こわいもの

 死ぬことが、全く怖くない訳ではない。生命はルフへ還ると言われる。素晴らしく美しいものだと思う。しかしながらその死に至る際、感じることになるだろう痛みはきっと壮絶だ。例えば今ざっくりと裂けている、この肩の傷の何倍痛いだろうか。比較対象になどならないだろうか。

 官服を肩口から染め上げた血液を眺めて、ジャーファルは他人事のように考える。







 侵入者の急襲に遭ったのは、白羊搭から裏門へ向かう途中のことだった。







「シン!」

 宮内も市街地も静まり返ったこんな夜遅くに、外を出歩いていた理由といえば。

「こそこそと出掛けるのはやめてください!」
「堂々と出掛けても怒るじゃないか…」

 護衛の一人も付けずいざ飲みに行かんとする王を、ジャーファルが慌てて追い掛けたからだ。
 シャルルカンたちが先に行って待っているのだと言う。大人しく自室で飲めばいいものを。

「なぁ、今日くらいいいだろう?何日宮中に篭りきりだったと思ってるんだ」
 俺はもう耐えられん。

「あんたが仕事溜めるからですよ!だいたい…」

 止めようとしたが結局は流されて、小言を吐きながら仕方なく共に歩く。
 そして門を視界に入れた瞬間、門番の様子がおかしいと気付いた。
 不審な人影より先に殺気を感じた。ぴりっと空気が張り詰める。両手に眷属器を構える。人影を捉える。思いのほか多い。

 事態は、一瞬で収束した。

 王の心の蔵を狙って投げられたナイフやらの殆どを避け、叩き落し、残りの一本を己の肩で受け止めると同時に、六人にのぼる刺客を両腕の縄で一気に捕えた。今はたぶん足元で伸びている。
 馬鹿なことをしたと思ってはいる。あれくらいの攻撃、シンなら庇うまでもなく簡単に避けただろう。無理矢理割り込んでは無駄な傷を負うことくらい、冷静さを取り戻した今ならよく分かる。しかしジャーファルは寝不足だった。
 何日と数えるのを途中で諦めるほどろくに眠れない日々が続き、優秀なはずの頭は働かず、つまりは、疲れにより表出し、剥き出しになった本能で体が勝手に動いた。
 ジャーファルにとっては彼を守ることが本能で、喜びで、快感とすら言えるのかもしれない。おかしいことは重々承知の上だ。
 とにかく。
 今さら後悔しても仕方がないし、王に万が一掠り傷のひとつでも作ってはことだから、この対応が完全なる間違いではないと主張したい。もちろん咎められたのならば潔く己の非を認めよう。



「……ファル、おい、ジャーファル?」

 すみません、と口の中で呟いた。

 意識は朦朧としているが、それはどう考えても寝不足のせいだ。
 傷も痛むことは痛むのだが、沸き上がる喜びと幸福感には負けるのだった。彼の役に立てたという喜びは痛みを遥かに凌駕する。
 死だのルフだのと脈絡なく考えを巡らせたりもしたが、そもそもがたいした傷ではない。
 まだ、彼の王を守ることができる。彼のために命を投げ出すことができる。何て幸せなことだろう。

「ジャーファル…?」

 ぼんやりとした怪我人が微笑しているものだから、シンドバッドはかえって不安になったらしい。心配そうな顔でまた名前を呼ぶ。
 霞んだ視界に瞬きを繰り返し、大丈夫ですよと微笑んだ。

「あなたが無事ならば私は大丈夫です」
「違うだろう」

 そんな押し殺した声を聞く。
 目の前の王の顔が歪んだ。

「ちっとも大丈夫じゃないだろう!立っていることも出来ないくせに!」

 あぁ、そうだ。よろけた拍子に彼の手で支えられてしまったのだった。そのまま力の入らない体を抱かれている。
 これはいけない。

「すみません。手を、離してください」
 大丈夫ですから。

 相変わらず彼からは、それぞれの香の主張が強すぎて結局よく分からない匂いがする。酒臭さがないため不愉快には感じない。

「おまえ、まだ言うのか」

 不機嫌な声を聞き流して、それより、と言った。

「早急に警備を強化しなくては。あなたはとりあえず安全な場所に…」
「刺客ならこれで全部だろう」

 そう言って彼が地面に転がる侵入者を示すのに、

「わかりません」

 ゆっくりとかぶりを振る。
 頭を、少し揺らしただけでも視界がぶれそうになるのだ。
 心底寝不足が疎ましい。

「…油断は、禁物ですよ」

 王のしかめた顔を見上げて、何とか普段通りの調子で続ける。

「何せ裏門の見張りが無力化されているようですから」

 珍しくないこととはいえ久しぶりの緊急事態だ。やらなければならないことが幾らでもある。ジャーファルが容赦なく締め上げてしまったせいで、侵入者の尋問は明日に見送らざるをえないが。今夜中に目を覚ますとはとても思えなかった。
 頭の中では今後の対応が次から次へと浮かんできて、できることなら今すぐ王宮へ駆け込みたい。
 だから、早く離してほしいのに。

 体が思うように動かないのは、シンの手が触れているからだ。解放されれば支障なく動けるのだ。

「とりあえずあの眠らされてる門番を起こして、皆に知らせて、あぁ、シャルルカンたちも呼び戻さなくては…」

 体の代わりに口を動かす。独り言のように並べ立てる。

「いい」と彼が遮った。

「俺がやる」

 それはもうきっぱりと告げられてしまったため、逆らわず素直に頷いた。
 ならば伝達は彼に任せて、別のことをすればいい。

「そうですか、では、私はコレを地下牢へ運びます」

 気を失った男たちを指して言う。
 腕を持ち上げてみて気付く。いつの間にか止血のために上腕が縛り上げられている。

「ついでに、担ぎ手を呼んでくるから」
「え?」

 怪訝に思いながら彼の顔を見た。会話が噛み合っていなかった。

「必要ありませんよ。このまま私が運びますので」

 伝わらなかったのかと繰り返す。

「…あのなぁ…」

 心底呆れたというような溜め息が返ってきた。

「おまえのことは俺が運ぶぞ」
「…はぁ?」

 予想外の言葉にポカンとする。

「何を言い出すんですか、自分で歩けます!」
 もう離してください!
 緩く触れていた掌を振り払った。思い切ってみれば簡単なことだった。
 足を前に踏み出す。後ろから負傷していない方の腕を軽く引かれる。触れられた瞬間にくらりとする。

「ちょっと、シン!?」

 背中から倒れ込んで再び腕の中だ。

「あぁもうゴチャゴチャ言うな。おとなしくしてろ。そこから動くな」
「しかし、」

 有無を言わせない口調にぶつけようとした反論は、

「ジャーファル」

 明らかな怒気を含む声に叩き落とされた。

「俺に余計な魔力を使わせる気か?」
「……」

 つまりは気絶させるぞと脅されているのだ。
 一瞬固まった後、静かに言う。

「…やめてください」

 冗談でも脅しでも聞きたくない。
 俯いて続けた。

「どうか、こんなくだらないことに使うなんて言わないでください」
「くだらなくない」

 むきになったようにシンが返す。
 くるりと体が反転する。
 まともに目が合う。

「恋人が怪我をしたんだ。これは一大事だ」
「こいびと」

 異質な単語が聞こえたので茫洋と反復した。

「当然、おまえのことだからな」

 シンは更にむきになる。

「はぁ…」

 気の抜けた声を出すと溜め息が聞こえた。
 シンが、もう一度深い息をつく。

「……とりあえずその話は後にしよう」

 今度は気を取り直すように。

 その話、とはどの話か。

 ジャーファルは首を傾げそうになるも、今は無益な言葉の応酬をしている場合ではないと、そのことだけが確かに分かる。

「いいか?絶対に動くなよ。ついでにそいつら見張ってろ」

 侵入者の見張りの方がついでなのか。
 違うだろうと脱力する。

 最後に、これは命令だと言い捨てた王は、ジャーファルを塀に寄り掛からせ、王宮の方へ走り去ってしまった。どうやら門番を起こすのは後回しらしい。
 まぁ、彼らに外傷はないようだし、一応八人将であるジャーファルが門の傍にいるのだから、どんな事態にも対応できるだろう。
 動くなと言われては起こしにいくこともできない。

 既に遠い背中へ向けて「わかりました」と呟いた。

 命令ならば仕方あるまい。
 そう思ってずるずると座り込めばやはり眩暈がした。徹夜続きも考え物だと少しだけ反省した。



 刺客から飛ぶ刃物も王の怒りも、ジャーファルは怖いとは思わない。
 口を閉じて抵抗をやめ、まもなく戻ってきた彼の腕に抱き抱えられて運ばれるなどという王と従者にあるまじき行為を受け入れたのは、向き合ったシンドバッドの掌が今にも気を放とうと構えられていたからだ。
 彼の命を削ってしまうことが怖い。彼が傷ついてしまうことが怖い。彼を失ってしまうことが怖い。自分が命を落とすよりも遥かに恐ろしいのだった。それこそ比較対象にすらならない。



2011.8.5




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