やすらかにねむれ

 さあ受け取りなさい、と言う。あなたのために用意したのだから、と。
 おれのためになんて言われたら、受け取るしかなくなるじゃないか。
 断り文句の「結構です」が喉奥に詰まり、口ごもりながらお礼まで言ってしまった。押しに弱すぎて情けない。
 色々と諦めたおれは半笑いで、見下ろす先の顔は満足げに笑っている。

 やむを得ず受け取ってしまった“それ”からは、胸が締め付けられるほど懐かしい匂いがした。







 ベッドが狭い。狭すぎる。

「……ってー!!」

 フローリングの床へ落ちた衝撃で目が覚めた。間違いなく蹴り落とされたんだろう。犯人は呑気に珍妙な鼾をかいている。
 涙目で腰を摩りながら起き上がり、無駄に装飾の多い掛け時計を確認した。デザイン性重視すぎて時間が判り辛いのが玉に瑕だ。
 起床時間30分前であることを読み取って、泣く泣く二度寝を諦めた。どうせまた蹴り落とされるのだ。
 暗いなと思ってカーテンを開ける。窓ガラスは濡れていて空は灰色。寝ぼけ眼で見下ろした先、曇り空より暗いグレーのワゴン車が一台、まだ静かな住宅街を駅の方へ抜けていった。 
 この天気では早く起き出しても意味がない。いつも通り目覚ましを待つことに決めて、ベッドの端に両肘をつき、二つ並んだ寝顔を観察する。

「……寝てる時だけは天使なんだよなぁ……」

 もちろん、寝てる時限定なのは夜も朝もおれを蹴り落とすわがままプーの方で、愛娘は起きてる時も寝てる時もいつでも天使。
 目の中に入れても痛くないほど可愛い娘と金髪美少年が寄り添い合って眠る光景は、微笑ましくて口元も緩むけれど。
 どう考えてもシングルベッドに三人は狭い。おれのベッドなのに毎日おれが落ちる。娘まで蹴り落とさないことだけは褒めてやろうと思う。
 まだまだ小さいグレタなら、毎晩でも大喜びで迎え入れよう。けれどヴォルフラムはお断りしたい。彼が割り込むと定員オーバーなのだ。おれと同じくらいの体格だし、高校生だし、男だし。
 おれとグレタとヴォルフラム、それからできればコンラッドも。皆で仲良く眠りたいのなら、魔王仕様の特注品、キングサイズのふかふかベッドを用意しないと。

「……魔王がふかふかベッド?」

 ――なんかで眠らないよなぁ。

 ふと引っ掛かって、首を捻る。
 魔王と言ったらラスボスだ。魔王だって睡眠や休息は必要だろうが、どんなベッドで眠るのかなんて今まで考えてみたこともなかった。
 勇者と魔王とふかふかベッド。変だけど合っているような気もして、理由は『何となく』以外に見つからない。

 欠伸が出たから考えるのを止めた。



 コンコン

 軽いノック音が響いた直後、今朝も時間に正確な目覚ましが聞こえた。

「おはよう、ユーリ」

 というか来た。

「おはよーコンラッド」

 この家では家主が目覚ましだ。エプロン姿で必ず起こしに来てくれる。
 もれなく付いてくるおはようのキスは余計な機能だが。

「雨なのに早起きですね」
「起きたくて起きた訳じゃないよ」

 ぼやくように、そう零した。彼はすぐに事情を察したらしい。

「……またうちの弟ですか」

 やれやれ、とヴォルフラムを見遣ってから、申し訳なさそうに眉を下げる。

「すみません。いい加減グウェンのところへ帰らせますか?」
「……そこまでしなくてもいいけどさ」

 曖昧な答えになってしまった。いなくなることを考えたら寂しい気もする。何だかんだで部屋から追い出せない気もする。

 一緒にいたいんだ。コンラッドともヴォルフラムともグレタとも。離れるのは嫌だと強く思う。

「俺の部屋に来てくれればよかったのに」

 学ランを手渡しながらコンラッドが言う。一瞬だけ触れた指先が冷たかった。

「あんた遅くまで仕事してただろ。コンラッド先生の邪魔なんてできないって」

 わざと先生と付けてみた。油断すると学校でも付け忘れるのだが。

「ユーリを邪魔になんて思わないよ」
「そういう問題じゃなくてさ……」

 なら何が問題なのかと聞かれても、コンラッドには言えない。言葉が続かなくて口ごもる。
 邪魔したくない、なんて建前の理由でしかないし、あんたが悪い訳じゃないんだし。どちらかというと悪いのはおれの方かもしれない。
 困っている様子を見かねたのか、

「せめて着替えを手伝っても?」

 コンラッドが悪戯っぽくそう言って、パジャマの衿元を引っ張った。冗談なのか本気なのか判らない。
 着替えだけで終わらない気がして丁重に断る。朝っぱらからそんな展開は嫌だ。忘れてるみたいだけどグレタとあんたの弟が寝てるから!
 意外とあっさり引き下がった彼は「残念」と肩を竦め、残る居候達を起こしにかかった。気を取り直してボタンに手をやれば、上から4つは既に外れていた。なんて早業だ。



 廊下に出ると朝食のメニューが判る。

「あ、今朝はカレーなんだ」
「美子さん直伝の味ですよ」
「懐かしいなぁ」

 思わず顔を綻ばせたおれに、愛娘から横槍が入った。

「なに言ってるのユーリ。カレーは一昨日も食べたよ」
「一昨日食べたのはタイカレーだろ」

 それとも別の種類のカレーだっただろうか。

「コンラートに任せるとカレーばかり出てくるな……」

 まだ半分以上眠りの世界にいそうなヴォルフが言う。欠伸まじりでやる気のなさそうなクレームだ。

「文句があるならお前作れば。ていうか自分の家に帰れば」
「どうしてそうなる」
「三食豪華飯出てきそうだろ。知らないけど」
「じゃあねー、今夜はグレタが作る!」

 キラキラした瞳で宣言する娘を見て、睨み合いかけていたおれ達は途端にデレっとなった。

「よーし、お父さんと一緒に作ろうな!」
「ぼくも手伝うぞ!」

 今やヴォルフの目もぱっちりと開いている。グレタの可愛さに目が覚めたらしい。
 親馬鹿で結構。グレタは可愛い。

「手伝うって、お前は部活あるだろ。絵画コンクール近いんじゃなかったっけ」
「そうだった。ユーリ、今日こそモデルをやれ」
「お前の絵にモデルはいらないと思う……あれ、おれじゃなくて狸だし」
「何を言う!どこからどう見てもユーリだろうが!」
「はいはい、ユーリもヴォルフもそれくらいにして。遅刻するよ」

 見かねたコンラッドに止められて、決着はつかないまま終わったが。
 懐かしい味のカレーをかき込みながら、ちらりと電話台の横を見た。額縁に入れて飾られた、おれの肖像画らしきもの。
 やっぱりあれは狸だと思う。


 先に出てしまったヴォルフラムとグレタを追い掛けて、慌てて黒靴を引っ掛ける。
 登校は一緒に、が渋谷家のルールだ。家主はコンラッドだからウェラー家になるのかもしれない。
 フォンシュピッツヴェーグ家次男のウェラー・コンラート、末っ子のフォンビーレフェルト・ヴォルフラム、色々あって渋谷家の養女になったグレタ。
 渋谷が二人いるから渋谷家でいいかと適当な結論を出したところで、

「ユーリ」

 コンラッドに呼び止められて振り返る。
 少し屈んだ彼の笑顔が近付いて、目をつぶったら唇が触れた。

「いってらっしゃい」
「……いってきます」

 嫌な訳ではないけれど、この習慣は気恥ずかしくてダメだ。ボストン帰りめ、と心の中で悪態をつく。
 そもそも、「いってらっしゃい」を言う必要はあるのか。

「ユーリー!コンラッドー!おいてっちゃうよー!」
「何をやっているんだ!早くしろー!」

 ドアの向こうから痺れを切らせた二人の声が聞こえる。

「あんたも一緒に出るんだろ!早く靴履けって」
「はい、すみません」

 少しも悪いと思っていない声だ。おれはコンラッドを待たずに、勢いよくドアを開け放つ。
 明け方の雨は止んでいた。

「おまたせ!」

 スーツ姿の彼が続いて鍵を閉める。
 もちろんコンラッドも登校は一緒に。うちの高校の教師である彼の出勤時間に合わせて、早目に家を出ているので。



 小学校の前でグレタを見送った。コンラッドは見送りに参加せず、まっすぐ高校へ向かっている。
 真っ赤なランドセルをカタカタと鳴らして、小さな背中が駆けていく。
 グレタと赤いランドセル。何度見ても涙ぐみそうになる組み合わせだ。嬉しくて。

「おはよう、パキリ!」

 さっそく友達を見つけたらしい。元気な声が遠く聞こえた。
 友達が多いのはいいことだと思う。友達ならば。

「パキリって何だ。男か」
「……男だよなぁ」

 そこのところはお父さんとして気になるけれど。

 曇り空の下を数分歩けば、すぐに高校の門が見える。







「……リ!ユーリ!」

 名前を連呼する聞き慣れた声に起こされた。
 おれは授業の途中で眠ってしまう夢を見ていた。夢の中でまで寝なくてもいいのに。
 突っ伏していた顔を上げればホームルームの真っ最中で、けれど開け放たれた前方のドア前には、隣のクラスのヴォルフラムが立っている。教壇の上の教師より偉そうな態度で腕を組んで、「今日こそ逃がさないぞ」と息巻いている。担任含めクラス全員の視線を集めてしまっていることなど、全く気にならないようだ。

「今朝約束しただろう」
「してねーよ!」

 あれ?してないよな?
 どうしたことか記憶が曖昧なので、間髪入れず言い返した後で少し不安になった。
 朝起きたところから順番に思い出してみる。
 いつも通りヴォルフに蹴り落とされて、コンラッドが起こしに来て、グレタを小学校まで送って。授業はコンラッド先生の英語から始まって、数学と現代文と理科で頭を抱えて、クラスメイトと昼食をとったところまでは覚えている。その後たっぷり昼寝してしまったんだろう。時間割によると寝過ごした午後は公民と家庭科。
 大丈夫だ。何にも欠けてないし約束もしてない。

「おれは今日グレタと夕飯作るんだって!」
「渋谷……」

 今度は聞き慣れない男の声が割り込んだ、と思ったら担任だった。
 いつの間にかヴォルフラムの二の舞になっていたおれは、教室中の視線を彼と二分している。

「すみません!」
「いや、いい。もう終わるところだから」

 帰っていいぞ、とぐったり疲れた顔で言われる。わがままプーに免疫がなかったせいかもしれない。
 すかさずヴォルフラムが言う。

「よし終わったな。早く行くぞ!」
「行かないからな!」

 言うや否やカバンを掴んで席を立ち、色彩豊かなクラスメイト達の間をすり抜け、後ろのドアから逃げた。

「待てユーリ!!」

 すぐにヴォルフラムが追ってくる。廊下は走らないように、という担任の声も追ってきた気がする。あっという間に遠くなったが。
 ところで先生の名前を思い出せなくてすみません。



 鬼ごっこは長引いていた。
 先ほど謝り倒しながら駆け抜けた昇降口前の喧騒が嘘のように、この建物に入り込んでからは誰とも会っていない。放課後の浮き足だった空気も感じられず、授業中に校内を走り回っているみたいだ。二人分の足音が、乱れたり稀に重なったりする。
 あっという間に突き当たりの階段前まで来た。外へ出るための扉もあるが、中庭に繋がっているだけだから意味はない。上へ逃げるのが正解だろう。そろそろかくれんぼに変更してほしくなってきた。
 雨天時の足腰強化トレーニングだと自分に言い聞かせて、駆け足で一気に階段を上る。2階、3階。踊り場の窓に雨粒が当たっている。
 4階に着いた。流石にここまでは追ってこないはずだ。適当な教室にでも隠れて、ヴォルフラムが諦めた頃に帰ればいい。
 鍵の開いている部屋を探しながら、病院みたいな白っぽい廊下を進んでいく。薬品の臭いまでしてくるようで、これは気のせいであってほしいけれど。
 ところで特別教室棟の4階には何があっただろう。
 あれ?近付かない方がよかったような気が……
 おれが何かを思い出しそうになった瞬間、右手のドアからオレンジ色がひょっこり覗いて、言った。

「あれ、坊ちゃん?何してるんですー?」
「グリ江ちゃん!ちょうどよかった!」

 全く深刻さのない声を聞いて安心する。ここが怪談スポットとして語られていたのか、それとも実在する何かだったのか、なんてことを思い出す必要はなくなった。
 だってヨザックが居るんだから、どんな危険が降りかかっても大丈夫。例え敵が学校の怪談でも、打球を真芯で捉えて外野まで運べる強打者でも、立派な上腕二頭筋で守ってくれそう。
 とりあえず匿ってくれと頼むと、「狭いところですが、どうぞ」と言いながら、すぐにドアを開けてくれた。薬品の臭いが濃くなった。どうやら発生源に踏み込んでしまったらしい。慌てて見上げた先に「化学準備室」のプレートが。

「……なんでこんなところにいるの?」
「アニシナちゃんの実験台にしてもらおうと思って待ってるんです。全然戻ってきませんけどねー」

 今日はダメかもなー、と残念そうな顔でぼやいている。せめてモニターと言ってほしい。
 室内は不気味に薄暗く、得体の知れない液体の入った試験管が並び、見たこともない機械が床を埋め、何かがぐつぐつと泡立つ音が聞こえ……詳細に観察するのは止めた方がよさそうだ。アニシナ先生はここで何の実験をしているのか。考えたくないし、授業に関係があるとも思えない。
 とんでもない部屋を逃げ場所に選んでしまった。ヨザックが居るからたぶん大丈夫だけど。

「で、坊ちゃんは何してたんです?」
「ヴォルフから逃げてたんだけどさ。絵のモデルやれってうるせーの。まぁ、普通の絵の具使ってくれるなら少しくらい付き合ってもいいけど」
「あー……国外から取り寄せたっていう、強烈な臭いの奴を使ってますよねー。3つ離れた音楽室からも苦情が入るって聞きましたよ」

 あの臭いじゃ無理もない。

「厄介な芸術家に気に入られちゃって、坊ちゃんも大変ですねー」
「おれなんか描いて何が楽しいんだろうなー」
「描きたくなる気持ちは判りますけどね」
「判んの!?」

 おれを見ながら胸の垂れた狸を描きたくなる気持ちが!?
 ヨザックはニヤニヤ笑うだけで答えてくれなかった。
 この件についてはしっかり追及しておきたいし、ヴォルフラムの趣味への不満はまだまだ尽きそうにないが、それよりもさっきから引っ掛かることがひとつ。
 おれは壁に立て掛けてあったパイプ椅子を拝借して座り、ドアの側に立ったままの彼を見上げて言った。

「あのさぁ、ヨザック先生」
「なんです坊ちゃん。改まっちゃって」
「その“坊ちゃん”って呼ぶの止めてくれないかな?おれ、そんな柄じゃねーし」

 コンラッドの親友らしいヨザックは、家にもしょっちゅう遊びにくるし、つい砕けた口調で話してしまうおれにも非はあるが。砕けたどころか敬語を使った覚えすらないし。
 それは一旦置いておくとしても、平々凡々な庶民のおれが「坊ちゃん」なんて呼ばれるのは、改めて考えてみると物凄くおかしい。違和感なく受け入れてしまっているおれもおかしい。
 ヨザックは困り顔で頬を掻いた。

「いやぁ……隊長がまるで王様みたいに大事に大事に守ってる子だと思うとねえ。呼び捨てなんてとてもとても。ユーリ、なんて呼んだら殺されちまいます」

 いや、そこは普通に名字でいいだろう。

「というかなんでコンラッドが隊長?」
「なんでって、まぁ、軍にいた頃の上司なので」
「えっ!?この国って徴兵制あるんだっけ?いま戦時中?」

 ――そもそもこの国はどこなんだ?

 そんなことも判らなかった自分に戸惑う。

 ――後先考えず猛進して突っ込んじゃう動物は猪?それとも羊?

 どんな連想ゲームが繰り広げられたんだか、全く関係のなさそうな四字熟語が頭に浮かんだが、この答えもどうしても出てこなかった。

「坊ちゃんたら、ギュンター先生の授業は全っ然聞いてないのねー」

 ヨザックが、ふざけ半分の呆れ声で言う。おれも自分に呆れているけれど、むしろ呆れるどころじゃ済まないけれど、せめて言い訳くらいはさせてほしい。

「だってあの人、おれがギュンター先生って呼ぶだけで鼻血噴くんだぜ?」

 ちなみに名字の方で呼ぶと「私がお嫌いなのですかー!」と泣く。扱いに困る教師である。

「あー……ギュンギュン先生は黒髪フェチだからなー」
「なんで黒が好きなんだろ。ヴォルフとかアニシナさんとか……それからヨザックも。その夕焼け色の髪の方がよっぽど綺麗なのにさぁ」
「ありがとうございますー」

 ヨザックは少し照れたように笑った。鮮やかな色の髪に似合いの笑い方で、それを見るとおれは訳もなく満たされるのだ。



「で、その戦争ですがね」

 モニター募集ポスターだらけの壁へ寄り掛かった彼が話を戻した。

「20年前に終わってますよ」

 あっさりとした口調でそれだけを言う。詳しく話すつもりはなさそうだ。

「……聞いたような、聞かなかったような」

 知ってるような、知らないような。
 20年前に終わった戦争、コンラッドとヨザック、隊長。
 あまり働いてくれない頭で記憶を探ってみる。

「ルッテンベルク師団……?」

 ふと、そんな言葉が口を衝いて出た。

「今、なんて言いました?」

 きょとんとした顔でヨザックが聞き返す。

「いや、なんかそんな名前だった気がしてさ」
「名前なんか付いちゃいませんでしたよ。番号が44だったくらいで」
「44……しし……」
「16?」

 と、反射で答えたらしいヨザックが首を傾げた。九々じゃなかったんだけど。
 何かを思い出しそうだったのに、九々以外出てこなくなってしまった。

 そろそろ打ち合わせの時間だと言う彼と一緒に準備室を出た。管理棟へ繋がる3階の連絡通路前で別れて、教員室へ向かうのだろう背中を見送る。
 ヨザックが少しだけ足を引き摺って歩くのも、コンラッドの右眉に傷があるのも、全部戦争のせいなんだろうか。
 おれは何も訊けなかった。






 毎日この部屋を訪れて、彼に色々な話をした。笑い合えるはずの彼との思い出も、彼が全く知らないだろう、おれの子供の頃の思い出も。思い付いたことは片っ端から話した。
 あんまり毎日話していたせいで、話のネタが尽きてきた。彼だって同じ話ばかりじゃつまらないだろうし。
 今日、授業で習ったこと。駄目だ、全然思い出せない。
 話すことがなくなるにつれ、不安や焦りが大きくなる。
 昨日見た夢のことでも話そうかと思う。これなら楽しんでもらえそうだ。現実よりもよっぽどいい。

「あのさ……」

 現実の方がぼんやりと霞んでいる気がする。昨日と今日の違いも判らないような。時が止まってしまったような。

 ずいぶん鮮明に思い出すことができるおかしな夢の話をしながら、おれは頭の片隅で考えた。

 ――あれ?どっちが夢だっけ?




「あのさ、コンラッド。最近、変な夢見るんだよ」
「変って、どんな風に?」
「笑わないで聞いてくれる?」
「笑わないよ。約束します」
「なら話すけどさ。ホントに変な夢なんだ。毎晩同じ夢。うっかり昼寝しちゃっても必ず見るんだよなぁ……」
「じゃあ、今日の午後の授業中もずっとその夢を?」
「うん……ってなんでおれが寝てたこと知ってんの!?」
「グウェンとヴォルフから聞きました」

 事も無げに答えられて気まずい思いをする。兄弟間では情報が筒抜けらしい。

「寝不足?」
「ってほどでもないけど、今日はやたら眠くてさ……」

 とりあえずおれの不真面目な授業態度の件は脇に置いて夢の話だ。原因の一端は彼の弟にあるのだから、脇に置いても許されるはずだ。
 咎めるどころか心配そうな彼の視線から逃げるために、誤魔化すように話し始める。

「おれがどっかの国の王様で、しかも魔王なの。陛下とか呼ばれちゃって、でも誰かを滅ぼすとかそういうことはしないで、毎日国のことを勉強したり、手が痛くなるまでサイン書いたりしてるんだ。渋谷有利原宿不利ってな」
「ユーリなら国民思いのいい王様になれそうですね。俺が一番の臣下になりたいな」

 突拍子もない話なのに、コンラッドは笑わずにそんなことを言った。
 そして何気ない質問をする。

「その夢に俺は出てきますか?」

 コンラッドは。

「……」

 瞬間、泣きたくなるほどの寂しさに襲われて、おれは返す言葉を見失った。

「……ユーリ?」

 不自然な沈黙を挟んだ後、「いない」と答えた。

「そうですか……」

 何だかがっかりしているように見えたから、おれは慌てて付け加える。後ろめたさを感じながら、嘘になってしまう台詞を。

「あんただけいないんじゃなくて、知らない奴ばっかなんだよ。コンラッドがいてくれたら心強いのになぁ」
「俺はいつでもあなたのお側にいますよ、陛下。なんて」

 冗談だと解っているのに心が冷えた。嫌だと思った。おれを陛下なんて呼ぶコンラッドは、悲しい夢の中の彼みたいに、いつか遠くへ行ってしまうと思った。

「そんなよそよそしいのやめてくれ」

 理由なんて判らない。

「すみません。ユーリ」
「……うん」

 いつも通りの呼び方に安心する。

「ユーリ」
「うん」

 彼が付けてくれた名前が好きだ。渋谷有利原宿不利なんてからかわれるから、昔は嫌だったけれど。
 コンラッドがおれの名前を呼ぶ時の、甘くて優しい声が好きだ。

「今夜はここで寝ていきますか?」

 気遣うようにそう聞かれて、俯いてしまった顔を上げた。
 唇の両端を引き上げて答える。

「戻るよ。グレタが寂しがるかもしれないし」
「……恋人より娘の方が大事?」

 この声はたぶん拗ねている。

「そうじゃなくて!コンラッドも大事だけど、娘がお父さんと一緒に寝てくれるのなんて今だけだし、だから、ええっと」
「冗談ですよ」

 慌てて纏まらない言い訳を並べていたら冗談にされた。おれを困らせないように、大人の余裕でやっぱり優しく笑って。

「おやすみ、ユーリ」
「おやすみ」

 就寝前には、おやすみのキス。傷のある掌でおれの頬に触れ、ゆっくりと唇が重なって、朝より長い間離れずにいた。おれは目を閉じなかった。柔らかな場所で深く触れ合っているのに、不思議なことに生々しさは欠片もないのだ。人形としてるみたいなキスだった。
 もう一度「おやすみ」と「また明日」を交わして部屋を出る。音もなく閉まるドアに背中を預けた。グレタやヴォルフと一緒に寝る約束はしていなかった。彼の隣で彼がいない夢なんか見たくないだけ。
 このドアの向こうには間違いなくコンラッドがいるはずで、けれどもういなくなってしまったような気がしている。







 教室の窓から見下ろした世界は、真夜中みたいに暗かった。途切れない雨音とコンラッドの声。
 今朝もロードワークに行けなかったなと、おれは雨雲に似合いの溜め息をつく。
 そうだ。ずいぶん長い間、コンラッドと走りに行ってない。変だよな、と思ってしまう。ずっと一緒にいるはずなのに。
 余所見に飽きて部屋の中へ視線を戻す。どこまで黒板を写したんだったか。
 文字を追う気のない目は、学ランの袖の汚れを見つけた。真っ黒だから白い跡が目立つのだ。擦っても落ちなくて諦めた。そういえば隣の奴の袖は黒くない。
 前の席の金髪も斜め前の茶髪も後ろの赤毛も、見回せば色とりどりなクラスメイト逹は、誰も学ランなんか着ていなかった。コスプレか軍服に見えるその服は青や濃い緑で、おれだけが一人で黒を着ている。酷く居心地が悪い。
 自分だけ場違いな格好をしている夢なら何度か見たこともあるが、これは夢じゃなくて現実だ。
 何かがおかしい。
 授業は滞りなく続いていた。コンラッドと目が合ったけれど、彼はにこりともしなかった。教師の顔で流暢な英語だけを吐く。あまり優秀ではない頭が、易しい英単語を拾って翻訳する。

「Once upon a time...」

 昔々。
 決して触れてはならないもの。箱。
 今扱っている題材はファンタジーか神話だったか、それともお伽噺?教科書にはポップな挿絵が躍っていて、そもそも開いているページが違うのだろう。

 蛍光灯を反射して、前の方で何かが光った。それが唐突な警報のように感じて、いやに気に掛かって視線を上げる。

「な……っ」

 思わず椅子を蹴って立ち上がった。光ったのはコンラッドが手にしている剣だった。
 何やってんの。最後まで言えずに言葉を呑む。教室の外、廊下を駆けるたくさんの足音が聞こえたせいだ。運動靴ともローファーとも違う、聞き慣れない音が迫ってくる。間違いなくここへ向かってる。
 数度瞬いて明かりが消えた。

「下がって!」

 コンラッドが険しい顔で言う。おれを守るように背中を向けているけれど、どんな顔をしているのかは判るのだ。
 横開きタイプのドアが外側から物凄い力で押され、倒れた。人が、敵が雪崩れ込んでくる。
 いつの間にかクラスメイト達は消えていた。机が次々蹴倒され、千切れた教科書のページが舞っている。
 こんな場所に武器持って攻め込んでくる敵ってなんだ。無差別テロ?内戦?
 なんで剣なんか持ってるんだ。

「逃げてください!」

 どこへ逃げればいい?なんで一緒に逃げようとしない?なんであんたが戦ってんの?
 困惑と恐怖で喉が引き攣って声にならない。剣と剣がぶつかる金属音がずっと止まないせいで、耳がおかしくなりそうだ。妙な形の銃が火の球を噴く。砂塵のせいで視界を奪われる。
 そこらじゅうが燃えていて、最後に見た彼は真っ赤な血を流していて。
 床には動かなくなった人間が、それからもっと見たくないもの、一度見たら決して目を逸らせなくなるような恐ろしいものがきっと落ちていて。
 なんだよこれ。おかしいだろ。
 ここはどこだよ!?
 ――いや、そんなことはもうどうでもよくて。

「……、ラッド……コンラッドっ!!!」

 絞り出した声で何度も名前を呼んだ。安心させてくれる答えは返らない。
 ドォン、と音がして熱と光が弾けた。無意味だとは知りながら、きつく目を閉じて両腕で顔をかばう。
 衝撃で飛ばされて落ちていく。夢の中みたいにどこまでも落ちていく。







 やけに大人びた静かな声で、「戻っておいで」と親友が言った。

「村田?」

 唐突に目の前に立っていたのは村田だった。おれはどこに落ちて着地したのかも知らないまま、深く考えずに訊いてしまう。

「こんなとこで何やってんだ?お前学校違うだろ」

 村田は相変わらずらしくない様子で答える。

「夢芝居だよ」
「は?」

 おれが求めた答えには程遠いが、適当な嘘を言っているようには見えなかった。

「僕が渋谷の夢に入ってるんだ」
「ええっと、それってつまり……」

 考える時間が必要だった。まずは落ち着こうと辺りを見回す。壁も床も天井も何もない。眩しくて真っ白なただの空間だ。現実ではありえない。

「これ夢?全部夢だったのか!?」
「そうだよ」

 親友のあっさりとした肯定にホッとして、身体中から力が抜ける。床がないせいで足元から沈み込んでしまいそうだ。

「だよなー、こんなメチャメチャな展開ありえねーもんな!」

 こんな酷いことが起きるはずない。起きて堪るか。
 おれがそう憤るよりも早く村田は言った。

「けど、これは現実でもある。解ってるだろ?」

 重い問い掛けだ。決して認めたくないけれど、頷かない訳にはいかなかった。

「……ああ」

 ああ。解ってる。
 これ以上逃げては駄目だということも解っていた。だっておれは王様だから。
 深いところへ追いやっていた記憶が引き摺り出されていく。
 夢芝居といえば、あれか。睡眠時超魔動体験機。マイク持って寝たふりするやつ。

「これ以上眠り姫で居続けたら、きみは水浸しのカピカピにされるけど、いいの?」

 今度はお道化た調子で村田が聞いてきた。マイクまで握ってインタビュアー気取りだ。

「……いったいおれに何が襲い掛かるんだよ」
「フォンクライスト卿の涙と鼻水」
「あー」

 そりゃまずい。嫌すぎる。そんなことを聞かされたら、ますます起きたくなくなるじゃないか。
 そう嘆いて、改めて思い知らされる。おれは今、確かに眠ってる。
 村田が右手を差し出してきた。出口を知っている彼の手を掴めば、きっとそれが夢の終着点になるんだろう。

 彼は最後に遣り切れない寂しげな笑みを浮かべ、頑是ない子供に言い聞かせるような言葉を零した。

「優しいだけの世界なんてないんだよ」



 眠れない夜に廊下を歩いていたら、夜は眠らない女性と運悪く出くわしてしまった。
 会ってしまったからには彼女の実験室へ連れ込まれるのがお決まりのパターンだ。おれを逃がさないために鍵までかけてから、アニシナさんは期待の篭った眼差しを向けてくる。
 深夜に美女と密室で二人きりなんて、健全な男子高校生なら色っぽい展開を期待してしまっても無理はない状況、夢のようなシチュエーションだが、残念ながら相手は毒女だった。残念ながら。美人だけど。

「さて、陛下は何かお困りのご様子。わたくしに打ち明けていただければ、魔動で見事解決してみせましょう!」
「おれは今この状況に困ってマス……」
「しかしながらわざわざ話していただく必要はありません。陛下のお悩みは判っておりますからね」

 おれの声は耳に入らなかったようだ。相変わらず人の話を聞きゃしない。
 毒に合わせた室温と寝不足のせいも相まって、だんだん頭がぼうっとしてくる。
 完全に無防備になってしまったその時、彼女はお馴染みの高飛車な口調をどこかへ置き去りにして、言った。

「ずっと眠れないのでしょう?」

 はっとするほど温かみのある声だった。

「そ、こ、で!」

 と油断したらやっぱりいつものアニシナさんだ。何だか嫌な予感がする。

「わたくしが陛下のために改良に改良を重ねた魔動装置が、こちら!」

 わざわざおれのために、と思うと、危険物だと理解していても受け取りたくなってしまう。というより、受け取らないと申し訳ない気がしてくる。
 フォンカーベルニコフ卿アニシナこと毒女は生き生きと続ける。

「楽しく愉快な夢と安眠、目覚めスッキリを約束します」
「……本当にうなされない?変な夢は絶対に見ない?」
「わたくしの発明を疑うのですか?ちょっぴり自信作なのですよ!」

 そこは謙遜せず自信作だと言い切ってくれた方が安心できるんだけど。
 おれが不安を募らせていると、ふと真面目な表情を浮かべた彼女が、潜めた声で脅すようにこう言った。

「ただし、ひとつだけ注意していただきたいことが」

 つまり、使用上の注意だな。
 ええっと……なんだっけ。
 確かに聞いたはずなのに、一番大事なことなのに、おれは今も思い出せないままで。



 目を開けると視界が顔で埋まっていた。

「陛下……っ!」
「ユーリ!!!」

 止まない雨のようにポタリポタリと、生温い水滴が降っている。

「うげっ」

 飛び起きた。時既に遅し。ギュンターの涙だ。鼻水が混ざっていなかったことを祈るしかない。

「やっとお目覚めになられたのですね陛下ぁぁあ!!!もう二度とその美しい漆黒の瞳で私を見つめていただけないのではないかと思っ」
「悪い!抱き着くなら鼻水拭いてからにしてくれ!」

 さっそく飛びかかってきた汁だく王佐から仰け反って逃げる。少し身体が重い気もするが、寝起きにしては動ける方だろう。目覚めスッキリだけは本当だったようだ。

「ユーリ、起き上がって大丈夫なのか!?」

 心配そうなヴォルフラムの声に頷く。

「全然へーき」
「そうか……全く!心配したぞ。だいたい王が他人の部屋の床なんかで熟睡するな!せめて自分の部屋の床にしろ!」

 文句に安堵を滲ませる金髪美少年の向こうには、げっそり疲弊した顔のグウェンダルと、彼が犠牲を払って連れてきたのだろうアニシナさんが立っていた。

「おかえり、渋谷。はい、ティッシュ」
「ありがと」

 今一番欲しいものを渡してくれたのは村田だった。
 それでもまだ一番聞きたい声は聞こえないのだった。
 視界の端に本物の眠り姫がいる。どうやったら起きてくれるのか判らなくて、一方的に話し掛けることしかできない。
 音にはせずに問い掛ける。

 ――なぁ、ヨザック。おれの話、ちょっとは面白かった?

 元からずぶ濡れだったのだから、泣いたってバレやしないはずだ。
 丸めたティッシュで乱暴に拭ったのは、大放出されたギュン汁と、おれ自身の涙だったのかもしれない。



 おれは魔動抱き枕戦隊の改良版の改良版、ゴールド枕を受け取ったその夜からずっと夢うつつで、昨日の夕方にヨザックが安置されている部屋で眠ってしまってから丸一日以上、どんなに怒鳴っても揺さぶっても叩いても蹴っても目覚めなくなったらしい。最終手段として提案された幾つかの候補の中から一番穏便なものを選んだ結果、夢枕とマイクを使って村田が迎えに来たという訳だ。
 長い上に、とんでもない夢を見てしまった。

「夢にしては感覚がリアルだったんだけど」
「臨場感に溢れる夢になったのは、陛下の魔力の影響です」

 地球語も巧みに翻訳して、製作者であるフォンカーベルニコフ卿が解説してくれる。
 満足げな顔をしているから、何かしら参考になるデータでも取れたのだろう。

「陛下の場合、まともに制御できないとはいえ魔力が桁外れに強いのですから、過剰な摂取はおすすめできません。念のため、一定の時間が経過すると悲劇的で救いのない結末へと突き進む安全装置を組み込んでありますが」
「……それが安全装置か?」
「安全装置ってなんだっけ……」
「強い魔力により現実と比べて遜色のない世界を作り上げてしまうと、現実との区別がつかなくなったり夢に心を囚われたりして、一生眠り姫になってしまう可能性も」
「そんな危ないものを陛下に渡したのですか!?」

 ギュンターに非難されても毒女アニシナはもちろん動じない。
 おれに視線を向けて言う。

「最初にちゃんと忠告したでしょう?アニシナの半分は優しさでできています」
「そうだったのか」
「それは今関係ないような」
「用法用量を守って正しくお使いください、と」
「あ」

 やっと思い出した。薬の説明文書や処方箋に必ず書いてありそうな有り触れたフレーズだったせいで、記憶に残らずさらりと聞き流してしまった。しかしながら、その定められた使用量とやらを聞いた覚えは全くない。

「そうですね、陛下の場合なら、骨地族も埋まる羊幾つ時から一番鳥が鳴くまで、くらいが妥当でしょう」
「それを最初に言っておけ!」

 グウェンダルとヴォルフラムから息もピッタリな突っ込みが入る。
 とんだショートスリーパー仕様だったらしい。少しでも身長を伸ばすため、よく食べ、よく眠り、日々あがき続けるおれみたいな野球小僧とは相性最悪。

「夢の中で過ごす時間が長くなればなるほど、現実で起きていられる時間は短くなります。一日の時間は決められていますからね」


 一通りの説明が済んだため、ヴォルフラムはグレタを呼びに出て行った。グウェンダルは仕事を言い訳にして、実験台として捕獲される前に逃走した。
 おれは枕を持って座り込んだまま、あの長い夢について考えている。彼女の説明のお陰で納得できたのは、最後の唐突な展開は安全装置が働いたせいだということだ。こんな夢嫌だと心から願えば、あの時点で自力で脱出できていたんだろう。
 それはそれとしてどうしても納得できないのは。
 かぁっと顔に熱が上る。なんだあの夢。コンラッドに恋人扱いされてなかったか、おれ。こっぱずかしくおはようおやすみのキスとかしてなかったか。清らかなお付き合いならまだしも、一線越えた仲だってほのめかされてなかったか。色気の欠片もないはずのおれが、夜の帝王モードに切り替わった男から愛を囁かれたりしちゃってたのか!?
 婚約者のヴォルフラムに知られたら最後、「浮気者!」と怒鳴られるくらいで済むとは思えない。
 ていうかコンラッドもヴォルフも男だから!男同士だから!交際も婚約もおかしいだろ。
 決まり文句が頭の中でいつもよりも力なく響く。頬の熱が冷めれば寂しさが押し寄せる。寂しくて寂しくて堪らなくなる。
 おれを迎えてくれるコンラッドの声を、早く聞かせてほしいのに。

 ――いつも側にいるって言ったくせに。嘘つき。

 眞魔国でも日本でもない、何処にも存在しない町を思い出す。グレタは真っ赤なランドセルを背負っていて、その愛娘とヴォルフラムとおれで川の字になって寝ていて、ヨザックは陽気に笑っていて、コンラッドが側にいてくれる。
 一番辛い時に顔を埋めた背中と同じ匂いがする抱き枕を手放せば、二度と行くことのできない世界。

「それにしても陛下を実験台に使うなんて!私の陛下に万が一のことがあったらどうしてくれるんですか!」
「も・に・た・あです!通常より長く眠ってちょっと悪い夢を見てうなされたくらいで何です大袈裟な!寝不足気味だった陛下に良質な睡眠時間を提供したのですから、むしろわたくしに感謝すべきです。苦情など付けられる謂れはありませんね!万が一も危険もありません!」

 現実の音を拾うおれの耳は、全く悪びれる様子もないフォンカーベルニコフ卿の声と、果敢にも再び食って掛かるギュンターの鼻声を聞いている。

「充分危険です!夢に魅了されてしまえば現実に戻れなくなるのだと言っていたではないですか!確かに私はこの耳でそう聞きましたとも!」

 ギュンターの猛攻を彼女は鼻で笑った。

「陛下が現実から逃げ出した挙句、くだらない夢になど囚われ続けるはずがないでしょう」

 相変わらず騒々しい部屋の中で束の間目を閉じて、目蓋の裏に懐かしさすら感じる町並みを見た。名付け親の穏やかな笑顔を見た。今すぐ彼の背中に抱き着くことができたなら、くだらない夢も逃げ道も望まずに済むのに。
 両腕の中の柔らかな塊に、ぎゅうっと顔を押し付ける。
 なんてことはない、珍しくもない、吸い込んだそれは太陽の匂いだった。

 それからおれは枕を彼女に返すのだ。お陰でよく眠れたよ、ありがとう、と笑って。



2016.5.6




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