腕の記憶

夜の冷たい水の中から、湯気で煙る湯殿まで流された。よくあることとはいえ逆上せそうだ。さっきまで存在しなかった水底へ足をつけて風呂から上がる。

「陛下」

湯煙の向こうに彼だけが立っている。視界と同じくらい思考も霞んでいて、見慣れた軍服姿が近付いてくるのをぼんやりと待っていた。

「おかえりなさい」

コンラッドが言った。

現実味がなくて、何だか夢の中みたいで。
不安で、すごく恐かった。

ただいまと答えることもできず、差し出された彼の手に縋って聞く。

「……あんた、ちゃんと両腕あるよな?」

いきなり変なことを言われて困惑しただろうに、彼は一瞬の間を置いて、柔らかい声で望む通りの答えをくれる。

「ええ、ありますよ」

言葉以外でも伝えようとするように、もう片方の手も差し出される。両手にぎゅっと力がこもった。

「ユーリ?顔色が悪いけど……向こうで何かあったんですか?」

何か。

「ユーリ……?」

彼の声が、遠くなる。



体育祭の打ち上げの帰りだった。二次会へ行くらしい面々と別れて、一人、人の多いホームに立っていた。
携帯電話がしつこく鳴っていたことを思い出す。相手は帰りの遅さを心配する過保護な兄だろうと、画面も確認せず放置した。合コンやら何やらでしょっちゅう深夜帰宅するような兄に、保護者ぶった説教はされたくない。
デジアナGショックに表示された時刻はまだ九時前だった。高校生がうろついていても全く問題のない時間だ。
右隣りには疲れた顔のサラリーマン、左には同じような顔の若い女性が立っていた。一様に皆、疲れていた。
電光掲示板が電車の接近を告げる。車体が滑り込んでくる寸前、ふと、左に目をやった。そこに先程の女性はいなかった。


ちぎれた腕の残骸がちらつく。


「……っ……」

濡れた床面にがくっと膝をついた。

「ユーリ!?」

教会に落ちていた彼の腕も、炎の中に消えた背中も。

「……手、」

顔を覗き込んでくる人影に、力無い声で訴えた。

「はな、して……」

スタツアで遠退いた吐き気が再び込み上げる。解放された両手で口を押さえる。
離れてくれとも言いたかったけれど、もう無理だ。後退れば湯の中へ落ちてしまう。

「ユーリ?どうしたんですか?」

おろおろと心配そうな声が聞こえた瞬間、おれは胃の中身を吐き出していた。掌で押さえられる訳もなく、ぼたぼたと吐瀉物が床へ零れる。
苦しくて気持ち悪くて何度もえずく。
さぞかし汚らしい有様だろうに、彼はおれの側から離れなかった。一度は失われた左手が、ずっと背中を摩っていた。



コンラッドの上着とバスタオルで包まれた後、横抱きで自室のベッドへ直行された。
夜にいきなり戻ってきたせいだろう。そこにネグリジェ姿の婚約者はいない。

「落ち着いた?」

「……ん」

渡された銀のカップには白湯が入っていた。あまり飲みたくなかったけれど、水分補給をしないと駄目だと彼が言うから、仕方なくそれに口をつける。

「みっともないとこ見せちゃって、ごめん」

「それは、構いませんが……」

風邪ですか、と聞きながらすっかり乾いたおれの前髪をかき上げて、コンラッドは額に掌を当てた。

「熱はないみたいだけど」

「風邪なんてひいてないよ」

心配性の彼に作り笑いで答える。

「大丈夫。何でもないから」

おれは、平気だ。体調を崩している訳でもないし、怪我だってしていない。おれは。

「ユーリ」

咎めるように、少し低くなった声で呼ばれる。今夜だけでどれだけ彼に名前を呼ばれただろう。普段はおれが文句をつけるまで呼んでくれない癖に。

「何か、あったんでしょう?」

コンラッドはそう決め付けてかかっていて、否とは言えない雰囲気だった。先程の嘔吐の原因が精神的ショックだということも、きっとしっかり悟られている。

「う、ん……」

負けを認めて頷いた。

「話してくださいますか?もちろん、無理にとは言わないけど」

「……うん」

もう一度ゆっくりと頷いて、ホームで起きた出来事を語るため、俯いたままおれは口を開く。あの時目にした光景が吐き気と共に蘇ったけれど、胃の中は既に空っぽだった。







「隣に立ってたのに、気付けなかったんだ」

ぽつりと、呟く。

「今ここで死のうって決めるくらい、辛い思いしてたはずなのに」

震えた拳にコンラッドの手が重なる。宥めるように撫でてくれる。

「電車が来た時、横見たらいなくなっててさ……飛び込みだって誰かが怒鳴って、おれ、隣に立ってたのに。全然、気付かなかった。おれがあの時、気付いていれば、あの人は死ななかったかもしれないのに……」

ぶちまけられた脳みそだったものと、転がった腕を見て動転して、早足で駅の外へ出た。
落ち着くまで休むために腰を下ろした段差は後ろが水場だったらしい。上の空のおれはよろめいた拍子にどぼんと落ちて、異世界の魔王専用大浴場へと、あっという間に流されてしまったのだ。
無力だった自分と向き合うことから逃げるように。



「……確かに、痛ましい話ですが」

一通り話を聞き終えた彼は、穏やかに前置きしてからきっぱりと言った。

「彼女の死の責任はあなたにはありません」

そうかもしれない、と冷静な頭の片隅では思う。

「事故を目撃して、優しいあなたが悲しむのはよく判ります。けれど、亡くなった女性はたまたま隣に立っていただけの、初対面の赤の他人でしょう。そんな人の死の責任まで背負っていたら、心も体も持ちません」

彼の言う通りだとも思う。
おれだって、目の前で起こったことでなければ、ここまでショックは受けなかっただろう。人身事故なんてしょっちゅう起きていて、悲しいけれど珍しいことじゃない。ニュースを見ればいつでも必ず、命を落とした誰かがいる。
現代日本は戦争もなく平和だと主張したところで、事件も事故も自殺も絶えることがない。ちゃんと知ってる。

「今日のことは忘れてしまえばいい」
あなたのせいではないのだから。

それでもおれは、続けられた言葉にかぶりを振った。

「でも、腕が……」

「腕?」

「腕が、切り落とされて……っ」

ちがう。腕を切り落とされたのはコンラッドだ。今日見た腕は潰されて、ぐちゃぐちゃで。

「あんなに近くにいたのに……おれはっ、……あの人も、あんたも救えなかった!」

コンラッドが、ハッとしたように息を呑むのが判った。

「守れなかった!何にもできなかったんだ!おれは、あんたのために、何も……っ」

「ユーリ」

目尻に溜まった涙が零れ落ちる瞬間、ぎゅう、ときつく抱きしめられた。
両腕の中に納まると、彼の心臓の鼓動が聞こえる。確かに生きていることを教えてくれる。

「落ち着いて。大丈夫だから」

安心した。それからそんな自分を嫌悪した。隣に立っていたあの人は死んでしまったのに、ちぎれた彼女の腕は元に戻らないのに。おれは、彼さえここにいてくれればいいと、そう思っているのだろうか。

「俺の腕はちゃんとありますし、あなたを守るのが俺の生き甲斐です」

彼だけはどうか、と望んでしまうほど大切な男が、優しい声で酷いことを言う。

「だから救えなかっただとか、守ろうだなんて思わないで」

あなたはただ守られていればいいと言う彼の胸を、両手で押し退けた。

「……もう、いい」

「ユーリ?」

「もう、寝るから」

背中を向けてベッドへ転がり、突き放すようにおやすみと言う。
コンラッドは、魔王であるおれに対して、当たり前のことを言っただけだ。苛立ってしまう我が儘な自分に嫌気が差す。

今は、あんたがもう二度と、自分を犠牲にしておれを守ったりしないって、心から誓う言葉を聞きたかった。王様と臣下である以上、どうしようもないことは判っているけれど。
それでも聞きたかったのに。



コンラッドは部屋を出て行くどころか、ベッドから離れることすらしなかった。
乗り上げた彼のせいでベッドがぎしりと微かに軋む。

「……全部、忘れさせてあげましょうか?」

耳元で彼が囁いた。先程までの気まずい空気を霧散させるために、わざとらしいほどの色気を含ませた声だ。
覆いかぶさるようにして口づけられる。閉じたままの唇を舌先で突かれて、受け入れてしまったらもうおれの負けだった。
逃げていた舌が捕まって搦めとられる。息苦しくて、下肢を熱くさせる巧みなキスだ。
飲み込みきれなかった唾液が唇の端からとろとろ零れる。

「ん、ん……っ」

くちゅ、と濡れた音を立てて、離れる。すっかり息が上がっている。
コンラッドは余裕の笑みを浮かべて聞いた。

「……どうします?」

どうするも何も、さっきから彼の手は着替えたてのパジャマの上から胸の辺りを丸くなぞっていて。じれったく膝頭を擦り合わせる。

「……ぁ、あっ」

キュ、と胸の尖りを布越しに摘まれた。ここで止められたらすごく困る。止める気なんて端からないのだろうけれど。

「……コンラッド」

「はい?」

「ちゃんと、触れよ……っ」

「判りました」

笑い声を含むような答えは、吐息と共に耳の中へ吹き込まれた。

「ひ、ぁ……っ」

耳は弱いのに。絶対にわざとだ。
そのまま舌でぴちゃりと舐められる。空いた手はズボンを引き下ろして、やはり身につけたばかりの下着の両端の紐を、あっという間にはらりと解いてしまった。

「あ……」

羞恥からますます顔に熱が上る。
触られるまでもなく勃ちあがったものを見てコンラッドが言った。

「もしかして久しぶりでした?」

――あんたと会えなかったんだから当たり前だろ。

ふいと赤く染まった顔を背ける。
実力行使でその気にさせるなんて大人は狡い。

強引な大人に流された振りで、体を預ける子供も狡い。







交わす言葉のない静かな時間だった。
彼は決して愛撫の手を緩めなかったから、頭の中が真っ白になって、何かを考えることはできなかったけれど。
ふとした瞬間、訳も判らず無性に悲しくなった。例えば左腕にきつく抱き寄せられた時。耐え切れず背中に立ててしまった指先が、古い傷痕に触れた時。
過ぎた快感のせいで泣いたのか、悲しくて堪らないから涙が出たのか。
死んでしまった誰かのためではないことだけは確かだ。おれはちっとも優しくなかった。

息を潜めると彼の穏やかな寝息が聞こえてくる。

簡単に体を清めた後で、狸寝入りしたおれをしっかりと抱き込み、コンラッドは一足先に夢の中だ。寝た振りに気が付かないなんて珍しい。
疲れていたのかな、と寝顔を窺う。じっと見つめてもよく判らなかった。おれがいない間の彼の生活をおれは知らない。
力の入らない指で前髪を梳く。右眉に残った傷が露になる。

抱きしめられて伝わる体温とか、癒すようなキスとか、何もかも忘れるほどの快楽とか。彼がくれるものはいつも少しだけずれている。
解っているようで何も解ってくれない男。

いつもおれを守ってくれる背中に、誰一人守れない両腕を回した。

――おれが一番欲しいものはあんたが傷付かない未来だっていうことに、いつかは気付いてくれるんだろうか。



END

2013.9.6




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