切り落とせ

「…ジャーファル?」

 夜の王宮は声が響く。
 扉の向こうは静まり返っている。
 起きていれば返事があるはずだ。いつもならば。
 今夜は、と思う。
 今夜は返事が返らなくともおかしくなかった。
 眠っているのならそれでいいのだけれど。


 今日の昼間、彼はまた人を殺しかけた。
 まずいと思った時には既に目が据わっていた。

『みだりに王を侮辱するな』

 彼の忠誠心は時々常軌を逸している。それを否定するつもりはないが。
 これだけは何とかならないものかな、とシンドバッドは常々思う。
 彼が冷静さを失う原因は大概、シンドバッドに関することだった。そもそもそれ以外の原因で取り乱した姿など見たことがない。

 ――いや、あれは取り乱すのとは違うよなぁ…

 何にせよ頭の痛い問題だ。

 元暗殺者だけあって行動も素早すぎる。多少の傷や痛みなど、気にしていては止められない。
 とりあえずその場は咄嗟に刃先を逸らして事なきを得た。
 刃に掠ってできた傷は些細なものだったが、血を見ただけで彼は顔色をなくした。

 官中へ戻った後は普通に仕事をこなしていたようだったが、誰が見ても明らかなほど沈んでいた。

 ジャーファルには、もう誰も殺さないで欲しいと思っている。絶対にさせないと決めている。
 一線を越えて後悔するのは、一番傷つくのは、間違いなく彼自身だろう。

 浅い切り傷のできた左手に泣きそうな顔で包帯を巻いていたジャーファルを思うと、どうしているのか確かめない限り不安で眠れなかった。



「入るぞ?」

 再度声を掛けても応えは返ってこなかった。
 月が雲に隠れているせいで、室内の様子が分からない。
 人影は認識できるのだが。
 無駄と知りながら瞬きを繰り返す。

 さらり、微かな衣擦れの音。

 何かの反射光を感じた時、室内に一筋の月光が差した。
 彼のシルエットが浮かび上がる。

 いつもの紐と、その手には。



「…っ何をしているんだ!?」

 視界へ飛び込んできた光景に、動揺しきって声を荒げた。
 人が飛んで来そうなほどの声を上げたというのに。

「……シン」

 どうしてそんな、光のない目で、ぼぅっと見返してくるだけなのだろう。

「どうしたんですか?」
「それを聞きたいのはこっちだ!」

 答えろと睨む。
 例えば手入れをしていただとか、特訓をしていただとか、そういう答えを望んでいた。望む答えが返ってこないことも知っていた。
 何故なら、さっきからジャーファルは身動きひとつしない。
 ただ、手首にその刃を向けている。

「切り落としてしまおうと思いまして」

 淡々と言う。
 己の行動に疑問も異常も覚えていない。当たり前のことだと刃を当てる。

「この手はあなたを傷つけました。だから、もう、いりません」

 既に刃先は赤かった。

「ジャーファル」

 力を込めようとして、ふと止めて、

「腕もいらない」

 袖の捲れ上がった腕を辿る。
 もっと上へと。

 下手に手を出すと傷を深めてしまいそうだった。

「あぁ、」

 肩に押し付けて、また止まる。

「体も」

 いらないと呟く。

「シン、」

 ぞっとするほど無心な目でこちらを見つめる。

「どうしましょう」
「…ジャーファル」

 シンドバッドを認識して、名を呼んで問いかけているくせに、こちらの声は聞いていない。

「いらないものだらけです。全ていりません」
「ジャーファル」

 月明かりに白く光る体に巻きついた、赤い紐すら血に見えてぞっとした。

「つまり、私はいりませんね」

 支離滅裂な論理で結論を出す。
 何とかして止めなければならないと思う。

「……ジャーファル、」

 注意深く呼びかけて距離を詰める。
 今、あの刃に触れてはならない。
 ここでシンドバッドがまた傷を負ったら、彼はもっと暴走する。

「…もしも、お前が、いなくなったら……」

 一語一語区切りながら、言い聞かせるように言葉を紡いだ。

「いったい、誰が俺を守ってくれる?」

 何とか言葉は届いたらしい。
 とりあえず刃先は喉元に向けたまま止まっていた。
 俯いている彼の表情は伺えない。

「マスルールたちがいるじゃないですか。それに、」

 臣下に傷つけられるよりはマシだと吐き捨てる。

「本当に私は、何度繰り返しても懲りないのだから…いっそいなくなった方がいいのです」
「ジャーファル、

その刃に触れずにはお前を止められない」

 静かな声で告げた。どうか正気に戻ってくれと。

「本当のことだ。切れたお前は本当に手に負えない」

 ピクリと刃を握る手が震えた。

「また俺の手に傷を増やすつもりか?」

 意図的に冷ややかな調子で言う。
 顔を上げたジャーファルを睨みつける。

「今度は右手だな」

 息の詰まる沈黙が続いた。

 カシャン

 やがて、彼は眷属器を取り落とす。
 縄が血に濡れた腕へと纏わりついた。

「…酷いです、シン」
 放っておいてくれればいいのに。

 小さく零して、ゆっくりと屈む。
 独り言だろうなと聞き流した。

 ジャーファルは床へ落ちたそれを拾い上げ、立ち上がって深く頭を下げた。

「手を、煩わせてしまってすみませんでした」

 地の底まで沈みそうな声を出す。

「王にこんな迷惑をかけるなんて、私は本当に、」
「それ以上言ったら怒るからな」

 はい、と答えてうなだれる。シンドバッドが何に腹を立てているのかを、彼は分かっているのだろうか。
 何にも分かっていないような気がする。

「それでは、どうぞお部屋へお戻りになってください」

 退去を促されて深い溜め息をついた。

「いや、まだ部屋には戻らない」
「そうですか、すみません」
「何故、謝る?」
「私に何か用事があって訪ねてきたのでしょう?用件を仰ってください」

 お前が心配だから来たのだと、言えるような雰囲気ではなかった。
 言う必要もない。ますます彼が気に病むだけだ。

「では傷の手当をさせてくれ」

 今一番してやりたいことを告げる。
 そんなことを言われる理由が分からないというように、彼は首を傾げてみせた。
 数秒後、ようやく思い当たったようで、あぁ、と言う。

「これくらい平気ですよ、シン」
「しかしまだ血が出ている」
「痛みは感じませんから」

 元暗殺者という経歴のせいか、彼は己の痛みや傷に鈍感だ。こちらが痛くなってくる。

「手当てさせろ。これは命令だ」
「……わかりました」

 言いつければ忠実な部下は渋々と頷く。
 たらたらと血の流れる傷口に、包帯を当ててやりながら続けた。

「それから、今夜はベッドを半分貸してくれ」

 すぐに言葉の意図を察した彼が顔をしかめる。

「自分の部屋で眠ればいいでしょう」
「お前のせいで疲れた。部屋まで歩く体力は残っていない 」
「何言ってるんですか全く」

 呆れつつもどこか気まずさの滲んだ声で、結局、ジャーファルは拒まなかった。




 寝台へ男二人が横になれば、さすがに少し窮屈だ。顔も体も必要以上に近い。
 やはり月明かりには巻きついた赤い縄が目立つ。

 指差して聞く。

「それ、外さないのか?」
「あなたがいますからね。何かあった時はお守りしないと」

 少しだけいつもの調子を取り戻したジャーファルが、すまして言う。

 彼の両手を握ってみる。
 いざとなったら振り払うくらいわけないのだろうが、気休めくらいにはなると思う。

「……もう馬鹿なことはしませんよ」

 あまり信用ならなかったため、苦笑する気配を感じてもその手を離せなかった。
 包み込んだ掌の冷たさが悲しい。出血のせいかもしれない。
 早く温まってくれと願った。

「これでは刺客からあなたを守れません」
「そんなもの来ないさ。もし来たとしても、俺がお前を守ってやる」

 いったいいつになったらこの部下は、大切にすべきものとして自身を認識できるのだろうか?

「シン、言っていることが滅茶苦茶です」

 そんな日は一生来ないような気がしていた。



2011.6.1




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