つめあと

ユーリは突き放すように言った。

「護衛なんていらないよ」

まだ声もかけていないのに、足音か何で気取られてしまったらしい。
彼は時々、意外なほどの鋭さを見せて、コンラッドを驚かせることがある。

「そんなつもりで来た訳では…」

グリエの寝かされている部屋から出ていったユーリを、何となくここまで追い掛けてきてしまった。
自室へ戻るのだろうという予想は外れ、彼はまるで夢遊病患者のように、ふらふらと外へ出ていった。
漸く足を止めた場所が、閑散としたこの野球場前だ。夜間ということもあり、人影は他には見えない。

「じゃあなんだよ」

素っ気なくユーリが聞いてくる。彼らしくない。

理由を尋ねられたところで、やはり何となくとしか答えようがないのだった。何となく、去り際の笑顔が引っ掛かって、無理をしているように見えたから。

「ユーリのことが心配だったから」

尤も、コンラッドの気掛かりや関心の対象は、常日頃から彼一人に絞られているのだけれど。
過保護だと呆れる幼なじみの顔が、鮮明に脳裏に浮かんで消えた。

――陽気なお庭番がここへ来てにっこり科を作るだけで、陛下のお心は晴れるだろうに。



「心配されるようなことは何もないよ」

彼は平坦な調子でそう答えた。
本当に?と聞くと黙り込んでしまう。

「ユーリ、」

三歩分空いた距離を保ったまま名前を呼んだ。

「今、泣きそうな顔をしているでしょう?」

確信を持って告げる。見えなくてもそれくらい判るから。

いつもより小さく見える背中が震える。

「してない」

「だったらこっちを見て。俺に顔を見せてください」

ユーリは、動かなかった。

触れられることを拒絶する頑なな背中。
だからコンラッドは手を伸ばせずにいる。

「……一人にしてくれ」

どこかよそよそしい声で彼が言う。

「泣かないから」

「それで俺が引き下がると思ってます?」

「思わない、けど」

離れていた時間が長かったせいだろうか。彼の許へ戻ってきてから随分経つが、ユーリは未だにコンラッドを頼ろうとしてくれない。それどころか、誰にも頼らず一人で立っていようとする。

「ごめん。一人に、なりたいんだ」

その姿に不安を感じている訳ではない。保護者代わりの身としては寂しいが。
コンラッドの目に映る彼はいつも立派な王だ。

けれど、何かとても大切なことを、見落としている気がしてならないのだ。

「……判りました」

とりあえず、今は踏み込むべきではないと思った。
釈然としない思いを抱えたまま、コンラッドはゆっくりと踵を返す。

城へ戻ろうと一歩踏み出した瞬間だった。
違和感の正体に気が付いてハッと足を止めた。

――そういえば、ユーリの手……

歩く彼を追い掛けていた時も、背中を向けて立つ彼を見詰めていた時も、

――掌を、見ていない。

普通なら少しは見えるはずだ。なのに見ていない。

――意図的に隠していた?どうして?



振り向いた。

「ユーリ……!」

彼の両手は体の脇で拳を作り、白くなるほど握り込まれていた。
掌に爪を立て傷ませる。自傷とも呼べるその行為。
どんなに拒絶されようと、それだけは見過ごすことができない。

「……っ!」

ユーリに痛みを与える者は許せないのだ。例えそれが彼自身であっても。いっそう許すことができない。

前へ回り込んで両の手首を掴み、無理やり掌を開かせた。
ぬるりと滑った。
息を呑む。

「血が……」

ほんの一時爪を突き立てたくらいで血が流れるほど、その皮は脆くないだろう。
指でなぞって確かめる。走る痛みに冷え切った手がピクリと動く。

いつもきちんと切り揃えてあるはずの爪が長い。
拘束したユーリの両手には、目を背けたくなるような引っ掻き傷が並んでいた。

「これは……」

もっと酷い傷なんて戦場で幾らでも見ているはずのに、それが彼の手にあるという事実が耐え難かった。
誰一人として傷つけることができないよう、できることなら箱の中にそっとしまっておきたいくらいに、ユーリが大切で堪らないのに。

自分で傷つけてしまうなんて。

「離せよ!」

顔を背けたままユーリがもがく。
離せる訳がない。手首を掴む力を少しだけ緩めた。

「この傷は何ですか」

詰問口調になるのを止められない。ショックだった。

「ユーリ」

こんなになるまで気付くことができなかった。止めてやることができなかった自分に腹が立つ。

どうして離れてしまったのだろう。
きっと彼なら大丈夫だと、根拠もなく信じてしまったのだろう。
あのことがあってからユーリは何度も、あんなに苦しそうに泣いていたのに。
陛下がまだ十六を迎えたばかりの小さな子供だということを、いつの間にか忘れかけていた。

「ユーリ」

彼は唇を噛んで暫く黙っていたが、やがて渋々口を開いた。

「……なんか、さ」

力無い声で答える。

「気付いたら……癖に、なってて」

「感心できる癖ではないですね」

睨みつけられる。涙目だった。

「……っ仕方、ないだろ!どうしても考えちゃうんだよ!」

何を、と聞くまでもない。未だ目を覚まさないグリエのことだ。


『あんたの親友を、大切な仲間を……おれがっ』


忌まわしい地下通路で聞いた慟哭を思い出す。
誰かを犠牲とすることに耐えられない彼は、国へ戻ってからもずっと自分を責め続けていたのだ。表向きは平穏な日々が続いていて、考える時間が出来てしまったから、尚更。
あの時こうしておけばよかったと、全て自分が悪いのだと、心の中で繰り返して。

自分の命なら見知らぬ誰かの為であっても、躊躇いなく投げ出すことができる癖に。自分のことは傷つけてしまえる癖に。



「おれは……っ」

「あ……」

力任せに手を振り払われる。

「おれはもう、誰にも守られたくない!」

ユーリが、地面を睨みつけたまま吐き出した。




「…………王様なんて、もう嫌だ」




どれほどの苦悩と迷いの末、口に出された言葉なのかが痛いほど判った。言ったそばから後悔していることも、本気でこの国を投げ出すことなんてできないことも。

「……そうですか」

答えて、うなだれた彼の背中をトンと優しく叩く。

「では、荷物をまとめてください」

「……え」

追い出されるとでも思ったのか、ユーリが茫然とこちらを見上げる。
そんなはずないのにと微笑んで、コンラッドは殊更甘い声で誘った。

「二人で駆け落ちしましょう」

「……は?」

ユーリがぽかんと大口を開けた。

「俺はどこまででも付き合います。例え心中でも何でもね」

彼はまだ口を開けたまま固まっている。
背中に手を置いて押し出した。

「さあ、早く荷物をまとめて。ヴォルフラムやギュンターに気付かれないようにね」

「待てよ、ちょっと待てって!そんなことしたらこの国はどうなるんだよ!?」

ほら、やっぱり。

王様をやめたいなんて言ったそばから、こんなに国のことを想っている。

「国なんかよりユーリの方がよっぽど大事だ」

敢えてきっぱりと言い切った。もちろん、コンラッドの嘘偽りのない本心だ。

「俺があなたを大切に想うのは、魔王陛下だからじゃないんですよ。それくらい判ってると思っていたんだけどな」

困った顔でこちらを見上げる、闇色の目を見詰めたまま囁くように告げた。

「ユーリを愛しているから。ただ、それだけです」

その目が大きく見開かれる。
にっこりと笑う。

「…………あっ、」

予想よりだいぶ長かった硬直状態からやっと復活したユーリが、

「あんたなぁっ!」

動揺も露に返してきた。

「そんなセリフ簡単にさらっと言うなよ!」

「あれ、俺の重たい愛が伝わりませんでした?真剣に伝えたつもりだったんだけど……ではもう一度、改めて」

恥ずかしがる彼をからかうように、更に顔を近付ける。

「あなたをあ」
「あーっ!」

ユーリは大声を上げて飛びのいた。

「もう一度はいらない!伝わった!十分伝わりましたから!」

恥ずかしがられているというよりも、嫌がられているような気がするのは気のせいだろうか。


「もういいよ」と言って彼は笑った。苦笑に近いものだったけれど、確かに。

「おれはどこにも行かないから。あんたの寒いセリフ聞いたら目が覚めた」

うんざりした顔でそう続ける。
常日頃から彼に寒がられるものといえば。

「……ギャグなんて言ってないですよ?」

「ギャグじゃなくてさっきのアレ!その顔であんなこと言われるとさ、おれもう寒いしこっ恥ずかしいしで鳥肌立った!」

真剣な愛の告白だったのに、そんな受け取り方をされると少々傷付くが。
ユーリが元気になってくれたのならばそれで構わない、と思う。
告白を「寒い」の一言で流されようと、顔に文句をつけられようと、それだけで。



「でもさ、」

ユーリがくるりと背中を向けて、野球場を見下ろしながら続ける。

「あんたに言えばいつでも一緒に投げ出してくれるって判ったから、ちょっとだけ気が楽になった」

「それはよかった」

彼の見ている風景を、一緒に見ていたいから隣に並ぶ。
十六の誕生日に皆から贈った場所だ。泥だらけになって喜んでいた彼の姿が甦る。
今は空っぽのそこを見下ろして、何を思っているのだろう。
目を伏せた静謐な横顔を窺う。
どうしてここへ来たのかは、彼自身にしか判らないことだけれど。

「……王様やめたい、なんて無責任なこと言っちゃって、ごめん」

このボールパークはユーリにとって、異世界における王としての責任をも、思い出させてしまう場所なのだろうか。

「いいんですよ。俺には何を言っても。何でも付き合うって言ったでしょう?」

「……うん」

ユーリはもう一度頷く。

「うん……ありがと」

あんたがいてくれてよかったと、今度こそ彼はコンラッドが大好きな顔で無邪気に笑った。

「こちらこそ」
ありがとう。

何よりも嬉しい最高の言葉だった。
穏やかな気持ちで微笑み合った後、軽く肩を叩いてユーリを促す。

「さあ、ギーゼラのところへ行きますよ」

「え?何で?」

思わず溜め息が零れた。
何でそんなに簡単に忘れてしまえるのかということをこっちが聞きたい。

「傷を治してもらわないといけないでしょう」

「あー……」

バツの悪そうな表情を浮かべてユーリが両の掌を見遣る。

「これは、平気だよ。自分で治せるから」

「なら今すぐ治しちゃってください。痛々しくて見てられないから」

「あー……えぇっと……」

どうも煮え切らない答えだ。
挙句、「どうやればいいんだろ」と言い出すものだから呆れ返った。

「そういえば自分のって治したことなかったよ」

握ると治ったりするんだよな、なんて言いながら、ユーリは手を組んだり合わせたりしてみている。
とても治せるとは思えないし、そもそも真面目に治そうとする気すら見えない。

今度は揉み手を作っているユーリの腕を引いた。

「行きますよ」

「ちょ、引っ張るなって」

「抱っこで運んだ方がいい?」

言ったそばから細い腰に両手をかける。

「そうじゃなくて!」

既に半ば浮いているのだが、彼は躍起になって暴れてくれる。
臑に右足がヒットした。

「こんな時間に働かせちゃまずいだろ!明日でいい!明日ちゃんと見せるから!」

ユーリは意外と強情だった。

「……判ったよ」

ここで不毛なやり取りを続けていても仕方ない。もちろん、無理やり連れて行くことは簡単だが。
彼の意志を無視する必要があるほどの傷ではないはずだと、コンラッドは渋々妥協した。

「では、行き先は俺の部屋で」

更に妥協してお姫様抱っこは断念する。

「コンラッドの?」

軽々担ぎ上げられたユーリが、抵抗を忘れてキョトンと訊いてくる。

「何で?」

歩き出しながら滔々と答える。

「あなたの両手に厳重に包帯を巻いて、爪も短く切ってあげます」

二度と皮膚を傷付けることのないように、思い切り深爪にしてしまおうと決めた。

コンラッドが彼の為にできる何かなんて、そんな些細なことでしかないのだから。



END

2013.7.9




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