出来ないこともひとつだけ
近付く車の前で立ち尽くす女の子を助けるため、車道に飛び出した瞬間、
「…っ命…!!」
ついさっきまで隣にいた危の叫ぶような声が聞こえた。
死ぬ覚悟くらいいつでもしている。
最期の瞬間に恋人の声を聞きながら、腕に抱えた子供を救えるならそれは、十分幸せな終わり方だと思って目を閉じた。
キキー…ッ
急ブレーキの音と母親の悲鳴。
これをやったのは二度目だが…どうやら、今回もちゃんと助かったようだ。
子供を轢きかけた運転手は、怒声と共に走り去ってしまったけれど。とにかく無事ならそれでいい。
呆然として声も出ない子供を母親に託すと、ようやく泣き声を上げ始める。
「本当に、ありがとうございました。何とお礼を言えばいいか…」
「いえいえ、気にしないでください」
恐縮する彼女に笑って答えた。
「いつも言ってるでしょ?危ないんだからあっちに行っちゃダメなのよ」
泣く子に言い聞かせる背中を見送りながら、そういえば危は、と思った矢先、降ってきた硬い声に振り返る。
「…命」
――やっぱり怒ってる、よね…?
引き攣った顔の危と目が合った。
「こんの、バカッ!」
軽く頭をはたかれる。
「あはは……ごめん」
へらへら笑ってみても効き目はなさそうだ。
だいたい、今更死の恐怖に震える体では、全く説得力がない。
「後で震えるくらいならあんな事するんじゃねぇ」
「うん、ごめんね」
両手を握る危の掌にホッとして、けれど外だよと言って逃げようとする。
「夜だし誰も見てねぇよ」
そう言って更にきつく握られる。
「だいたい、体だってまだ本調子じゃないんだろ」
「もう大丈夫だけど?」
危は普段の乱暴な物言いに似合わず、かなりの心配性だった。いつまでも車椅子に乗せたり、なかなか仕事をさせてくれなかったり。
“優しい”を通り越してもはや過保護だ。
「それに、俺が助けなかったらあの子は、」
「分かってるよ」
これだけは譲れない、と吐いた反論は途中で遮られる。
「俺だって助けたさ。命より先に気付けばな」
言葉を切った危は、ため息のような深い息を吐いた。
「けど…理屈で納得出来るもんじゃねぇだろ、こういうのは」
黙って頷く。微かに俯く。
言いたいことは、痛い程わかっていた。
俺達が医者でなかったら、きっと普通に相手を大切にして、大切にされて、関係を築いていけただろう。もっと平穏に、幸せに。
「わざわざ俺の目の前で死ぬな、つーかお前は絶対死ぬな」
「危、無茶苦茶言ってる」
どう足掻いても人は死ぬものだ。遅かれ早かれ誰もがいつかは。
「医者として、じゃなく男として言ってんだ」
「…うん」
ため息と共に解放された両手は、温まってもう震えない。
「あーぁー…せっかくお前の病気が治ったってゆーのに、結局、心労が絶えないとはなぁ」
大袈裟に危が嘆いてみせた。
本当に、危には悪いと思っている。
バカ、と怒鳴りつつ泣きそうだった声。思い出せば苛むように胸が痛む。
けれど体は勝手に動いてしまう。目の前の“命”を救いたいから。
殺す覚悟と死ぬ覚悟は、医者である以上、しっかりしてある。今お互いに出来ていないのは、誰より大切な相手を亡くす覚悟だ。そんな覚悟、一生出来ないんじゃないかとすら思う。
「おし、今日は俺の家に泊まりに来い」
「危の家って…病院じゃん」
食事でも行くかと出てきたのにまた戻るのか。
「仕方ねーだろ。お前が無茶したせいだ」
「俺のせいなの?」
「当然」
即答される。
正面の信号がチカチカと瞬く。ほんの十分前に起きたトラブルとそれに続く立ち話で、何度も青を見送った。
「…誰にも見られないところでさ、思いっきり抱きしめたくなった」
行き交う車の音に溶けそうなほど潜めた声で危が言う。
この状況からして既に人目につきたくない感じなんだけど、と思う。
「嫌か?」
…じゃないと、怖いんだよ。
そんな、恋人の不安に揺れる瞳を見て、いったい誰が断れるだろうか。
――まぁ、確かに俺のせいだし……仕方ないか。
もう一度、声には出さずに謝って、それからいいよと目を合わせて笑った。
いつか覚悟が出来るといいのか、そんなもの一生出来なくていいのか。
恋人のお陰で弱くもなったこの心は、未だにその答えを出そうとしない。
2011.3.24
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