貴方が笑うので

その遠い背中を目にした時、彼は本気なのだなと悟った。本気で行ってしまうつもりなのだと。

「待てよ」

素っ気なく声を掛ける。
特に驚いた様子も見せず、ウェラー卿がゆっくりと振り返った。

「……ヨザック」

果して彼はこれから先、何かに驚いたり心を動かしたりすることがあるのだろうか。
そんな疑問を抱いてしまうほど虚ろな顔だった。
無理もない、と溜め息を落とす。彼は再び大切な人を、最愛の主を失ったのだ。
もはやこの世に繋ぎとめることはできまいと、彼を知る誰もが思った。けれど。



――もしもの話なんだけどさ。

記憶の中の陛下は言う。

――もしもおれが、

そう言って笑う。

――死んだとしてさ。







「やめてくださいよ、縁起でもない」

頼み事があるからと、こっそり呼び出された彼の部屋でそんな会話を交わしたのは、まだ春先のことだった。

「でも、人間いつ死ぬか判んないだろ。死んでからじゃ遅いんだし」
あ、おれ人間じゃなくて魔族なんだっけ。

魔族の王なのに今更そんなことを言っている。三男閣下や教育係が、呆れて窘める声が聞こえてきそうだ。

身軽に寝台から飛び下りた陛下は、ぱたぱたと歩いて窓に手を掛ける。
外へ出てしまった彼を追い掛けて隣に並んだ。
彼が、彼の治める国を見下ろしながら言う。

「眞魔国のことはそんなに心配してないんだ。おれ、国政とか判んないから元々任せっきりだし。優秀な臣下がいるからさ。戦争とかはきっとコンラッドやヴォルフが反対してくれるだろうし」

悪戯っぽく最後に付け加えてくれる。

「もちろん、腕利きお庭番もいることだしね。だから、この国は大丈夫だと思う」

そこまで一息に話して陛下は口をつぐんだ。

少し待ってから静かに問い掛ける。

「どうしてオレにそんな話するんです?」

陛下の死後のことなんて。一兵士でしかない自分に、一体何を託すというのだろう。

「コンラッドの、」

彼は、ぽつりと答えた。

「親友だから」

一瞬、縋るような目でオレを見て、また、邪気なくにこりと笑う。

「コンラッドのことを止められそうなのって、ヨザック以外いないと思うんだよね」



あの時、陛下はオレにこの男を丸ごと託したのだ。







二人の間を冷たい冬の風が吹き抜ける。
ウェラー卿の手にある短剣が、月明かりに反射して鈍く光った。

「何をしにきた」

肩を竦める。

「隊長を止めに」

答えながら距離を詰める。すぐに短剣を叩き落とせる距離まで。

「どうして?」

心底判らないというように彼は聞く。理由を見失ってしまいそうになる。

「約束したんだよ」

「約束?」

「絶対に後は追わせるなって。オレは陛下から頼まれてるんでね」

剣を握る手に力が入るのが判った。微かに剣先が震えている。

「ユーリのいなくなった世界でなんて」

幼なじみは乾いた笑いを零す。

「俺は生きてはいけないよ」

「それでもだ」

迷いを見透かされないようにきっぱりと答えた。少しだけ心が揺れていた。

「坊ちゃんの最後の願いを叶えてやれよ」

ポンと肩を叩いてやる。
今、口にしていることは本当に正しいのだろうか。

「『あんたに生きてて欲しい』んだってさ」

――ヨザック、頼むよ。な?

あの時の陛下の言葉なら、一字一句違わず覚えている。困ったように笑っていた。

「オレは、陛下が望まれる通りにしたいんだ。だから何度でも止めてやる」

「……」

「陛下のために、生きてやれよ」

「……もう、どこにもいないのに?」

彼の目は何を見ているのだろう。オレではないことだけは確かだ。きっと現実なんて何ひとつ映していない。
あの炎が燃え尽きた瞬間から、彼は抜け殻のようになってしまった。

離せと泣き叫んでいた彼を思い出す。火の中へ飛び込もうとする彼を止めるために、三人掛かりで押さえ込まなければならなかった。
遺体をすぐに燃やそうと言ったのは猊下だ。
鏡の水底の鍵を身に引き継いだ陛下には、ウィンコットの血が流れていた。自分の血が毒として悪用されることを、有利は望まないからと。



皆、何もかも陛下の望む通りにしようとした。争いをなるべく避けることを誓った。平和を愛した。近々眞王のお告げだか何だかで、新しい王も立つだろう。
陛下を愛した民たちは、臣下は、
オレは、変わらずここで生きていける。けれど。

彼はもう駄目かもしれないと、思った。


――陛下のところへいかせてやった方が、隊長は幸せなんじゃないですか?


頼むよと笑うあなたの顔は、二度と目にすることができないのだ。



彼自身の喉元へと向けられている刃を、オレはまだ奪い取れずにいた。
剣先が赤く染まり始めても、凍りついたようにずっと動けずにいた。



END

2013.6.30

title:capriccio




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