音も届かない暗い淵

 休日の駅前で見かけたのは、男の腕に抱きついて甘える少女の姿だった。
 ありふれた光景だ。普段なら何とも思わない。満更でもない様子で彼女に微笑むその男が、自分の恋人でないのなら。
 ――三組の松島と付き合ってるって噂、本当だったんだ。
 派手な容姿をしている雅行だから、噂なんて飽きるほど聞いていて、けれど本気にしたことなんか一度もなかった。
「俺が好きなのは和だけだよ」
 その言葉を、馬鹿みたいに信じていたから。

「あっ、雅行じゃん」
 たった今気付いたというように声をかけた。
 和、と形のいい唇が音もなく動いた。
 あぁ、面白いくらいに固まってる。
「杉野!」
 松島は、微かに頬を赤く染めて、雅行から手を離した。
「なになに二人付き合ってんの?いつから?」
「…二週間くらい前からよ」
 何も言わない雅行の代わりに松島が答える。
「へぇー。全然知らなかった!俺ら友達なのに教えてくれないなんて酷くね?」
 とられるとでも思った?
 固まったままの“恋人”に笑いかける。
「ま、仕方ないか。松島さん人気あるもんな。言い触らしたら皆にやっかまれる」
「もう結構噂になってるんだけどね」
 困るよーと零す松島は、言葉と裏腹に誇らしげだ。
「じゃあ私たちそろそろ行かなきゃ。映画の時間があるから」
「そっか。引き止めちゃってごめんな!」
 遠回しにこれ以上邪魔するなと言われて慌てて謝った。
 きっと松島は、急に黙り込んでしまった雅行を気にしているのだろう。
「また学校でね」
 付け加えられた社交辞令に手を上げて答える。
 松島に腕を取られた雅行が目を逸らす。
 ――何にも言って、くれないんだな。
 二人の後ろ姿を悲しく睨んだ。

 どうして、なんて考えられない。
 一週間前は雅行に抱かれた。昨日は帰りにキスをした。
 彼女を抱いた腕で?彼女に触れた唇で?
 甘い口づけの感触が蘇って、乾いたそこを必死で擦った。赤く腫れるほどに強く。
 痛みなんてカケラも感じなくて、張り付いた笑みが剥がれない。
「和が好きだよ」
 その言葉は嘘?何処までが嘘?本物はあった?
 …嘘なのは、俺?
 喧騒がどんどん遠くなる。
 凍り付いた世界で一人、泣き叫ぶ代わりに笑っていた。


『和?』
 電話がかかってきたのは真夜中のこと。
『松島とは、その…付き合ってるっていうか…』
「……」
『フリーなら恋人になってくれって言われて…男と付き合ってる、なんて言えなくて…』
「……」
『松島には…ちゃんと和のこと言って別れる、だから…』
 許してくれと言う縋るような声をボタンひとつで消し去った。
 真っ暗になったケータイの画面。
 沈んでしまった、閉じてしまった。
 今更もう、遅いよ。だって何にも届かない。



2010.3.24

title:MAryTale




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