BLIND ALLEY

登場人物



・王子様…トランペットを吹いている

・少年…流されやすい主人公

・ヨシダヨシアキさん…たぶん駄目人間

・ヨシダアキコさん…しっかり者の小学生

・ヨシダユキコさん…不倫中のキャリアウーマン

・カワムラシゲヨシさん…ユキコにベタ惚れのエリート社員

・電車の少女…考え続ける淋しがり屋

・ナレーターさん…真面目な優等生

…以上登場順に。







序章



 僕らは終わってしまった世界で生きている。
 終わったことは知っていた。目の前のスクリーンにENDという三つの文字が浮かんでいたから。それでも僕らはまだ続いている。王子様とお姫様が結ばれてめでたくハッピーエンド。観客は拍手をしてその場から去るけれども、舞台が暗くなってもENDの文字の裏で何かが続いている。
 END…終わってしまったせいで観客は一人もいない。誰がENDと言ったのか…役者は空振りの演技に戸惑う。戸惑ったまま生き続けている。
 この世界は終わっている。スポットライトも音楽もない。ENDという文字の光だけを頼りに歩いている。足を踏み外して落ちれば消える。その奈落が何処にあるのかも分からない。そうして消えていった存在を、誰かが嘆き悲しむことはない。喜びすらしない。観客は永遠に去ったのだから。
 薄汚れたドレスの裾を引き摺って、目の前を通り過ぎていく女がいる。きらびやかな偽りの宝石だけ、ひらりと光って存在を主張した。姫は髪を梳かすことを知らない。鏡の前で、ただ芝居の動作を繰り返す。櫛は髪をかすって下に落ちた。

 舞台裏で、銀色のモノが光っていた。誰かが忘れていったのか、劇の小道具だったのか。分からないまま、ふわりと唇を寄せてみる。とても冷たくて、それでも手放せなかった。終わって、初めて始まったものだから、蜘蛛の糸をのぼるように縋り付いた。崩れそうになる身体を床に預けると、譜面台が倒れて楽譜が舞った。希望のようだと思った。楽譜はナイフとなり、肩を傷つける。それでも僕は希望を思った。高々と掲げて息を吹き込む。
 それは、始まりを告げるファンファーレ、トランペット。
「綺麗な音ね」
 彼女は言った。
「始まりを知らせたいんだ」
 僕は闇の中に向かって叫んだ。
「また何か始まるの?」
 言葉に期待が滲んでいた。
「何も始まらないかもしれない」
「じゃあ何故?」
「大声で嘘を言いたい気分だったんだ」
「ステージの上は偽りの世界よ。嘘は真実になるの。ファンファーレを続けて、高らかに」
 僕は血を流しながらトランペットを響かせた。何故か吹き方は知っていた。指が勝手にメロディーを生み出す。生温い血の味が口の中いっぱいに広がる。唇が切れたらしい。黒一色だったこの世界が赤一色に染まったとしても何も変わらないだろう、と思った。僕は疲れて血溜りの中に座り込んだ。



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 空になりたいから、上り続けているのかもしれない。

 僕は毎日階段を上る。
 歩道橋を渡る。駅へ向かう。そして学校の階段を頂上まで。こんな疲れることを毎日毎日繰り返しているのは、学校へ通うためではないと思う。ましてや夢のためなんていう崇高な理由であるはずもない。
 子供のくせに悟りきったようなことを言うなと笑われそうだけれど、僕には生きていて楽しいことも悲しいことも別段ない。テストはいつも平均点、成績も標準、特技はない。友達はいない訳ではないけれど、一緒に教室で昼食を食べる程度の仲だ。そして取柄…聞き上手だとよく言われる。裏を返せば話し下手。
 こんな何もない僕だから、このまま階段を上り続けていても何処にも辿り着かないと思う。階段には必ず行き止まりがあるように、僕が普通というレールに乗って歩いているこの道も、いつか袋小路にはまってしまうだろう。
 チャイムに背中を押されるように上っていく階段は、屋上の扉の前で途切れ、その扉が開いていたことは一度もない。それでもいつか先が現れるんじゃないか、歩道橋や駅の階段にも先があるんじゃないか、そんな期待をして上り続けている。
 なんだか今日の階段はいつもより多い気がする。教室へ辿り着く前に授業が始まってしまったらしい。遠くから、苦しくなってくるようなトランペットの音が聞こえる。その音は僕から階段の続きを見上げる気力を奪い、動き続けていた足が止まる。そして僕は気付いてしまった。
 空へ続く、階段の先を上っている気になっていた。けれども実際僕が進んでいたのは空への道ではなく、永遠に続く下り階段だった。一方通行の階段なんて存在しないはずなのに。確かに今、僕の目の前にあるものは、下り階段でしかなかった。その場でくるりと一回転してみると、前にも後ろにも下り階段が続いているのが見えた。
 今までひたすら階段を上り続けてきたのだから、たまにはとことん下り続けるのもいいかもしれない。
 周りに広がっているのはありえない光景だったけれども、深く考えずに進むことにした。
 空が、上り階段の先にあるとは限らない。下り階段の先にこそ、あるのかもしれない。



B1F



 階段を下ることは上ることより簡単だ。軽い足取りで下っていく。スキップでもしてみようかと弾みをつけて足を踏み出した時、踊り場に人が立っているのが見え、動揺して思い切り転んでしまった。
「イタタ…」
 階段を転げ落ちた僕のことを心配するでもなく、その人は僕に詰め寄ってきて、聞いた。
「おまえユキコを見なかったか?」
「え?」
 その人は若い男で、黒いシャツと黒いズボンと黒い靴を見に付け、手にはサバイバルナイフを持っていた。サングラスもかけていたから、どんな顔をしているのかよく分からなかった。手に持っているのが拳銃なら、銀行強盗犯だと言われても驚かないと思う。
「ヨシダユキコだよ。知ってるだろ?!」
 男は、床に転がったままの僕の胸倉を掴んで揺さぶった。
「いえ…」
 それはすごい剣幕だったけれど、他に答えようがなかった。僕の知り合いにそんな人はいない。
 知らないと答えると、男は僕から手を離し、頭を抱えて呻いた。
「何てことだ。おまえが全て知っていると思ったのに」
 男の言葉に、期待を裏切ってしまった罪悪感を覚え、その感情が薄らぐように、とヨシダユキコさんを捜している理由を尋ねてみる。
「理由?それも知らないのか。おまえは通行人Cってところだな、知ってる訳ないか、残念だ」
 何だか更に申し訳なく思ってしまった。
 男はナイフを隠すどころか、堂々と光らせながら言い切った。
「俺はな、今からユキコを殺すんだ」
 あまりにも堂々としていたので、人を殺したらいけないんじゃないかということは、すっかり頭から飛んでしまった。
「殺すの?どうして?」
「知らないさ、そういう決まりなんだ」
「ふーん」
 よく分からないけれど、適当に相槌を打っておく。
「まぁそろそろスタッフが連れてきてくれるだろ。俺がユキコを殺さないと、皆先に進めないからな」
 そう言って男は踵を返した。もしヨシダユキコさんを見つけたら男に伝えることを約束して、僕はまた階段を下り始める。殺したくて殺すというのなら分かるけれど、決まりだから殺すなんて初めて聞いた。それってどういうことなんだろうと考えながら下っているうちに、あることに気付いて僕は足を止めた。
 振り返ると、目の前に広がるのは下り階段。踊り場も男の姿も消えていた。ここは一方通行の下り階段だから、今まで辿ってきた道も、小さな足跡も、一歩前へ進むだけで全て消えてしまう。ユキコさんには会えるかもしれないけれど、あの男の人にはもう会えない。ユキコさんがこの道の先にいるとしたら、あの男の人はユキコさんを殺せないだろう。出会うことすら叶わないのだから。



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 何だか甘い香りが漂ってくる。両手いっぱいの花束ほど濃厚ではない。カスミソウが一輪落ちているような、ひっそりとした香りだ。次に現れた踊り場は、その香りによく似合う女の子の部屋だった。
 ふかふかの絨毯、勉強机に、少し痛んだランドセル。白いレースのカーテンがかかった窓際では、かわいらしい容姿をした女の子が、無地のクッションにもたれて薄っぺらな本を読んでいる。
 机の隅に置かれたスピーカーからは、流行りの音楽が流れていた。僕はその弾むようなエイトビートと軽い歌声を知っていたけれど、曲名と歌手名は思い出せなかった。
 思い出せそうで思い出せないじれったさを抱えたまま、とりあえず僕は上履きを脱いだ。
「誰?」
 その物音で女の子は顔を上げて僕を見た。
「ええと…」
「分かった。お兄ちゃんの友達でしょ。お兄ちゃんの部屋は隣よ。今出掛けてていないけど」
「うん、そう。そうなんだ」
 答える前に勝手に僕がここにいる理由を納得してくれて助かった。僕は、自分が何故こんなところにいるのか説明なんてできないから。
「もしかして君は、ヨシダユキコさん?」
 違うと思ったけれど一応尋ねてみる。
 質問された女の子は笑った。人見知りはしない質らしい。無邪気に笑う唇からは、台本の台詞を読み上げるように、とめどなく言葉が飛び出してくる。
「違う違う。ユキコは確かママのことよ。あたしはヨシダアキコって呼ばれてる。あなたはママのことを捜してるの?」
「うん、まぁ…」
「あたしもここで、ママが来るのを待ってなきゃいけないの。大事な話をしてもらうから。あなたも一緒に待つ?」
「いや…」
「そうしてくれたら嬉しいんだけど。お兄ちゃんはいないし、ママは全然帰ってこないし、この本はつまんないし、退屈してたの」
 ヨシダユキコさんはここより下にいるはずだ。ここで待っていても会えるはずない。
「君のママはここには来れないんだ。あの階段を下れば会えると思うんだけど。僕と一緒に来る?」
 アキコさんを階段の旅へ誘ってみると、僕が示した方を見て、怪訝そうに首を傾げた。
「階段?そんなのここにはないでしょう?あたしはここで待ってるわ。会えなくてもいい。どうせ本当のママじゃないんだし」
 そう言うとアキコさんは、僕のことなど忘れたように本に目を落とした。踊り場の住民には下り階段が見えないらしい。階段の先の世界のことが少しずつ分かってきた。
 僕はもうアキコさんの読書の邪魔をしないように、とこっそり部屋から姿を消した。



B3F



 明るい色の溢れる部屋にいたせいだろうか。色のない下り階段がさっきよりも暗く感じる。それとも、暗く感じるのは流れている曲のせいかもしれない。下の方から眠気を誘うサックスの調べが漂ってくる。サックスは高音域の透き通ったメロディーを滑らかに奏で、少し休んでいきなよ、と語りかける。
 その言葉にふらふらと誘われて踊り場へ降り立つと、更に照明が絞られたホテルのラウンジが現れた。控えめな模様の入った絨毯を踏みしめて歩く。辺りをぼんやりと照らすランプが、夜の空気を演出している。
 奏でる人を持たない飾り物のハープを横目に人の気配がする方へ進むと、女性が人待ち顔で空のグラスを傾けながら、一人で椅子に腰掛けているのが見えた。
 濃紺のドレスを見に纏った彼女は、20代後半といったところだろうか。もっとも、僕は人の年齢を当てることが得意ではないから、全く的外れだったかもしれない。それに、言い訳をするつもりはないけれど、彼女には年齢を感じさせない美しさがあった。芸能人だと言われてもあっさり頷ける。美術館にあるブロンズのオブジェみたいだと思った。

「あら、やっと誰か来たわね。まぁ座りなさいよ」
 女性はグラスを置いて、隣の椅子を勧めた。
「僕が座ってしまっていいんですか?誰かを待っているんでしょ?」
「いいのよ。待ち合わせ時刻はとっくに過ぎているのだし」
 僕は階段を下り続けてとても疲れていたから、遠慮しながらも彼女の言葉に甘えて隣に座った。階段は上るより下る方が筋肉を使うのだと何処かで聞いた覚えがある。明日というものが存在するなら、確実に筋肉痛になっているだろう。
 とにかく、その椅子はすごく座り心地がよかった。うっとりと目を閉じると、彼女がクスッと笑うのを感じた。その途端、僕は自分の目的を思い出し、恥ずかしくて少し赤くなりながら彼女に尋ねた。
「あなたがヨシダユキコさん?」
「ええ、そうよ。私に何か用かしら?」
 少し興味をそそられたように、ユキコさんが僕の方を見た。
「黒い男の人が、あなたを捜していました。殺すために。そういう決まりなんだって言っていました」
「ああ、きっとヨシダヨシアキさんね。私はヨシアキさんと離婚して、カワムラシゲヨシさんと再婚する決まりになってるの。夫の目を盗んで不倫しているのよ。今夜もこれから、シゲヨシさんがとってくれた部屋で会うの」
「そうなんですか」
 普通は子供に言わないようなことをユキコさんがあっさり口にするから、僕も訳知り顔であっさり相槌を打つしかなかった。
「今夜は、近々夫と別れるつもりってシゲヨシさんに話すことになっているのに、こんな大事な日に遅刻するなんて」
 ユキコさんはそこで軽くため息をついた。
「私、本当はあんな不倫相手より夫の方が好きなの。でも決まりを守って、夫を裏切って、嫉妬に狂った夫に殺されなければならない。正直、どうして私がそんな選択をすることになっているのか分からないわ。私だったら、たとえ夫が多少気に入らなくても、平穏に生きていくことを選ぶと思う。子供がいるなら尚更。
そう、飲み込まなければならないのは全部全部、理解のできない決まりばかりなの」
 どうしてユキコさんはカワムラシゲヨシさんを選び、そして、ヨシアキさんに殺されるのか。きっとお互いに愛し合っていて、平穏な家庭を築いているはずなのに、決まりはどうして崩壊させようとするのか。階段を上る毎日を繰り返していると、疲れ果ててしまうから、息抜きのために全てを壊す決まりを作ったのか。そもそも、どうして大人は会社へ行くために、僕らは学校へ行くために、毎日階段を上る決まりになっているのか。理解できない決まりばかりなのに、どうして守って生き続けるのか。
 僕の頭の中は疑問符でいっぱいになって、今にも破裂してしまいそうだった。
 僕が自分の頭の中に溢れる疑問と戦っていると、ユキコさんがホテルの入口の方を見て、すっと立ち上がった。
「まぁ、シゲヨシさんが来たわ。決まりは守らなきゃ。じゃあね」
 ヨシダユキコさんは、僕の目には映らないカワムラシゲヨシさんをテーブルへ呼び、微笑みを浮かべながら話しかけ始めた。大人の密会を覗くのは気が進まなかったし、制服姿の僕はこの場に不相応な気がして、少し早足になりながら下り階段の世界へ戻っていった。

 この世界で出会う人達は、決まりを守ろうと必死になりながら、守る前に世界が止まってしまって途方に暮れている。
 ヨシアキさんは言っていた。俺がユキコを殺さないと、皆先に進めない、と。
 決まりを守りたい訳じゃない。皆嫌々守ろうとする。でも、決まりを守れなくなった世界はもう、動かない。
 ここはきっと、終わってしまった世界なんだ。終わってしまった理由は分からないけれど。



B4F



 階段が揺れていると思ったら、そこは電車の中で、大人になりきらない少女が一人立っていた。乗客はその少女しかいなかったから席は全部空いているのに、彼女は決して座ろうとせず、電車のドアに寄り掛かって窓に顔を寄せている。
 青白い肌、空調に揺れる長い黒髪…これで白い和服なんかをはためかせていたら、幽霊と間違えてしまったと思う。幸運なことに、実際少女が着ているのはありふれたセーラー服だった。
 電車の中には、車内広告も優先席も何もない。埃は落ちていないし、席も柔らかそうで乗客が腰掛けるのをちゃんと待ち続けていたが、ここは忘れ去られてしまった廃墟のようだった。そんな臭いがした。電車の外側は、黒ずんだ蔦がぞっとするほど絡まって覆っているに違いない。車内が綺麗な分、違和感があって余計居心地が悪かった。
 ふと、窓越しに少女と目が合った。それは一瞬だったけれど、分かった。鏡の中の僕と同じ目だった。周りの人と何故か少しだけずれてしまった人々は、自分の殻に閉じこもって、めったに他人を映そうとしない。
 少女は瞬きをしてその目を隠した後、すぐに振り返って、言った。
「よかった。もうずっとここで独りぼっちなのかと思って怖かったの。電車を乗り間違えたみたい。ほら見て、窓の外。トンネルの中より暗いでしょう」
 窓の外に光はない。自分の顔が見返してくるだけだ。
「…ずっとここにいるの?」
 それはきっと、すごく寂しいことだろう。
「そう、ずっと。いつからかなんて思い出せないくらい。お陰でいろんなこと考えた」
「例えばどんなこと?」
「死について、とか、命について、とか。外があんまり暗いから、暗いことしか考えられなかったの。だから楽しい内容じゃないんだけど…ね、もしよかったら、聞いてくれる?」
「聞くよ。それであなたの寂しさが薄れるなら」
 僕の言葉を聞いて、彼女は初めて笑顔を見せる。その笑顔は、涼しさにまだ慣れない僕たちを温める、遠慮がちな秋の日差しのようだった。僕は彼女に向かって手を伸ばして、もっと暖かさを感じたいと思った。
 けれども結局、僕の両腕が身体の脇から動くことはなかった。僕の内心を知る由もない彼女が、笑みを浮かべたまま語りだした考えの虚しさに、すっかり引き摺り込まれてしまったから。

「子供の頃、猫が車に轢かれて死んでいるのを見て、思わなかった?どうしてこの猫は死んだのに私は生きているの?って。どうしてあの人は死んだのに、私は生きているの?いろいろな存在が消えていったのに、どうして私はここにいるの?って。
「子供の頃の私は、ずっと考え続けたの。そしてちゃんと答えを見つけて納得した、でも私はその答えを忘れてしまった。いろんな役に立たない知識を詰め込まれるうちに、そんな仕組みで世界が動いてるって信じるのを止めたからだと思う。私は答えを思い出したいと思った。
「時間の流れなんて分からないから、どれくらいの時間をかけたのか分からない。でも、ある時ふと、思い出したのよ。その、答えはね…









「ねぇ、人は死んだらどうなると思う?」
 僕は少し考えてから言った。
「空みたいな果てのない海になるんじゃないかな…」
 彼女は何も言わずに、僕の言葉の続きを待っている。
 なんとなく、この少女のためなら、話し下手な僕も、ちゃんと言葉を尽くすことができる気がした。
「…一人一人の命って、川なんだと思う。どんな川だって必ず海に辿り着いて、皆一緒になるんだ。死ぬのは海に辿り着くことで、ゲームオーバーなんてなくて、皆同じゴールに着くだけなんだ。病死しても事故死しても殺されても自殺しても、それはゲームオーバーじゃない。一生が海だけで終わる人もいるけど、別に悲しいことじゃない。誰かがいなくなっても、それは寂しいことじゃない。“また会える”じゃない、“一緒になる”んだ。好きとか嫌いとかの感情はもうなくて、皆一緒になって揺れてる感じ」
「…そんなの分かんない。分かりたくない。どうせ海になるのなら、川がなくてもいいじゃない。生まれてこなくてもいいじゃない。最初から何もないままでよかったのよ。海と川なら一人一人の意味って何?私の価値って何? …あなたにとって、私は何?」
「この前、全ての人に必要とされる夢を見たよ。皆僕を必要だって言ったんだ。でも、人に必要とされるってどういうことか分からなかった。僕の夢なんだから、僕が分からないことを夢の登場人物が分かってる訳ないよね。分からないから、皆、必要だ、必要だって繰り返すばっかりで。僕から少し離れた場所で何回も何回も何回も何回も… 必要の数だけ不必要なんだと思ったよ。同じ言葉を繰り返す人達が怖かった。本当はいらないんだろうって泣きたくなった。夢の中で高い所から落ちたりすると、本当に浮遊感みたいなの感じるよね。あんな感じだった。暗い所へ、ゆっくり落ちていくような…
 そう、きっと価値なんてないんだ。どんな人にも、なんにもない」


 僕らはしばらく、お互いの言葉をかみしめるように、お互いの存在を確かめるように、黙りこくっていた。
 そして、少女は何もかも諦めたようにため息をついて言った。
「きっと、私はもう死んでるはずなの。生きてたら独りぼっちで電車に乗って、暗闇の中取り残されてるはずない。死んでるのに、何処にも行けない。何処かに行きたいとすら望んでない。消えてしまえばそれでいいのに…。
 でも、これでよかったとも思ってる。私は自分で死を選ぶ勇気すらない臆病者だから」
 彼女は自嘲するように笑ってから、一粒の涙を零した。
「泣かないで。僕がきっと助けるから。あなたのことを消して、海に帰してあげるから」
「…そんなこと、できるの?」
「分からないけど。この世界は終わってしまってるけど、僕はきっと違うんだ。この世界を旅してるんだ。だから、この世界に閉じ込められた人を、消してしまう方法を探しに行ける」
「…私のこと、きっと助けてね」
「うん、きっと」

 別れ際に、少女は尋ねた。
「また、会える?」
「…会えないけど、死んだら一緒になれるから。皆ひとつになるんだから。寂しくなんか、ないよ」
 僕が一生懸命考えてそう答えると、彼女はもう一度だけ小さく笑ってくれた。



B5F



 埃を被った蛍光灯が、チカチカと瞬いて消えた。
 僕はとてもぼんやりしていたから、どれくらい階段を下ったのかよく分からない。とりあえずぼんやりしていられるくらい長い間、下り続けたのだと思う。少女と別れたことが、ひどく寂しかった。風も吹いていないのに寒さを感じて、自分の身体をそっと抱きしめたけれど、本当に寒いのは身体ではないのかもしれなかった。
 他のことに気を取られていた僕は、下り階段が途切れたことにも気付かなかった。

「君は、僕のトランペットを聞いてくれたんだろ?」
 最後の踊り場の住民は、唐突に目の前へ顔を出して僕を驚かせた。
 嬉しそうに、僕に話しかけてきたのは、板張りの床に座り込んでいる赤い少年。
 そこには、ほとんど光がなく、少年の姿を浮かび上がらせているのは、三つの文字。スクリーンのようなものに白く光るEND。映写機は見当たらなかった。何処から光が当たっているのだろう。
 少年の背後には金網があって、幾つもの重りが乗ったロープが何本か垂れ下がっていたけれど、それが何なのか僕は知らなかった。
「トランペットの音は聞こえたよ。あれは、あなたが吹いていたんだね」
 音楽室から聞こえてきたのだと思っていた。
「よかった。ちゃんと他の世界に届いていたんだ」
 少年は口元の血を拭って立ち上がった。
 道理で聞いていて苦しくなる訳だ。
 肩も赤いよ、と指摘してみる。彼は慌ててそこに触れたが、傷にあたったらしく、少し顔をしかめた。
舌打ちをして言う。
「何かおかしいよな、この世界は。終わっているのに血は流れるなんて」
「どうして怪我してるの?」
「さぁ、どうしてかな。この身体から血液がなくなれば、消えられる気がしたからかもな」
 少年は独り言のように、ぼそりと答えた。
 僕はうまい答えを見つけられなかった。諦めて話題を変えることにする。
「ここは、何処なの?暗くてよく見えないんだけど」
「ああ、たぶんこの場所は一番暗いんだ。もう少し先へ行けば分かるよ」
 ついておいで、と彼は言う。僕より少しだけ背が高い。
 垂れ下がっている黒い幕を何枚か除けながら進むと、すぐに視界が開けた。スクリーンの文字も近くにある。
 改めて少年の格好を見てみると、赤い衣装を着ている訳ではないことが分かった。元は白かった衣装が血で赤く染まっただけらしい。
 少し明るくなったお陰で、周りの様子もさっきよりよく見えた。
「ここ、ステージ?」
「当たり。スクリーンがあるから客席の方は見えないけど」
 ここは高校の体育館で、スクリーンの向こう側には、よくあるパイプ椅子が列を乱して並んでいるはずだ、と説明してもらった。
 聞いているうちに一つの疑問を感じる。少年は決められた役割を持っていないみたいだ。
「あなたには守ろうとする決まりはないの?」
「決まり?あったのかもしれない。でも、もう忘れた。出番を迎える前に終わってしまったから。たぶん僕らは文化祭でクラス劇を演じていたんだ。トランペットや楽譜があるから、ミュージカルだったのかもな」
 手作りらしいドレスを着て、曇った鏡の前に立ち尽くすお姫様。くしゃくしゃになった背景画。倒れた譜面台。床一面に散らばる楽譜たち。持ち主に置いていかれて、言葉を忘れた管楽器。ステージの手前の方には演目が示されているらしい紙があるが、暗くて文字を読むことはできない。
「まだ劇の途中だったのに、何故か終わりになってしまった。クラスメイトは演じていた役に閉じ込められたまま」
 ここは、途中で終わってしまった劇に閉じ込められた世界。ヨシダユキコさんやヨシアキさんたちは同じ舞台にはいなかったから、ドラマか映画の撮影が途中で終わってしまったせいで役の中に閉じ込められているのだろう。電車に乗っていた少女は、考えている途中で終わってしまったから閉じ込められているのかもしれない。電車の中では、考え続けること以外、何もできそうになかったから。それが、少女の背負う決まり。
 納得はできるけれど、途中で終わってしまったというだけで閉じ込められるなんておかしい。まだ、何かが足りないと思う。
「そういえば、皆が皆、閉じ込められたままって訳でもなかったな。もうここに来て随分経ったと思うけど、クラスメイトの数くらい覚えてる。いつ一日が終わるのか分からないから毎日必ず、とは言えない。でも気が向いた時に数えると、減ってるんだ。確か担任なんて最初に消えてた」
 少年の言葉を聞きながら、僕は少女が話してくれたことを思い出していた。もしかしたら、あれがそのまま答えになるのかもしれない。
「ねぇ、僕、全部説明できるかもしれない。さっき女の子が話してたことなんだけど」
 僕は、勢い込んで少年に話しかけた。
「聞きたい。教えてくれる?」
「もちろんだよ」
 彼は僕の手をひいて、大道具らしいベッドの所まで歩いた。僕らはそこに、並んで座った。
「あのね、一方通行の下り階段みたいな話なんだ――







 ――例えば、今ここに私は生きているけれど、ひとつ前の世界では、猫と一緒に車に轢かれている。もうひとつ前の世界では、病院のベッドで死んでいる。またもうひとつ前の世界では、私のお葬式の真っ最中で、更に前の世界では、墓地に並ぶ墓石の上に、私の名前が彫ってある…別の世界では、植物人間状態で、ずっと眠っているかもしれない、そんな風に、一瞬ごとに時間ではなく、世界が進んでいるのだと思った。こうしてぼんやりしている間にも、気付かないうちに背負っている世界は移り変わるのだと思った。生きてきた時間の分だけ、無数に世界は散らばっている。その世界のどれを覗いてみても私はいない。死んでいる。
 死ぬたびに進んでいく世界。たった独りで歩き続けてる。誰かと繋がるなんて、そんなことできやしないんだ。一緒に笑っていたって私を置いて次の世界へ行ってしまうんだ。誰かが死ぬたび、選ばれた人々が、誰も死ななかった世界へ消えていく。手を繋いでいたって、いってしまう。
 答えを思い出して、すごく寂しくなった。結局人は皆孤独だと気付いたから。
 一瞬ごとに世界は変わっていくんだよ。一瞬ごとに私は死ぬんだよ。こうやってあなたと話しているけれど、同じ世界にいる訳じゃないんだよ。何の意味もない。楽しかったこと、つらかったこと、幸せだったこと…過去は全て一瞬前の世界に置き去りにされる。思い出がだんだんぼんやりとして、最後に消えてしまうのは、一瞬前の世界に落としてきているから…だと思った。
 嫌なことがあったら瞬きをするだけでいいんだ。目を閉じて、また開けば世界は進んでいるから。そうして何回も…自分を殺す。


 本気で信じていたのは子供の頃だけなんだけどね、と彼女は俯いた。
 そして僕に聞いたのだ。
「ねぇ、人は死んだらどうなると思う?」







 …一瞬ごとに自分が死んでいって、死ぬたびに自分が死んでいない世界へ進んでいくっていうのは、ありえないかもしれない。でも、一度くらいなら、そんなことが起きても不思議じゃない」
「そうか、僕らは劇の途中で死んでしまって、次の世界へ行けずに取り残された自分なんだ。僕らが死んでも、“僕ら”は別の世界で生きているから、本当に死ぬまで消えられない。担任は何かがあって本物が死んだから、すぐに消えたんだな」
「つまり、本物の私たちを殺せばいいのね」
 急に、新しい誰かが話に割り込んできた。短めの髪を肩の上で遊ばせ、紺色のブレザーとスカートを身につけている、普通の学生が立っていた。学級委員でもやっていそうなタイプだな、と全く関係ないことを考えた。
 彼は驚いた様子もなく、確かめるように言う。
「聞いてたのか」
「あなたのトランペットで呼んだのはこの子なのね」
「そうかもしれない」
 あの音を聞いた後、ただの階段が下り階段に変わったのだから、きっとそうに違いない。
「どうすれば殺せると思う?」
 少年は答えずに、傍らに転がって鈍い光を放っていたトランペットを手に取った。
「またファンファーレ?」
「…レクイエムでも吹こうかと。本物の僕らが死ぬように祈りながら」
「でも」
 レクイエムは死者の安息を祈る音楽だった気がする。
「レクイエムの意味くらい知っているさ。仕方ない、今更賛美歌を吹くのもバカバカしいし、呪いの詩なんて知らないから」
 少年が厳かに息を吸う。
 物悲しい旋律が、暗闇のステージを包む。
 少年の血に濡れた唇は祈りの詞を囁くように動き、詞の代わりに音を吐き出す。
 役に囚われていた人々が、少しだけ自分を取り戻して、黙って耳を傾けているような、そんな気がした。同じように曲に聞き入っていた少女が不意に尋ねた。
「さっき言っていた、一方通行の下り階段みたいな話ってどういう意味?」
「あれは、あ、その前に聞いてもいいかな、あなたは誰?」
 今まではひとつの踊り場に一人しかいなかったから区別をつける必要はなかったけれど、ここにはたくさんの人がいるらしいから皆“あなた”で済ますことはできない。
「私はナレーター役。名前は忘れたわ」
「ナレーターさんは祈らないの?」
「トランペットの音を聞いていたら、私の中に積もり続けた言葉を吹き飛ばしたくなったのよ。ずっと話し相手なんていなかったから」
 そこまで言ってから彼女は、今の台詞は忘れてくれというように、慌てて言葉を重ねた。
「そんなことより、下り階段の話をしてよ」
 僕は急かされるとうまく話せない。落ち着こうと思って目を閉じると、微かに雫の落ちる音が聞こえた。少年の唇から、血が滴る音。
「えーと、僕は階段を下り続けて、ここまで来たんだけど、それは一方通行の下り階段で、一段下ると、さっきまでいた段は消えて、僕の前にあるのも後ろにあるのも下り階段なんだ。一瞬ごとに自分が消えて世界が進んでいくのと同じかな、と思って」
「そうね、本当に一方通行の一本道だわ。恋人と心中しようと考えた時、次に進んだ世界は、恋人が死んで自分だけ生き残った世界かもしれない。何事もなかったように恋人と過ごしている世界かもしれない。思いがけなく友達が死んでいる世界かもしれない。一瞬前と何も変わらないかもしれない。誰に生きていてほしいとか、あの人は死ねばいいのにとか、要望なんて聞き入れられない。大事な人が死んでしまった、その人が生きている世界もちゃんとあるのに、もう会えない。会う必要もない。寂しいのはこの私だけで、大事な人は別の世界の私と、何も変わらず生きているから」
「なんだ」
 結局同じじゃないか、と僕は思った。
「今まで普通に過ごしてきた毎日も、一方通行の下り階段だったんだ。道はいくらでも広がっていて、僕はしょっちゅう迷子になった。好きな道を選んで歩いてた。振り向いても、歩いてきた道は消えてしまったりしなかった。でも戻ることはできない」
「そうね。迷子になって、来た道を戻っても、それは行きとは違う道。道を間違える前には戻れない。間違えた時点でもう手遅れ。私たちは一体何処で間違えたのかしら…」
 僕は何だか歩き始めてもいないのに迷子になった気がして、呟くように言った。
「…こんな仕組みで世界が動いてるって信じて、何かいいことはあるのかな」
「少なくとも」
 ナレーターさんは言葉を発してから、考えるように少し間を置いた。
「少なくとも、慰めにはなるわね。死んでしまった人も何処か別の世界では生きていると思うことは。それに、死んでしまいたくて堪らなくなった時、私はもう既に何回も死んでいると思えばせいせいするかもしれない。私は今きっと十六歳くらいで、約六千日生きているけれど、少なくとも一千万回は死んでいるってね」
 その時、僕は自分が透明になったような気がした。彼女の目は僕を通り抜けて、もっと遠くを見つめていた。ここにいるのは彼女一人きりだと思い込むように。
 きっと、今まで外に出したことのない言葉を、逃がしてやりたくなったんだろう。少年の音楽に背中を押されて。
「そういえばここへ閉じ込められる前、つまり普通の生活を送っていた頃のことだけれど、私は普通の人間が送る普通の生活ってものにほとほとうんざりしていた。私には夢があったの」
 彼女はレクイエムに乗せて歌うように夢を並べた。
「白い白い何もない世界の中で、
 ずっと空白の夢を見ていられたらどんなにいいだろう、
 それは幸せでもないし不幸でもない、
 なんの感情もない世界、
 生きてもいないし死んでもいない、
 ただずっと果てぬ夢を追い続けるだけ。
「世界でなくなった世界に行きたかった。ここは黒い闇の世界だった。白い世界でないことを除けば夢の通りになった。夢は叶った。そして、こんなことを望んだんじゃないと泣きたくなった。だから今は、消えてしまうことだけが唯一の希望だわ」
 ここでは当たり前の幸福を語るように、皆、消えてしまいたいと願う。消えたい、が、お金持ちになりたいとか素敵な人と結婚したい、とかと同列に並んでいる。変な世界だな、と思う。もっとも僕も、消えてしまいたいと願いながら生きてきたような気がするけれど。



 彼女はすっきりした顔で小さく息をつき、難しい話はもうたくさんというように軽い調子で、私幽霊なのね、と言って笑った。
「そうだ、劇のナレーションをするわ。今思い出したのよ」
 ナレーターさんは、僕の方ではなく客席があるだろう方向を向いて立つと、レクイエムを消さないくらいの声量で台詞を紡ぎ出した。
「あるところに、とてもとても美しいお姫様がおりました。お姫様を目にした者は皆、その美しさの虜になってしまいました。身の回りの世話をする者もお姫様に見惚れてしまって、とても仕事になりません。困った王様は誰の目にも曝されない古城にお姫様を閉じ込めてしまいました。結婚できる年になるまで、お姫様はずっと一人ぼっちで育ちました…
「でもね、お姫様は独りぼっちではなかったのよ。今、ステージの上、お姫様しか見えないでしょう?」
「うん、見えない。他の人たちは何処にいるの?」
「皆、幽霊役なの。だから簡単には見つからない」
 幽霊役が幽霊になったのね、と彼女がクスクス笑う。
「お姫様は、彼女に見惚れたりしない幽霊たちと幸せに暮らしている。その平穏が、彼女に求婚した王子様によって壊されるっていう変なあらすじだった。王子様と結ばれてハッピーエンドなんてつまらない、王子様が現れて不幸になる話にしようって彼が言ったの」
「彼?」
「レクイエムを吹いている彼のこと。彼が人を不幸にする王子様よ」
 もうこれ以上言葉は出てこない、というようにナレーターさんは口を閉じてしまった。代わりに見えない鍵盤でトランペットのメロディーに伴奏を付け始める。僕も、今日一日で一生分言葉を使い果たした気がしていたから、何も言わなかった。いや、今までが全部一日だったのか、一週間くらいだったのか全く分からないけれど。
 演奏に参加できない僕は、隠れているらしい幽霊役を捜そうと思い、辺りを見回してみた。人のいる気配は感じるけれど、どうしてもお姫様以外は見当たらなかった。どうやらお城が描かれているらしい背景画が、一人も見つけられない僕を笑うようにカサカサと波立った。
 少年は、クラスメイトを全員見つけ出して、何回も人数を数えたと言っていた。僕には誰か一人を見つけることすらできないのに。彼はどうして見つけられたんだろう。やっぱり王子様だから、なんだろうか。

 考えても仕方のないことで悩むのは止めて顔を上げると、王子様が目の前に立っていた。演奏はもう終わったらしい。
「別に期待をしてはいなかったけれど、そう、期待なんてもうし尽くした。神様は死んだ僕らの祈りを聞いてはくれないみたいだ」
「生きている時に聞いてもらった覚えもないわ」
 虚しく響く王子様の言葉を受けて、ナレーターさんが小さく零した。
 僕も一緒に祈るべきだったのかもしれない。王子様がトランペットを吹いている理由を忘れて、すっかりナレーターさんと話し込んでしまっていた。申し訳なくて俯いた僕の手を、王子様はしっかり握り締めた。その力強さに戸惑って顔を上げると、懇願するような目が僕を刺し貫く。
 血を滴らせながら、王子様が僕に言う。
「お願いがある。君はここじゃないところに行けるんだろ?本物の僕らを殺して、ここにいる僕らを解放してほしいんだ」
「そんなこと僕にできるのかな、僕には…」
 叶えてあげたかった。電車で出会った少女のためにも、僕はそうするべきだと思った。それでも。それは途方のない願いだった。
 無理かもしれないと続けたかった僕の言葉を遮って、王子様は自分の役割を思い出したかのように堂々と宣言した。
「大丈夫さ。君の役割はきっと救世主だ。僕がトランペットで呼んだのだから」



終章



 ずいぶん長居してしまった踊り場を出ると、やっぱり目の前にあるのは下り階段だけ。階段はいっそう暗さを増し、進むべき方向に目を凝らしても何も見えない。
 真っ暗闇の中、縋るものなど何もないまま、一段一段階段を下っていく。
「あ…」
 足を踏み外したのか、段がなくなったのか、踏み出した足は空中へ投げ出され、身体が暗闇の底へ吸い込まれる。

 現実じゃないみたいだ。何処までも落ちていく夢みたいだ。


 僕には、今までに出会った少女や王子様の望みを叶えることはできない。
 終わっていない世界には、もう二度と戻れない。僕に誰かを救うことができるなら、ここに気が遠くなるほど長い上り階段が広がったはずだから。
 薄々気付いてはいたけれど僕は、救世主のような特別な人間ではなく、彼らと同じように偽りの死を迎えた、終わってしまった存在、でしかなかった。

 落下し続けている、そんな状況なのに、だんだん眠くなってきた。強烈な眠気にどんどん引き摺り込まれていく。
 目が、意識が、完全に閉じていくのを感じながら、僕は最後に考えた。



 この暗闇の底の更に先に、ちゃんと空は広がるだろうか。

 それとも、僕は階段を下る役割として、永遠にここへ閉じ込められてしまうのか―――



2008.11




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