彼が発つ日

どうすればいいか考えた。頭が痛くなって知恵熱が出そうなほど考えた。
頭で考えて、ぐちゃぐちゃになって、日本語で紙に書きつけて。
紙はすぐに真っ黒になった。
ここからここまで。
線を引く。
本当になったらいいのにと思う。

残された時間はあと一日。







「なんで?」

当然の疑問を口にした瞬間、その場にいた全員が手を止めておれを見た。

「コンラッドがどっか行くの?」

朝食の席でのことだった。当たり前のことのように切り出された話題に、おれは一人首を傾げた。
明日からはコンラートもいなくなることですし、と。本当に何気なく王佐は言ったのだ。
おれの問い掛けに本人が答える。

「お話した通り大シマロンへ戻ります。まだ、片が付いていませんから」

「大シマロン……って確か眞魔国と敵対してる人間の国だろ?なんでコンラッドがそんなところに行くんだよ」

「陛下……?」

何故か訝しげな声が返った。おれは変なことを言っただろうか。
コンラッドは眞魔国の国民だし、何よりおれの護衛だし、長期間の国外出張なんておかしい。そういう任務なら腕利きお庭番の出番だろう。

「なんでだと?」

腕を組んだヴォルフラムがしかめっ面で言う。

「当然のことだ。今のところコンラートは大シマロン側の人間でもあるのだからな」

「なに言ってんだよヴォルフ。コンラッドと大シマロンなんて、何の関係もないはずだろ?」

大シマロン生まれなのはグリ江ちゃんだし、と続ければ、皆が顔を見合わせる。
室内が不自然な沈黙で満ちた。

「……もしかして、陛下は」

ややあって恐る恐る口を開いたのはギュンターだった。

「覚えて、いらっしゃらないのですか?」

「覚えてるよ?記憶喪失じゃあるまいし」

深い溜め息をついた後、重々しい声でグウェンダルが聞く。

「お前、どこまで覚えてるんだ」

「どこまでってどういう意味だよ?コンラッドはずっと眞魔国にいただろ?」

部屋の空気が凍り付くのが判った。

「……どういうことだ」

「まさか、陛下の記憶に問題が?」

深刻そうにグウェンダルとギュンターが言葉を交わす。彼の眉間にいつもより深い皺。

「本当に覚えていないのか!?」

ヴォルフラムは椅子を蹴るようにして立ち上がると、決まり文句でおれに突っ掛かる。

「最近のことをすっかり忘れてしまうなんて、お前はどこまでへなちょこなんだっ!」

「忘れるって、だから何のことだよ!」

負けじとおれも言い返す。
俄かに騒然とした部屋の中で、コンラッドはただ黙っていた。







眞魔国に専門の精神科医はいない。心の分野に関しては、あまり研究が進んでいないらしい。

「頭を打ったりしていませんか?どこか、強い衝撃を受けた覚えは?」

「ないと思う。痛くないし」

「昨晩、何か変わったことは?」

ギーゼラの二つ目の質問にはヴォルフラムが答えた。

「ない。普通に眠っただけだ」

約半年分の記憶を失っているという診断を受けた。

「とりあえず様子を見ましょう」と、彼女が言う。

「今日は部屋で安静にしていてください」

他に対処法が思いつかず、困り切っているようだった。申し訳なくて、心が痛む。

重要なことを二つだけ教えられた。
フォンカーベルニコフ卿の研究室に安置されているヨザックは、眠り姫と化していて目覚めないこと。
コンラッドは大シマロンの使者で、明朝、ここを発ってしまうこと。おれの傍からいなくなってしまうこと。







指名した護衛付きの自室で一日安静に、なんてしていられる訳がない。

「なあ、コンラッド」

「なんですか陛下」

「陛下って呼ぶな」

彼は一瞬苦笑を浮かべた後、ちゃんと言い直してくれる。

「なに?ユーリ」

その柔らかい声を聞くことが、泣きたくなるくらい幸せだと思う。

「せっかく休みもらったんだしさ、中庭でキャッチボールしようぜ!」

そういう目的に使っていい休みではないことは、もちろん承知しているけれど。

「ユーリ」

コンラッドはすっかり呆れ顔だ。

「安静にしているようにと、ギーゼラから言われたばかりでしょう」

「そんな必要ないってこと知ってるくせに。記憶喪失は病気じゃないんだからさ」

なあいいだろ、と甘えてみる。
キャッチボールじゃなくてもいいんだ。あんたと二人でできるなら何でも。

「……判りました」

程なくして、おれに甘い彼が溜め息と共に折れた。

「自室からグラブを取ってくるので、少し待っていてください」

すかさず言う。

「おれも行く」

「別に逃げたりしませんよ」

「そんなこと思ってないって」

探るような視線がぶつかって、また溜め息。

「……好きにしてください」

「うん、好きにする」

先に出るよう促しながら、コンラッドが扉を押さえてくれる。
使い慣れた野球道具を手に部屋を出た。

聞き分けのない子供のようなことばかり言っているくせに、心の中では今すぐ謝りたいと思っている。







「このへなちょこ!尻軽!浮気者!」

キャッチボールを始めて十分ほどでさっそく邪魔が入った。

「部屋にいないと思ったら、こんなところで何をやっている!」

「見れば判るだろー?」

とりあえず、どこからどう見ても浮気ではない。
乱入してきたヴォルフラムは、一番上の兄にそっくりな顔で眉を吊り上げた。

「部屋で寝ていろ!記憶に異常があるなんて大ごとだろう!」

あまりの剣幕に耳を塞ぎたくなる。心配してくれること自体はもちろん嬉しいのだけれど。

「そんなに大袈裟にするようなことじゃないって。地球ではよくあることだし」

「……そうなのか?」

虚を突かれたような顔のヴォルフラムに聞かれて、尤もらしく頷いた。

「そーだよ」

主に小説の中で、という肝心の注釈は飲み込んだまま、コンラッドにボールを投げ返す。
パチンといい音がする。受け止めた彼と笑い合う。
ずいぶん離れた場所に立っているけれど、今なら何を考えているのか判る気がした。何を考えていないのかも。
大シマロンのことや明日からのこと、そんなややこしいあれこれについては、全く考えていないはずだ。
さっきまでは名付子と弟のじゃれ合いを微笑ましく見守っていたのだろうし、これからボールを投げ返す瞬間は、おれが正しい投げ方を教えた夜のことを回顧するのだろう。そうであって欲しい。

「ユーリ、いきますよ!」

その声に顔を上げる。ヴォルフラムは仏頂面で見物の構えだ。

綺麗なフォームで放られたボールは、まっすぐおれの手の中へ飛び込んだ。



キャッチボールをして、厩舎を覗いて、魔王専用風呂で汗を流して。
彼の部屋のカウチに寝そべって、昔の話をねだってみて、彼の淹れてくれたお茶を飲んで。
穏やかな時間を過ごしたはずなのに何度も泣きたくなった。

ユーリと呼ぶ声、さりげなく触れる手、彼の笑顔。

日が暮れるまであっという間だった。



軍事会談並みに重々しい雰囲気の夕食――グウェンダルは眉間の皺を三割ほど増やし、ギュンターは終始涙目だった――を終え、今日限りの護衛が部屋まで送り届けてくれる。明日からのことでグウェンダルに呼ばれているから、じき、行かなくてはならないらしい。

着替えもせずベッドへ直行する。
静かに斜め後ろをついてきたコンラッドは、咎める代わりに名前を呼んだ。

「……ユーリ」

初めて聞くような硬い声だ。おれはベッドへ伏せたまま答えなかった。

たぶん、最初からばれていたのだと、その声だけで何となく気が付いてしまった。

「嘘なんでしょう?」

作戦は失敗だ。完敗だった。
のろのろと顔を上げる。

「全部、覚えているんですよね?」

畳み掛けるようにコンラッドが言う。
こくりと、小さく頷いた。

「質の悪い嘘、ついてごめん……」

尤も、この男を騙し切れるだなんて、端から思ってはいなかったけれど。



ダルコから戻って一週間。コンラッドは明日シマロンへ発つ。彼曰くの片が付くまで帰らない。
当然、おれには別の専属護衛がついている。今日一日彼だけが傍にいてくれたのは、全て忘れた振りをしたおれの我が儘のせいだ。
そもそも、ダルコからの帰路で別れずに一旦帰国したことだって、「戻ってこい」と命令したおれのせいなのだと思う。
いつも、力の及ぶ限りおれのためだけに動いてくれる彼なのに、こんな形で最後まで振り回してしまった。これっきり愛想を尽かされたとしても無理はないだろう。

できる限り姿勢を正して、おずおずと訊ねる。

「……怒ってる?」

彼の顔を見る勇気は出なかった。

「いえ、別に」

短い否定を信じた訳ではないが、同じ問いを重ねることもできず、独り言めかしてぼやいてみる。

「グウェンやヴォルフには怒られるんだろうなぁ。なんて言い訳しよう……」

「記憶が戻ったことにすればいいのでは」

距離を置かれているように感じる言い回しだ。

「なぁ、やっぱり怒ってるだろ」

「どうしてそう思うんです?」

「なんか……冷たくてよそよそしい」

違う。眞魔国へ戻ってから、ずっと彼はそうだった。嘘をついて忘れた昨日までは。

「あなたは、」と言ってコンラッドが深い溜め息を落とした。

「平気で嘘をつけるような方ではないでしょう?騙すことへの罪悪感で苦しむユーリを見るのが、俺には苦痛だったというだけです」

「……でも、楽しかっただろ?」

ぽつりと呟く。
対する答えはやっぱりつれない。

「あなたが泣きそうな顔をしているのに、心から楽しんだりできませんよ」

そう言って彼は目を伏せる。
怒っているのではなく悲しんでいるのだということを、おれは、その時ようやく悟った。
コンラッドのことだ。今回の茶番すら自分のせいだと責め、背負う罪を勝手に増やしているのかもしれない。
本当にこの計画は失敗だった。

彼との間に起きたことを忘れれば、ずっと傍にいた頃と同じ関係を、一日限りでも築けると思ったのに。
周りの人たちまで巻き込んだ挙句、二人で無理をして笑っていただけなのかもしれない。
残酷な現実から逃げてみたところで、本当に笑い合うことなどできないのだ。

でも、とめげずにもう一度繰り返す。

「今日は付き合ってくれてありがとう。おれは、楽しかったよ。前に戻ったみたいでさ」

泣きたくなる瞬間もあったけれど、楽しかった時もまた嘘じゃない。

「ほら、暫く会えないから、忘れたことにすれば気がねなく付き合ってくれるのかなって、思って」
あんたも少しは楽しめただろ?

そして何の事情も知らない振りで、行くなと大泣きしてみたかっただけだ。その前に嘘は暴かれてしまったけれど。

コンラッドは、朝と同じように黙っていた。

「本当に、忘れられたらいいなって思ったんだけど」

ベッドの上で俯せになって、枕に顔を押し付ける。

「忘れて楽になるなんて狡いよな」

コンラッドのことも、ヨザックのことも、箱のせいで起きたカロリアの惨劇や聖砂国のことも、おれは全て覚えていなければならない。
王様だから。この国の王になると、あの時、自分で決めたのだから。

おれにとっては気が遠くなるほど長い間、彼は傍にいなかった。今日までは少しだけいてくれたけれど、明日からはまた元通りだ。
たったそれだけじゃないかと言い聞かせる。
視界は真っ暗なのに目を見開いて、どうせなら早く行ってしまえばいいのにと思う。

ぎしりとベッドが鳴って少し沈んで、彼が腰掛けたことを知る。


「ごめんね」

不意に優しく髪を梳かれた。

やめてくれ。
その声を聞くとおれは子供に戻ってしまう。

「ずっと傍にいられなくて、ごめんね」

あっという間に耐え切れなくなって涙が出た。

ごめんね、ごめんなさい。

耳元で何度も繰り返される。その度にみっともなくしゃくり上げた。

彼はいつ還ってくるのだろう。明日見送ってしまったら、今度会えるのはいつだろう。

「……もういい」

すっかり涙声だ。情けない。

「行っていいよ」

何度目か判らない「ごめんね」を聞いた後、おれは濡れた目許を拭って、顔を上げて笑ってみせた。

「グウェンのとこ、行くんだろ?」

ずいぶん時間が経ってしまった気がする。彼も、いつまでも此処にいる訳にはいかない。

「おやすみ、コンラッド」

これは、退去を促す言葉だ。
あやすように髪を撫でていた掌が、行き場を失って浮いている。

「ユーリ、今日は……」

何か続くのかと思ったが、何も言わずに口をつぐんでしまう。
やがて彼の香りが遠くなる。

「……おやすみなさい、ユーリ」

返されたのは胸が痛くなるような笑顔だった。
言わずにはいられなくなって繰り返した。

「……おやすみ」

部屋の扉が音もなく閉まる。

コンラッドが何を言おうとしていたのか、おれにはちゃんと判っていた。
耳の奥で聞こえなかった彼の声が響く。


「ユーリ、今日はありがとう」


明日の見送りではもう泣かない。泣きたいけれど、絶対に泣かない。



END

2013.8.22




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