困ったことに、

 すごいねぇ、とアラジンが言う。アリババとモルジアナまでうんうんと頷く。どうも自分に向けられた賛辞のようで、ジャーファルは軽く首を傾げた。

「すごいねぇ」

 もう一度アラジンがそう言った。

「お兄さんの武器は魔法みたいだねぇ」
「あぁ、これのことですか?」

 常に身に着けている赤紐とナイフは、戦闘時以外にも案外役に立つものだ。先程など、飲み過ぎですよと言いながらシンの手元へ向かって投げ、思惑通りその手と杯を引き離した。危ないだろうと彼は眉を下げたが、ジャーファルが決して狙いを外さないことを、たぶん誰より分かっている。
 ささやかな宴会とはいえ、酔っ払い特有のバカ騒ぎから早々に離脱したアラジンたちも、一連のやり取りを目撃していたのだろう。

「別に魔法ではないですよ。練習すれば誰にでもできることです」

 マギや金属器使いやファナリスであり、並外れた力を持つ彼らに感心されるほどの技術ではないと説明しても、感心した表情は変わらなかった。

「…俺たちにできるとはとても思えないんですけど」

 と、アリババが言い、

「触ってもいいかい、お兄さん」

身を乗り出してアラジンも続く。

「いいですよ」

 興味津々らしい子供たちの目の前に、どうぞと武器を置いてやった。

「危ないですから扱いには気を付けてくださいね」

 もちろん紐は解かないままだが。

「うわっ、何だこれ…すっげー重い!」
「僕には持ち上げられないよ…」
「確かにけっこう重いですね」

 彼らは口々に感想を述べる。ますます称賛するような視線が集まってしまってジャーファルは困った。
 だからそんな特別な物ではないというのに。

「たくさん練習したんですよ」
 ちょうど今の君たちみたいに。

 そう、続けて刃物を袖の中へしまう。

「最初は下手だったのかい?」
「…えぇ、そうですね」

 下手だった、というより致命的な欠陥を抱えていた。この子供たちにはとても言えないけれど。
 双蛇を構えて飛ばした後、即死させることしか知らなかった、あの頃。
 違う使い方もあるのだと、教えてくれたのはシンだった。

 ――上手くなりたい一心で寝る間も惜しんで、シンに叱られたりもしたっけ。

 未熟すぎた頃の自分を思い出し、ふふっと少しだけ苦い笑みが零れた。



 十年以上前とはいえ、彼と出会ってからのことは、何もかも鮮明に覚えている。それ以前の記憶がどんなに曖昧であろうと。

 あれは、シンドバッド暗殺に失敗して、挙句彼に救い上げられてから、3月ほど後の記憶だと思う。

 共に夕食を終えた後のことだった。
 じっと見られているような気がして顔を上げた。
 目が合っても彼は何も言ってくれないため、

「……何ですか?」

 仕方なくこちらから用件を尋ねてみる。

「あぁ、いや…」

 シンドバッドが、少しだけ困ったような表情を浮かべた。
 そして、言う。

「たまには二人で話でもしないか?」

 首を傾げる。今も話しているではないか、と。
 たまにはなんて言われたけれど、そもそも彼と一言も会話を交わさない日の方が珍しいくらいだった。
 それとも。

「何か、大切な話ですか?」

 もしかしたら、あのことかもしれない。
 ふたつみっつ思い当たることがあって、どれも当たってほしくないなと考える。

「まぁ、そのようなものだ」

 部屋まで来てくれるか?と言われる。少し気は重かったが、彼の頼みを断るという選択肢は端から存在しない。
 ジャーファルは素直に席を立ち、その広く大きな背中を、歩調を早めて追い掛けた。



「お前、ちゃんと眠れているのか?」
「…どうして」

 不思議に思って聞き返した。

「そんなことを聞くのです?」

 不思議だったのは質問をされた理由でなく、どうして分かってしまうのかということだった。
 心当たりならしっかりある。何せ本当に眠っていない。

「バランスのいい食事をとって、程好く運動して、夜には眠る。とても規則正しい生活をしているはずなのに、お前の顔色はちっともよくならない」

 いつも蒼褪めて見えると彼は言う。

「元々そういう色なんですよ」

 ごまかしやはったりはどこまで通用するのか。

「私の知る限りではずっとこんな顔でした」

 挑むような心持で言葉を続けた。

「それなら、いいが」

 追及を諦めてくれたことに安心して気を抜く。
 小さく息をついた途端。

「ところでもうひとつ聞きたいことがある」

 急に真剣味を帯びた声を耳にした。
 こちらが本題だったらしい。内容はたやすく察しがついた。
 思わず身構える。

「…夜中に部屋を抜け出して、いったい何をやっているんだ?」
「……っ…」

 無造作に袖を捲り上げられた。
 そこまで歳が離れていない割には圧倒的な体格差があるせいで、伸ばされた腕から逃げることができなかった。
 あるいは、他の理由もあるのかもしれない。

「武器まで持ち出して、傷を増やして」

 包帯の隙間から覗いている、紐で締め付けられたせいでできた擦り傷を示して彼は言う。

「……すみません」

 せっかくこの人が過分なほど丁寧に手当てをしてくれたというのに、適当に巻き直したせいで緩んでいる包帯は、度々の出血で赤黒く汚れてしまっていた。
 その汚れが申し訳ないと思う。あんなに真っ白だったのに。

「謝らなくていい」

 シンドバッドは謝罪を受け入れるどころか、むしろ不愉快そうに眉をひそめた。

「ただ、何が目的で抜け出すのかを説明してほしい」

 説明は、苦手だ。
 彼に出会うまではジャーファルの言葉など存在しないようなものだった。理路整然と説明できる自信がない。
 何をやっていたのか、なら言葉にできる。しかし必ず理由を聞かれる。
 何と言えばいいんだろう。

「……」

 口を開いて、また閉じた。

「まさかとは思うが…」

 ジャーファルの逡巡に焦れたのか、結局声を発したのは彼の方が先だった。

「…お前、あの組織に…」

 そこで彼の声はうやむやに消える。

「…っ…」

 寝返ったのかとでも続きそうな、躊躇いがちな言葉にそれこそ蒼褪める。
 あんまり驚いてジャーファルはまた声が出ない。

 シンドバッドに救われた時から、そのことに気付くことができた日から、一生を彼に尽くすと決めた。決めたのだ。何があろうと揺らがない意志で。

「っ、ちがいます!私はっ」

 何とか否定を絞り出す。
 他でもないシンドバッドに、そんな誤解をされるのは嫌だった。

「もう二度と、他人に命じられて人を殺めたりしない!」

 上手くない言葉で、掠れた声で、それでも吐き出す。

 暗殺者であった過去は決して消えないし、人を殺すようにと育てられた果て、ここに立つ存在が己だった。今更すべて捨て去ることはできないけれど、せめて、自分の意思で決める。人形になるのはたくさんだ。
 もちろん、彼の人形になら喜んでなるのだけれど。

「あぁ、そうだよな。悪かった。俺も本気で疑っていた訳じゃあない」

 落ち着け、と大きな手の平が頭に乗る。

「一応聞いてみただけだ。何しろお前が抜け出してることに気付けたのも昨夜のことだしな、手がかりも少なくて判断がつかなかった」
「…すみません」
「だから謝るなって」

 その手は暗く落ちかけた思考まで掬い上げる。

「お前のことだから、どうせ一人で特訓していたんだろう?」
 双蛇の扱いを。

 見事に言い当てられたため、短く「はい」と頷いた。
 触れている彼の手がとても気になる。

「そうか」

 納得したようにシンドバッドも頷いて、傷だらけの細い腕を取る。

「子供の肌はまだ弱いのだし、無茶をしたところでいいことはないぞ、と言いたいところだが…」

 そっと触れてきた手の平と並ぶと、本当にこの腕は頼りなく弱々しい。

「お前がすごいのは…」

 そう言って一旦言葉を切り、捲り上がったままの袖を直してくれた。

「自棄になっているだけに見えて確実に上達しているところだな」

 苦笑まじりの言葉に顔を上げる。
 ちゃんと、上手くなっただろうか。本当なら嬉しいし誇らしい。

「いやいや褒めてない、褒めてないぞ」

 呆れているんだとため息をつかれた。

「少しずつ上手くなればいいだろう。寝る間を惜しまなくとも時間ならたっぷりある」

 言い聞かせるような声にかぶりを振る。

「ないです」

 たっぷりあるなんて嘘だ。シンドバッドは嘘つきだ。

「全然足りないです」

 昼間は必死で書物を読んだ。シンドバッドの空いた時間に、戦い方の特訓もつけてもらった。体力をつけたいから無理にでもたくさん食べ、夜は森へ篭り双蛇を投げた。
 毎日、時間が惜しかった。眠ってなんていられない。

 役に立ちたい、誉められたい、この人に必要とされたい。
 感情すらも知らなかった心は彼と出会うまで本当に空っぽで、今は彼だけがそこにいる。
 感謝、とはちょっと違うかもしれない。尊敬、はしているけれどそれだけではない。
 何か、もっと重いもの。
 この感情を表せるような言葉を、ジャーファルは全く持ち合わせていない。

 ――あなたの役に立ちたいんです。

 ただただ縋りついて、もっとと思う。
 軽く頭を撫でるだけでも、優しく名前を呼ぶだけでも。
 それだけで十分だと思いながら、もっともっともっとと思う。止まらない。
 心の中には飢えた砂漠があって、何をどんなに注がれても、あっという間に渇いてしまう。強くなれば、役に立てば、ずっと傍にいさせてもらえるだろうか。独りにしないでくれるだろうか。

「何をそんなに焦っている?」

 少し困った顔で彼が聞く。分かってもらえないことを悲しいと思う。
 共に過ごす日常の終わりを決めたのは他ならぬ彼だというのに。何でもないことのように忘れている。
 それは、彼にとってみれば、ジャーファルと離れることなんて何でもない、気にするまでもないことなのかもしれないけれど。そう思われていても仕方がないけれど。

「だってあなたは、もう少ししたら迷宮というところに行ってしまうんでしょう?」

 噂で聞きました、と付け加える。

「迷宮とは、とても危険な場所なのでしょう?私が一緒に行ってあなたをお守りします。そのためにもっと、強くなります」

 連れていってくれとは言わなかった。許されなくても絶対についていくからだ。
 今、ここに一人残されたら、間違いなく気が狂ってしまう。

「ジャーファル…」

 彼の王は、否と言いそうな顔でこちらを見た。
 必死になって続ける。

「まだ頼りないかもしれませんが、必ず役に立ちます。身体はまだ小さいですけれど、しっかりあなたの盾となります。どうせ何の重みもない命です。好きに使っていただいて構いませ…」
「そんな言い方は好きじゃない」

 低い声で遮られて、びくりとした。
 何か不機嫌にさせるようなことを口にしただろうか。分からない。
 不興を買うことは恐ろしい。咄嗟に目をつぶったけれど何も起こらなかった。これはもう染み付いた条件反射なのだが、いつも何にも起こらない。
 ジャーファルはゆっくりと目を開ける。
 不思議だ、と思う。
 この人は暴力を奮わない。

「……約束を」

 無表情のまま黙りこくっていた彼が、ようやく口を開いてそう言った。

「ひとつだけ守れるなら連れて行ってやろう」
「約束、ですか…?」

 それはどんなことだろう。予想がつかなくてただ聞き返す。

「人を、殺すな」
 もちろん正当防衛の場合は仕方がないが。

 あぁ、と納得する。そのために特訓を重ねてきたのだ。攻撃する時、相手に致命傷を与えないように。
 力のコントロールが苦手だった。というより、はっきり言ってできなかった。暗殺を目的としていたのだから当たり前だ。一撃で殺さなければならなかった。顔を見られた上に逃がしたとなれば目も当てられないし、失敗した時点で命はなかった。
 しかし、今は変わらなければならない。
 彼らにひたすら従っていたのは、殺す以外の選択肢がなかったからだ。好悪など考えたこともないが、進んでやりたいとも思わない。
 但し、シンドバッドを守るためなら、ジャーファルは手段を選ばないだろう。
 そんな己を見透かした上での命令だった。

「……わかりました」

 決意を込めて、静かに答える。

「本当に分かっているのか?」
「……?」

 念を押す言葉に首を傾げた。

「人には、ジャーファル、お前のことも含んでいるんだぞ」

 命を脅かし傷つけた暗殺者すらも助ける変わり者のこの人は、時々とんでもない発言をしてこちらを唖然とさせる。ジャーファルに「死ぬな」と命令する。

「もしもお前が俺の前でこの約束を忘れたら、この命を懸けてでも止めるからな」

 絶句した。
 彼のために使ってほしいと思ったのに、本当に何でもないことのように、ジャーファルのために使うと言う。

「分かったか?」

 分かるはずがない。
 こんな子供すら平等に照らしてみせようとする、太陽そのもののような王の考えなど。

「……何故そこまでしようとするのか分かりません」

 困惑しながら答える。
 シンドバッドは苦笑した。説明するつもりはないらしい。

「いつか分かるさ」

 分かってくれよと、囁いた。
 独り言のような言葉には、「はい」とも「いいえ」とも答えなかった。


「さて、ジャーファル」

 これでこの話は終わりだと言わんばかりに、鷹揚な声で彼が呼ぶ。

「そろそろ風呂にでも入って、今日こそちゃんと眠りなさい」

 手の平がもう一度頭を撫でる。

「はい」

 何が楽しいのかくすんだ色の髪まで指で梳いた。

「そうします」
「よし」

 言葉は退出を促しているようなのに手が離れない。
 どうしたものかと優しく笑む彼の顔を見上げた。
 痛みのない接触には慣れないのだ。そんなものがあるなんて彼と出会うまで知らなかった。困惑して戸惑って結局固まってしまう。
 振り払うには温かすぎる。息苦しいほどの喜びも感じるけれど。
 享受するには甘すぎる。

 体温から気を逸らそうと思いを巡らせて、

「シンドバッド様は、」

 ふと、先ほどの疑問をぶつけてみたくなった。
 呼ばれた彼は「うん」と頷いた後、シンでいいと言う。何度言われたか分からない台詞なので聞こえないふりをして続ける。

「……怒っても、殴らないんですね」
 どうしてですか?
 無心に問う。

「……」

 何故だか、痛みを堪えるような顔をされた。それは一瞬のことだったから、ジャーファルの見間違いかもしれない。

「…次にどうせとか言ったら殴りたくなるかもしれないな」

 シンドバッドはあくまで冗談めかして答えた。
 理由はわからないけれど、その拳はきっと温かいと思った。彼のすることなら全てが温かい。そして小さな胸を締め付ける。占領する。

「悲しくて」

 ポンポンと、軽くジャーファルの頭を叩きながら付け加える。

「悲しい、ですか…」
「あぁ」

 やはり、彼の発言は時々理解に苦しむが、

「…あなたを悲しませるのは嫌です」

 思ったままを告げれば苦笑された。

「本当にお前は……俺のことしか考えてないんだな」
「おかしいですか?もしかして困らせています?」

 独り言じみたそれに焦って言い募る。

「そうだな…」

 シンドバッドは微笑で答えた。

「困ったことに、少しだけ嬉しい」



2011.7.21




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