見失ってしまわないように

「すみませんでした、シン」

 椅子にかけた彼に頭を下げる。

「謝る必要はないさ」

 顔を見る限り、怒ってはいないのだと思う。
 むしろ謝罪を告げられる今の状況こそ困るというように、小さな溜め息をひとつ落とした。






 シンは今日、長旅から帰国した。
 疲れているだろうに、真っ先に「アラジンとアリババくんに会いたい」と言った。
 気持ちは分かるので案内した。
 元気になった彼らを見ていると条件反射のように顔が緩む。
 ニコニコと見守り、ふと、静かになったシンの方を振り返る。

「……シン?」

 彼は何故か能面のような顔に変わっていた。
 目が完全に死んでいる。

「どうしたのですか?」
「どうしたのかって……お前はアレを見て何とも思わないのか?」
「アレってなんです?」
「あのなぁ…」

 シンがぐったりと溜め息をついた。
 原因は、ここ半年間、食客としてもてなしていたアラジン、アリババ両名の肥満化なのだと、本人から言われてようやく理解する。
 そういえば、少し太ったかもしれない、と今さら気付いた。



「何も、お前に全ての責任があるなんて俺は言っていないぞ?」

 自室に戻った今はマトモな表情を取り戻しているが、長旅で疲れていた彼に疲労を上乗せしてしまったことは間違いない。

「ですが、限度というものがあるでしょう」

 私はいつもそうだ。
 シンがいなくなると全てを見失ってしまう。

 ――本当に、ここに、いていいのか。

 十年以上前の悪夢に魘されて、眠れなくなったりしてしまう。

 ――ここに、必要とされているのか。

 シンの代わりの、庇護するべき対象を見つけて、徹底的に甘やかして。
 彼らの癒えない傷を癒したくて、最大限の優しさを注いだ。
 食べ物を与えて、笑いかけて、何も考えなくていいのだと。
 本当に心から、早く元気になってくれと望んでいた。
 幾らでも喜んで食べてくれる二人の姿を見ることが幸せで、

『ジャーファルさん』

 拒まれないから、ここにいることができる。
 利用したようなものだ、心許なさを忘れるために。







「……寂しかったのか?」

 不意に聞かれて、

「いえ全く」

 即答する。

「あなたがいない方が政務は捗りますし、仕事の邪魔はされませんし、」

 嘘に真実味を持たせるため、片っ端から理由を挙げていく。

「酒癖の悪さに手を煩わすこともないですし、夜はゆっくり眠れますし……本当に、いいことだらけですよ」

 別に、全て嘘ではない。
 けれど、真実という訳でもない。

「そうか」

 シンが、拗ねるでもなく笑う。
 嘘を見抜いて笑っている。

「寂しいなら、もっと他の方法で発散すればいいのに」

 せっかく邪魔者がいないんだから趣味とか…と言い掛けて、詰まる。

「趣味、ないんだったな」
「えぇ、あいにく」

 シンの傍で生きて、シンの役に立つ。
 それ以外のことは何も必要なかった。

 彼の表情が、苦笑いに変わる。

「まぁ今回のことに関しては、いいさ」
 ある意味、お前のおかげで立ち直ったんだろう、彼らは。

 そう言って、幼い子供に対するように、軽く頭を撫でてきた。

「そうでしょうか…」

 跳ね除けることも忘れて、自信なく呟く。
 些細な接触を拒むには、独りでいた半年は長すぎた。

「あぁ」

 シンは、端的に答えて髪を乱す。
 役に立てたのならば、嬉しいと思う。
 いろいろと失敗はしたけれども。

「何しろあの二人に向けるお前の態度は、妬けるくらいに甘いからな」
「妬けるって何ですか、子供相手に」

 盛大に呆れてみせながらも、近づいてくる彼から逃げることはなかった。
 焦点も合わないほどの至近距離でシンが囁く。

「俺のことも同じくらい甘やかしてくれ」
「……嫌です」

 そう、答えると同時に唇が重なった。



2011.5.23




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