大人になれない

 膝を抱えて空を見上げる。夜の外気はひんやりと冷たい。
 あてがわれた部屋から抜け出してきた。あの場所はどうも落ち着かない。
 清潔に保たれ、無駄としか思えない装飾が至る所に施され、明るく、柔らかく、優しいと思う。
 何処をとってもジャーファルには似つかわしくなかった。
 王を狙った暗殺者なんかには。

 何を考えているのだろうか、あの人は。対象者だったから彼について多少の知識はあるが。
 四つ年上で、迷宮と呼ばれるものを幾つか攻略していて、女たらし。シンドリアの王。
 事前に知っていたことはそれくらいだった。
 若いながらずいぶん偉大な王らしい。しかしどんなに力を持っていようが、切り付けて赤い血が流れることは今まで殺した他の人間と同じだ。
 襲撃には敏感。感覚が研ぎ澄まされている。十分に気配を殺したというのに気付かれてしまった。失敗したのは初めてだった。
 失敗は即座に死を意味する。暗殺とはそういうものだ。
 そういうものだと、思っていた。

 あの王様はどういうつもりなんだろう。
 もう一度考える。
 刺客の命を奪わないなんてとんだ気違いだ。
 あんまりおかしな人だから気になってしまう。もっと知りたいと未練が湧く。

 ――何をやっているんだ。

 戸惑う。
 苛立つ。

 手の中の刃物を弄びながら、白く大きな月を見上げる。
 任務を失敗したからには、この存在は何の価値もない。早く消さなければならない。
 客室が不相応に綺麗だったから、汚い血で汚すことは躊躇われた。
 ここなら血液は土に染みて消える。

 ――早く、この刃で喉元を裂け。





「やめなさい」

 人影が差して、ハッとした。
 声は静かなのに手首を掴む力が途方もなく強い。
 シンドバッド王の手だ。

 淡々と言った。

「痛いです」
「その刃が刺さったらもっと痛いぞ」

 そうだろうか。
 ジャーファルにとっては彼の掌の方が痛い気がする。
 熱い体温、無機質な刃。
 どちらが痛いかなんて決まっている。

「俺はお前を死なせないと決めたんだ」
「そんなこと、勝手に決めないでください」

 変な王様だと思う。
 普通なら迷いなく殺さなければならない者が、進んで自ら死のうとしているのに、捜し出して、こんな場所までやって来て、止めるために説得を試みている。
 一度や二度なら気まぐれかもしれない。けれども、止められるのはこれで三度目だった。

「……少し、話をしようか」

 相変わらず静かな声が聞こえる。
 武器はこの手の中にある。彼はそれを奪ったりしない。
 しかしこの王様が来てしまった以上、今日死ぬことはできなくなった。
 綺麗な客室と同じだ。この人も己の血で汚したくない。
 理由も分からないのに、そう思う。

 触れられないほどに、遠い人。

「あの時も一応言ったんだが……俺の話なんて全く耳に入っていなかっただろう?」

 いつのことやらと首を傾げる。
 彼とまともに言葉を交わした覚えはない。

「お前が俺を殺しにきた夜だよ」

 具体的に言われても思い至ることはなかった。
 声など聞いていなかった。何も聞こえていなかったと思う。
 頭の中は真っ白で、自害しようとして止められて、暴れている内に気を失った。記憶に残っているのはそれだけだ。
 その後のことはあまり覚えていない。
 目が覚めたら客室らしき場所の寝所だった。
 すぐに死のうと思ったが、見張りがついていて叶わなかった。
 あの時ジャーファルのそばにいたのは、シンドバッドだったのだろうか…?

 判断がつかないまま黙っていると、彼が小さく溜め息をついた。

「仕方ない。もう一度言ってやろう」

 シンドバッドの表情は、苦笑していても何となく温かい。
 かなりの体格差があるというのに威圧感もない。
 目線を合わせてくれるからだ。

「とりあえずその前に、だ。そろそろ名前を教えてくれ」

 思わず身構えたジャーファルを見てとって、どこかへ突き出すとか、そんなつもりはないさ、と言う。

「名を呼んでみたいだけなんだ」
 言いたくないなら、それ以外のことは聞かない。

 だから何だというのだろう。

 思うのに悪意のない瞳に負けて、小さな声で答えた。

「……ジャーファル、です」
「そうか、ジャーファル」

 さっそく声に出された名前に、その響きを聞くのは久方振りだとほんの少しだけ擽ったく思った。

「君が死ぬにはまだ早過ぎるぞ。もっと楽しいことを知ればいい。それからでも遅くはないはずだ」
「…楽しいこと、ですか……?」

 ぼんやりと聞き返す。
 楽しいという単語から、喚起されるイメージが何ひとつなかった。

 彼が痛ましげな表情を浮かべる。

「今まで、笑ったことはあるのか?」
「覚えて、いません」

 重ねて聞かれる。
 彼が望むのだろう答えを返すことができない。

 俯いてしまった瞬間に、にゅっと両手が伸びてきた。

「表情筋が勿体ないな」
 あんまり使わないと老け顔になるぞ。

 そう言って口の両端を、痛みを与えない程度に軽く引っ張る。

「せめて一度くらい笑ってから死になさい」

 この人の体はいつも熱い。火傷してしまいそうだと思う。

「そんなことできません」

 するつもりすらないと答える。

 感情を動かすなど無駄なことだ。暗殺者には不必要だ。
 自分が笑うところを想像してみる。
 滑稽だった。
 人の血に塗れたジャーファルが、彼のように、優しく笑う。
 相手を油断させるためには、効果のあることなのかもしれない、けれど。

「……ジャーファル、お前はもう暗殺者じゃない」

 断言されて、酷く戸惑う。

「笑い方も、楽しいことも、全てを俺が教えてやる」

 言い聞かせるように彼が続ける。

「お前は強い。その力を、今度は誰かを守るために使えばいい」
「…誰か……?」
「そうだな…守りたい者が見つかるまでは、とりあえず俺ということでどうだ?」

 こともなげに、あっさりと言った。
 それでいてジャーファルの答えは待たない。

「さぁ、中へ戻ろう」

 右手を引かれる。
 凶器を隠した掌なのに、彼は躊躇いもなく掴んでみせる。

 誰かを、シンドバッドを守るために、この力を使う。
 人を消すためだけに身に付けた、この忌むべき能力を。

 考えたこともなかった。



 客室の扉を開いて彼は言う。

「ちなみにここは…客室ではなくお前の部屋だよ」

 自分は変わることができるのか、誰かを守ることができるのか。
 それはまだジャーファルには分からないし、想像もつかなかったのだけれど、とりあえずもう少し生きようと思った。



 十一年前の幼かった頃と、同じように膝を抱え、ふっと息をつく。
 結局、彼以外に守りたい者などできなかった。
 今でもジャーファルにとっては、シンドバッドとシンドバッドが築き上げた国が全てだ。少しは視野も広くなったと思うが、根本的なことは何も変わっていない。
 たった一人に執着し続ける。初めて救いを、優しさをくれた人の背中を追い続ける。
 大人になれない。異性を愛することもない。男も女も子供も全て、シンドバッドの愛する国民、という括りでしかない。そう思うから、皆、平等に愛しい。
 敵は彼を侮辱し、傷つける輩。
 どんな人間も、シンドバッドとの関係性を踏まえた上で存在が認識される。
 もう二十代半ばなのだから結婚の話もちらほらとくるが、全くそんな気にはなれない。

 思うに、「仕事と結婚する気か」と、からかい朗らかに笑う、彼に向けた感情こそがたぶん恋そのもので、既に常軌を逸した愛だった。
 彼からはあんなに愛情を注がれて育ったはずなのに、どうしてこんなにも歪んでしまったのか。

 重い溜め息をもうひとつ落とした。
 眠り損ねた夜はどうも、思考が暗い方へばかり転がってしまっていけない。



「何をしているんだ、ジャーファル?」 
 こんな真夜中に。

 主君の声が聞こえて物思いから覚めた。
 慌てて振り返る。

「眠り損ねたので涼んでいただけです」
「こんなに長い間外にいては、たちまち風邪をひいてしまうぞ」
 寝間着じゃないか。

 彼の上着を肩にかけられた。
 相変わらず様々な香の混ざった匂いがする。決して不快でないことが不思議だった。

「いりません、シン。あなたに風邪をひかれる方が困ります」

 突っ返そうとするが受けとってもらえず、隣に座り込んでしまうからますます慌てる。

「ちょっと出てきただけですから。すぐ戻りますよ」
「おまえの“ちょっと”とは数時間のことなのか?」

 切り返されて、言葉に詰まる。

「……見ていたんですか?」
「上からな」

 そう言って彼が頭上を指した。
 指につられて見上げると、確かに通路の窓が見えた。

「おまえがここにいるとどうも不安になる」

 遠い目で、シンドバッドが独り言のように言う。
 理由を問おうとして口に出す前に気付いた。
 あの時、この場所で、ジャーファルが自らに刃を向けたからだ。

「ぼんやりしていただけなんです」
 本当に。

 過去のことやら、目の前の男のことやらに、ひたすら思いを馳せていただけで。

 昔のように、自害しようなんて馬鹿なことは考えない。そんなことをしたら勿体ない、そう、思えるようにもなった。
 ひとつしかない命ならば、できる限り有効に使わなくてはならない。
 今、ジャーファルが望むのは、シンドバッドの役に立つこと、世界の異変に立ち向かう彼を、護衛としてしっかり守りきることだ。例えどんな手を使ってでも。

 ――あなたを庇って死ねたなら。

 それは唯一の望みで一番の、幸福。

 本人に告げるつもりはない。臣下が傷を負うだけで心を痛めるような、とても優しい人なのだから。
 自身が歪みきっている自覚もある。

「捜していたんだ。お前の部屋も三度ほど訪ねた」

 シンドバッドの声を聞いて、狂った思考を止めた。

「何か用事でした?すみません」
「たいしたことじゃない。ただ、たまには一緒に酒でもどうかと」

 そう言って、悪戯を打ち明ける子供のように笑う。

「それ、私が同意すると思ってるんですか…?」

 彼の笑顔は何年経っても少年のままだ。
 冒険が好きで、楽しいことが好きで、いつまでも夢を追い続ける。
 王という立場に縛られても、結局はフラフラと抜け出してしまう。

「十回に一度くらいはお前も付き合ってくれるだろう?」
「まぁ、そうですが」

 毎度毎度了承していてはキリがない。
 と、いうより耐えられない。

 ――だって、酔ったあなたはキスをする。

 女と間違えているのか何だか知らないが。
 そんなとんでもない挙動のせいで、いちいち心臓が止まりかけるこっちの身にもなってほしいと切に思う。
 どうせ覚えていないのだろうが。

「眠れないのならいっそう飲めばいい」

 さすがに頭の中身までは覗けないまでも、思考が暗い方向に突っ走っていたことくらいは、簡単に見抜いてしまう王だった。
 いつになく食い下がって誘ってくる。

 たまには甘えるのもいいかもしれない。
 酒で酔った彼のスキンシップ攻撃も、こんな夜なら悪くない。

「……仕方ないですね。少しだけですよ」

 答えると彼は少し唖然とした。
 しつこく誘ったのはそっちのくせに。

 連れ立ってその場を後にする。
 十一年前と違い、向かうのは共に彼の私室だ。



 杯に酒を充たして一気に飲み干した。

 苦くて、何処かほのかに温かい過去を、今は酒に流して忘れたかった。
 歪んで狂って手に負えない、報われるはずのない恋心も。



2011.5.26




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