悲しいことは……二度と言わないでください」

「……ごめん」

コンラッドは目を伏せたまま黙っている。
ちゃんと彼に伝わるように、おれはもう一度繰り返す。

「猫になんかなっちゃって、ごめん」

けれど、そう言ってうなだれた後に降ってきた言葉は。

「それは、別にいいんです」

「……え?」

意外にもあっけらかんとした響きで。

「あなたが生きていてくれるだけでいいんです。猫でも羊でもゾモサゴリ竜でも、中身がユーリなら同じだから」

「コンラッド……」

泣きたいような想いで見つめた先には、いつもの柔らかな微笑みがあった。

「……ユーリ」

胸が痛くなるくらい、聞き慣れた響きで名前を呼ばれる。
常の穏やかさを取り戻した口調で彼が問う。

「どうして、あんなことしたんですか」

とても穏やかで、優しくて、それでも悲しそうなのだった。

「……ごめん……」

他に言葉が見つからなくなってしまうほど。
謝らなくていいからありのままのことを話してと、悲しそうな目が聞いている。
おれは肢元に視線を落とした。理由なんて複雑に絡み合っていて、どう話せばいいのか判らない。
とりあえず思い付いたことを言ってみる。

「……弓矢には、あんたの弟と小シマロン王のせいで色々トラウマがあってさ」

いや待て待て、責任は刈りポニにあるのか。サラレギーの場合は……複雑な家庭の事情って奴だからここでは置いておいて。
ヴォルフもサラも死ななかったけれど、それは強運が味方してくれたお陰だ。三度目も上手く助かるとは思えなかった。

半ば上の空状態で、続ける。

「気付いたら体が動いてた、っていうか……」

あの音と、瞬間感じた恐怖を、おれは今でも鮮明に覚えている。
そういえばおれの身体に矢が刺さった時も、同じ音が聞こえたのだろうか。音なんて聞いている余裕がなかった。


これ以上のことは聞き出せないと悟ったのか、諦めたように溜め息をついた彼が質問を変える。

「あの時あなたが使った魔術は、襲ってきた者たちを懲らしめるためではなかった。違いますか?」

既に確信している響きだから、問い掛けではなくて確認だった。そもそも、単純なおれの思考回路なんて、彼はとっくに読めていると思う。
読めているコンラッドはおれの考えを聞きたいんじゃなくて、責めて咎めたいんだ、きっと。

「奴らを追い払うのと同時に俺たちも近付けないようにして、殺させまいとしたんでしょう?」

恐る恐る、聞き返した。

「……殺してないよな?」

「ええ」

再度の溜め息と共に彼が頷く。

「お蔭で殺し損ないましたよ。確か、吹っ飛ばされた先で茫然自失状態だった奴らを、我が国の兵が捕えた、はずです……たぶん」

……たぶん?

ずいぶん曖昧な表現だ。何でも完璧に把握している彼らしくない。
珍しいなと僅かに首を傾げた。
見て取った彼は苦笑を返す。どうでもよかったんです、と言う。

「奴らがどうなろうが誰が死のうがどうでもよかったんです。あなたが姿を消していた間は。本当に何もかもどうでもよかった」

「……」

言葉が、出なかった。

「ねえ、ユーリ」

頭の後ろから背中にかけてを、傷の位置まで覚えた掌が撫でている。

「どうしてご自分が死にかけている時に気にかけるのが、その原因を作った奴らの命なんです?魔力を使うことができたのなら、あなたの体を治すために使うべきだった」

形を確かめるように耳へ触れる節張った指。ああ猫なんだなと今更思う。

「……おれの体は、もう駄目だって判ってたし。それに、気にしてたのは襲ってきた人たちのことじゃない。あんたとあんたの弟のことだよ。私怨で人殺ししてほしくないっていう、ただのおれの我が儘」

銀の星が散った瞳が揺れた。

「それにあの矢……なんか、すごく嫌な感じがしたんだよね。あの時おれだけ気付けたってことは、もしかしたら法術がかかってたのかもな」

今となっては真相は闇の中だが。

力の抜けた彼の手が離れていく。それから体の両脇で拳を作る。白くなるほど握られている。
縫いぐるみよろしく棚に納まった猫は、悔しそうな両手に届かない。

「……あなたを、守りたかったのに……俺はあなたに守られてばかりだ」

そう零してコンラッドは目を伏せた。

「そんなことないって!」

例の如く盛大に自分を責めているのだろう彼に、慌てて明るく言い募る。

「なあ、そんなに凹むなよ。おれはちゃんと生きてるんだし」
死んでないって、生きてるって、そう言ったのはあんただろ?

「……ユーリ……」

凹むとかそういうレベルの話ではないことは、もちろん解っているけれど。何せついさっきまで死のうとしていた男だ。


暫く黙りこくっていたコンラッドが、殊更ゆっくりと口を開いた。

「……あなたの、優しいところが好きです」

好き、なんて言いながら不機嫌そうで、悲しそうな顔だった。
猫になったおれを睨みつけて、瞬きもせず睨み続けて、

「好きなんです」

とうとう泣き出した。
涙を拭ってやれないことが悔しい。
こういう場合、犬猫は舐めとってやるものだよなと思い、身を乗り出したら落ちかけた。
コンラッドがしっかり抱き留めてくれる。おれの体に温かい雫を落としながら。

「……おれも、あんたの優しいとこ、好きだよ」

いつもおれのことばかり気にしていて、何を犠牲にしても守ろうとしてくれるとこ。

好きだけど、時々大っ嫌いだった。





広い胸へ押し付けるようにして抱かれてしまったため、結局涙は舐め損なった。
抱かれるといってもおれは子猫で、手の平がそうっと添えられている程度だ。
込め損なった力と両腕を持て余して、切なそうに彼が苦く笑う。

「早くあなたを思い切り抱きしめたいので、たくさん食べて大きくなってください」

猫がどんなに成長したところで、加減なく抱きしめられるほど大きくはならないんじゃないかな、と思った。それともぶくぶくに太らせるつもりだろうか。

それはちょっと勘弁してほしい。



4.お庭番

帰国して事の顛末を聞いた時は真っ先に、よく後を追わなかったなと思ったものだ。
情報規制ゆえ、民には知られていないだけかもしれない。彼も死んでいる可能性は十分にある。
遺体と体面する覚悟までしていた。本気で彼の身を案じていた。それなのに。
悲壮な覚悟を持って血盟城へ戻ってみれば、不気味なくらい穏やかに笑う隊長がいるじゃないか。しかも右肩の上には黒猫が。

「……どうしたんだ、その猫」

さあ聞け、という無言の圧力を感じ、とりあえず逆らわずに尋ねてみた。
「猫じゃない」と隊長が言う。
いやいやどこからどう見ても猫だろう。
そんな突っ込みを入れる前に彼は続けた。

「ユーリだ」

「…………は?」

一度目は全く理解することができなかった。

「ユーリなんだ」

辛抱強くもう一度繰り返される。

「…………はあっ!?」

まさかこの男、自分が連れている小さな猫こそが陛下だと、そう主張したいのだろうか。

暫し茫然とした後に、

「……なあ、隊長」

ヨザックが返せた言葉はただひとつ。

「あんた、頭は大丈夫か?」

あまりのことに、最愛の主を失った男のために用意しておいた、慰めの言葉百選を全て忘れた。



案の定、幼馴染はあからさまにおかしくなっていた。陛下が絡むと途端に脆くなる奴なのだ。
生きているだけマシだろうと、周囲の者たちは既に諦めた後だった。

「ああなってしまうのも、仕方がないだろう」

眉間に皺を寄せて彼の兄が言う。

「アイツのことは気にするな。放っておけばいい」

よく似た渋い表情を浮かべて、ぎゅうっと眉を寄せた末っ子が言う。
それでも、とヨザックは思う。
実の兄弟すら匙を投げていても、彼を諦めることができなかった。かつては本気で尊敬し、どこまでもついていくことを誓い、誰よりも信頼していた男の精神が崩壊していく様を、何もせずに傍観している訳にはいかない。何より。
今の彼の姿を目にしたら、ユーリ陛下もきっと悲しまれる。







「にゃーあ」

ゾモサゴリ竜ではなく猫が鳴く。
懐からちょこんと愛らしい姿を覗かせたそれに、早くも先が思いやられた。

「こんなところに連れてきてやるなよ。可哀相だろ」

少しでも気晴らしになればと、とりあえず馴染みの酒場へ連れ出してみたのだが。

「置いていった方がお可哀相だ」

小動物の連れ込みに関しては、いつの間にか店に話を通してあったらしい。注意をされることもなかった。

「ユーリもお前と話したがっていたんだからな」

ねえユーリ、と猫の頭を撫でるかつての上司に、返す言葉が見つからない。
ただの猫だろ、と言っても無駄なことは判っている。既に彼の耳に蛸ができるほど言ってやった後だ。

「ユーリはミルクでいいですか?」

コンラッドの言葉を理解しているのか、ただの偶然なのか、猫がこくこくと頷いたように見えた。
みるく、とは確かアレのことだろう。

「おかみさん、山羊乳ひとつ」

ヨザックはやけくそで注文した。陛下と猊下と隊長のお陰で、あちらの言葉には詳しい方だと自負している。
そういえば、長いこと国から離れていたせいで、猊下ともまだお会いしていなかった。

――大丈夫だろうか。

ふと思う。あの方は陛下の親友だった。下手したら隊長と同じくらい参っているかもしれない。

「にゃーあ」

ゾモサゴリ竜、ではなく黒猫の鳴き声で思案が途切れる。正体は猫だと解っていても、この声を聞くと警戒心を抱いてしまうのだ。

「ユーリ、他に何か食べたい物は?」

そんな凶悪な鳴き声を上げる猫に、彼が胸やけしそうなほど甘ったるい声をかける。猫を見つめる柔らかな眼差しは、愛しの陛下へ向けていたものと丸っきり同じだ。
見ていられなくなって目を背けた。店員の愛想笑いも引き攣っているじゃないか。
人目があると話し辛いこともあるだろうと、個室めいた場所を確保しておいて本当によかった。少なくとも他の客からは変な目で見られずに済む。



ほどなく運ばれてきた酒と山羊乳で乾杯した。とりあえず互いの無事を祝って。
山羊乳が入った平たい皿にも、杯をぶつけることを強要された。何だか妙な気分だ。
ペロペロと一心に山羊乳を舐める猫の姿を、彼は幸せそうに見守っている。熱心すぎる視線が気になったのか、猫が顔を上げて「にゃあ」と鳴く。

「……コイツなら平気だと思いますけど」

「にゃーにゃー」

可哀相に、正気を失った幼馴染が、また猫と大真面目に話している。
ところでコイツとはヨザックのことだろうか。

「判りました。貴方が気になるなら聞きますよ」

「にゃー」

いたたまれなくて半分以上聞き流してはいるが、それにしても絶妙な頃合いに鳴く猫だ。会話がちゃんと成り立っているのだと、彼が思い込んでしまうのも無理はない、と思ってやれないこともなくはない。かもしれない。

「それで?」

ようやく動物以外と話す気になったらしい男が、ヨザックの方を向いて言った。

「任務中に危険はなかったか?今回もずいぶん長かったようだが」

思わず耳を疑った。
陛下を失った衝撃があまりに大きかったせいで、性格まで激変してしまったのかと。
ヨザックは恐る恐る口を開く。

「隊長がオレの心配するなんて……どういう風の吹き回し?」

嬉しいというより不気味である。

「お前の心配なんかするか」

冗談じゃない、と言いたげな顔で、めんどくさそうに隊長が答える。

「俺じゃなくてユーリが聞いてるんだ」

「……坊ちゃんがねぇ」

確かに陛下なら心配もしてくださっただろうが。
コンラッドは、たった今猫がそう言ったのだと、すっかり信じ込んでいる訳で。

「見て判る通りオレは元気ですよ、坊ちゃん」

投げやりに答えて杯を空にした。
今夜は大いに飲みたい気分だ。潰れるほどに飲みたい気分だ。



彼が猫と話す度にげんなりして杯を空け、それでも何とか彼を正気に戻そうと言葉を尽くす己の姿も、端から見たら馬鹿みたいに思えるのかもしれない。

「隊長、いい加減現実を受け入れろよ」

トン、と杯を置いて諭すように言う。底に残っていた辛い酒が跳ねた。

「坊ちゃんはもうどこにもいない。真っ白くて真ん丸い魂になって、新しく生まれてくる誰かのものになる。スザナ・ジュリアと同じだろ?」

敢えてその名を口にした。コンラッドも猫も黙っている。

「死んだ者は決して戻らない」

残された者達がどんなに願ったところで、返してくれと誰かに縋ったところで、死人が息を吹き返すことはないのだ。だから、どんなに受け入れ難い現実でも、いつかは受け入れなくてはならない。

「陛下がどうして命を落とされたのかは、あの場にいたあんたと三男閣下しか知らないことだし、オレみたいな下っ端は想像するしかないけどな」

ずいぶん酒が回っているせいか、泣きたいような笑みが零れた。
真っ直ぐで正義感の強い陛下なら。魔族にも神族にも人間にも、その手を伸ばし続けた坊ちゃんなら。

「あのお優しい陛下のことだ。誰かを守って、誰かの為に、その貴い命を落とされたんだろう。国民はみーんなそう思ってる。そりゃあ一国の王として褒められた行為じゃねえが、あんた、誰よりも陛下の傍にいたんだろ?坊ちゃんの気持ちを解ってやれよ」

「……解らない」

呻くような暗い声にハッとして彼を見た。

「コンラッド……」

「解らない。解りたくもないし、ユーリは生きてる」

ここにと言って、猫を見る。
にゃあ、と小さく猫が鳴いた。

「ヨザック、お前にも見えるだろ?」

彼の声が、表情が、次第に険しさを増していく。生きていると譫言のように繰り返し言う。
どんな言葉を返せばいいのか、もう、判らない。幼馴染の姿がただ痛ましかった。

「絶対に、死んではいけないんだ!」

悲鳴のような声が胸に突き刺さる。
仕方ない、とヨザックは思う。
彼は、誰よりも陛下を愛していて、自分の命など何度投げ出してもいいほどに、大切に大切に想っていて。

「あの時、ユーリは、俺を庇って矢を受けたんだぞ!?俺なんかを庇って!」

両目を見開いた。視界の端でびくりと猫が震えた。

「あんな死に方、されて堪るか!!!」

彼は押し殺した声で慟哭する。

――ああ。

思わず天を仰いだ。薄汚れた天井があるだけだった。

――さすがにそれはあんまりですよ、坊ちゃん。

恨み言すら、もう、聞かせる術がないのに。

「ユーリ……」

ほんの一時だが、彼を正気に戻すことはできたのだろう。今の彼は目の前にいる猫ではなく、失った陛下を想って泣いている。
用意しておいた慰めの言葉は、やはり役に立ちそうになかった。ヨザックは、何もできない。

力無くうなだれた男の頬を、懸命に黒猫が舐めていた。

「……ユーリ」

虚ろな目が猫へ向く。
ごめんなと繰り返す陛下の声が、その時、確かに聞こえたのだ。

「にゃあにゃあにゃあ」

おれはここにいるから、泣くなよ。


受け入れない方がいい現実だとか、信じてもいい夢みたいな話だとか、そういうものがあってもいいのかもしれない。一人と一匹の姿を見ていたらそう思えた。



「……なぁ、隊長」

ヨザックはおもむろに口を開く。

「それから、坊ちゃん」

親しみを込めて、そう呼んだ。
幼馴染と猫、ではなく陛下が、弾かれたように顔を上げた。
元上司の何とも情けない顔に、にやりと笑って言い放つ。

「付き合ってやるよ、その酔狂」

「ヨザック……」

ルッテンベルクの獅子と呼ばれた男の泣き顔なんて、直視しないまま一生を終えたかったのだが。

「ただし、坊ちゃんの言葉は、あんたが正確に通訳しろよ」

オレにはゾモサゴリ竜の鳴き声にしか聞こえないんだからな、と付け加える。

「にゃあにゃあ」

どこか嬉しそうに猫、いや陛下が答えた。軽口を叩く時の彼に似た悪戯っぽい瞳。

「で、今は何て?」

途端、コンラッドは顔を背け、しかめっ面で通訳した。

「……相変わらず素敵な上腕二頭筋で惚れそうだと」

確かに彼の黒い瞳が、ヨザックの腕の辺りを見つめている。
猫=陛下説を信じられるような気がしてきた。


2014.5.9




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