美味しい魔法
「あ!」
何かを見つけたらしいルークが、大きな青い瞳を輝かせた。
彼がはしゃいだ声を上げることは滅多にない。POGの管理官として復帰してからは尚更だ。
ルークは常に大人だった。悲しいほどに大人だった。だから、不意に子供らしい表情を見せてくれると、ビショップは心から安堵する。嬉しくなる。せっかく息抜きのために街へ出たのだから、こうでなくてはならない。
ビショップは穏やかに問い掛けた。
「ルーク様、どうなさいました?」
「あれ」
無邪気に小さな店を指差す姿など、丸っきり普通の少年だ。可愛らしくて、堪らない。
「……ああ」
しかし、彼が見つけたものを視界に入れた時、緩んだ唇は苦笑いに変わった。
「タコ焼きだ!ビショップ、一緒に食べよう!」
嬉しそうにルークが短い距離を駆ける。柔らかい髪がふわふわと揺れる。
この国でよく見掛けるタコ焼きは、彼の一番好きな食べ物だ。けれどタコ焼きなら何でも好き、という訳でもなく、贔屓の店がある訳でもない。
彼はただ、親友と食べるタコ焼きが好きなのだ。ビショップと二人で食べたところで、大して美味しくないだろう。
形のいい眉をひそめて、不思議そうに首を傾げる主の姿が見えるようで、性懲りもなくずきりと胸が痛む。
――ひとりよりも、誰かと一緒に食べた方が……
そう教えた頃のビショップは、自分だって当然“誰か”に入れてもらえるはずだと、思い上がっていたのだろう。ルークの中には大門カイトしか存在せず、ビショップでは到底敵わないことなど、理解していたはずなのに。
ルークの腕にあったオルペウスリングがキラキラと光を放ちながら割れたあの日の翌朝、ビショップはテーブルに二人分の食事を並べた。
彼は気が遠くなるほど長い間、腕輪に色々なものを奪われていた。親友に殺してもらうことだけを渇望し、彼だけに手を伸ばし続けていた。
零れ落ちた涙を見て、胸が痛くなるような微笑みを見て、初めて、彼が奪われたものに気が付いた。
今さら、遅すぎるのかもしれない。けれど、これからは与えたい。まずは穏やかな日常を。
二人分の食事と向かい合った椅子を見て、ルークは当惑したように瞬いた。
「どうぞ」
それでも、手前の椅子を引いて促せば、大人しく腰掛ける。「ありがとう」と小さな声が聞こえる。うっかり涙ぐみそうになった。
「今日からは、私もご一緒させていただきますね」
少々浮かれた心を抱えたまま、何気ない顔で向かいに座る。
どうして、と聞かれるのに先んじて答えた。
「ひとりよりも、誰かと一緒に食べた方が美味しく感じるでしょう?」
POGからも腕輪からも解放されたルークに、普通の人が普通に過ごしている、そんな日常を与えたかった。当たり前のことを教えようとした。それだけだった。
ルークは訝しげに聞き返す。
「カイトじゃなくても?」
ルークにしてみれば何の他意もない、純粋な疑問なのだと、思った。その質問でビショップが打ちのめされたことになど、彼は思い至るはずもない。
カイトとそれ以外しかない、ルークの世界。
「カイトと一緒に食べたタコ焼きが、一番、美味しかったんだ」
ビショップは言葉を返すことができなかった。黙ったまま、ぎこちない微笑みを浮かべた。
彼も黙ったまま暫くビショップを見ていたが、会話が終わったと判断したのか、やがて朝食を咀嚼する作業に取り掛かった。
それきり、二人で食事をとることはなくなると思っていたのだが、ルークが「一緒に食べるんだろう?」と既に決まったことのように言うから、気付けばそれが日常となっていた。
食事中にルークが表情を変えることはなかったし、美味しいかなんて聞けなかった。そんな食事時を何度か繰り返した後、二人は旅に出た。
初めて訪れる空の下、声を上げて笑ったり、燃えるような夕日に見惚れたり。
どんなに美しい景色よりも、くるくると変わる表情を見るのが好きだった。ルークより美しく心惹かれる何かなど、どこにもないのだと改めて知った。
彼は初めての広い世界に夢中で、たびたび逸れてはビショップを心配させた。
珍しい料理は片っ端から食べたがった。そして何度も美味しいと言った。
「美味しい」という言葉を聞くたびに、あの日の痛みが薄れていく。
その他大勢だから何だと言うのだ。ルークはカイト以外の中からビショップを選んで、大切な旅に同行させてくれたのだから。
もちろん、楽しいことばかりではなかった。彼の心にはいつでも罪の意識があり、贖罪のために己ができることを探していた。
自分を責め続けて駄目になってしまいそうな姿だって、見た。上手く眠れないでいることも、嫌な夢ばかり見ていることも知っていた。ビショップが何の慰めにもならない言葉を繰り返すと、ルークは少しだけ笑ってくれた。
旅の目的が、広い世界を知ることからオルペウスオーダーの動きを探ることに変わり、ルークがPOGの管理官として復帰するまで、何もできないけれど傍にいた。いつ何時も一番傍にいた。
家族のように、時に友人のように、二人きりで過ごした旅の記憶は、今になって思い返すとまるで夢のようで。
今でも時間の許す限り傍にいるというのに、この国で見るルークの背中はどうしようもなく、遠い。
買い食いの仕方を覚えた彼は、難無く一人前のタコ焼きを手に入れ、ビショップのところへ戻ってきた。串は二本。
「そこで食べよう」
ルークが指定したのは、公園のベンチだった。あまり綺麗ではなさそうだ。
彼の白い服が汚れないように、ハンカチを一枚広げて敷く。「いらないよ」と笑われたが譲らなかった。
「この色をやめればいいんじゃないか?」
「ルーク様には白が似合います」
納得のいかない顔をしているが、かと言って彼が自分で好みの私服を買ってくることもなく、何だかんだでハンカチの上にも座る。
不毛な言い合いよりタコ焼きを優先したのだろう。
ひとつ、串に刺してふうふうと冷ます。
「お前も食べれば?」
そう、勧められたけれど、とても喉を通るとは思えなかった。美味しくないと言われても微笑えるように、じっとその横顔を見守った。
食欲をそそる、ソースの香り。すぐにタコ焼きが口の中へ消える。どういう食べ方をしたのだか、串にはタコだけが残っている。仕上げにそれもぱくりと食べる。
ルークはびっくりしたような顔で、タコ焼きをあっという間に飲み込んだ。それから。
「美味しい」と、ビショップに向かって言ったのだ。
「このタコ焼き、カイトと食べた時と同じくらい美味しい。前はそうでもなかったのに、何でだろ?」
一瞬、言葉に詰まった。
胸がいっぱいになって、今にも泣き出してしまいそうだった。
「……職人の腕が良いからですよ」
ごまかすように、慌てて答える。
「そういうものなのかな」
何かを思案するように、どこか上の空で彼が呟いて、二個目のタコ焼きに手を出した。
「ええ、そういうものなんです」
ビショップの存在が味に作用する訳がない。またもや思い上がりそうになる心に言い聞かせる。
美味しくする魔法が使えるのは大門カイトだけだ。本当に、特別に味が良いタコ焼きだったのだろう。
それでいい。それでもビショップは嬉しかった。
ルークはちょっと首を傾げて、串に刺さったタコ焼きを、くるりと回しながら言う。
「僕はお前と一緒だから、美味しいのかと思ったけど」
「え」
「ちがうのか」
「え、えと……」
じっと見つめられて、口ごもる。
まさか本当にそんなことが起こり得るのか。とても信じられなかった。
落ち着きなく視線をさまよわせるだけの情けないビショップの姿に、ルークはふわりと笑みを浮かべた。まだ見たことのない顔だった。
「カイトが教えてくれたんだ。大好きな人と食べるご飯は、特別に美味しくなるんだって」
――大好きな、人。
あまりのことに何と返せばいいのか判らない。
伝える言葉も決められないまま開けた口の中に、ルークがタコ焼きを突っ込んできた。
「あげるよ」
突っ込まれてしまった以上、とりあえず食べるしかない。
はふはふ言いながら口を閉じた途端、ルークは真面目な様子で聞いてくる。
「美味しいか?」
「……おいひい、れす」
自分でも聞き取れないほどの不明瞭な声だ。何とか飲み込んでから、改めて答える。
「今まで食べた食べ物の中で一番、美味しかったです」
「……大袈裟だなぁ」
それは火傷しそうなほどに熱くて、とても味わうどころではなかったし、そもそも肝心のタコが入っていなかったが、特別に美味しかったことだけは確かなのだ。
またもや串に残されたタコを、当然の権利だと言わんばかりの顔でルークが食べた。
2014.4.18
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