世界不適合者
この世界の彼と初めて出会ったのは、バイト先の居酒屋だった。
人手が足りないと店長に電話で泣き付かれ、渋々駆け付けた九時半過ぎ、ひときわ騒がしいグループの中にいた男を見て、一目で彼だということが解った。
――彼、私の唯一の王、シンドバッド。
シンは、何と言うかもう、がっかりするくらいに相変わらずだった。
注文を伺いに行った先、目のやり場に困るような格好をした女ばかり四、五人に囲まれ、空いた手には酒の入ったグラス、テーブルの上には大量の空き瓶。
一人を膝の上に乗せ、砂糖のように甘い言葉を吐いている。手はしっかりと腰に回されている。女たちはしなだれかかっている。
まるでクラブかキャバクラだ。ここはごく普通の居酒屋だというのに。取り込み中の彼らは注文をするどころではなく、待たされたジャーファルは少なからず苛立った。認めたくないが、女への嫉妬もあった。
それで、思わず言ってしまったのだ。
「いい加減になさいっ、シン!」
一瞬でその場は静まり返った。
我に返って口を押さえたところで取り返しはつかない。
「……へ…?」
きょとんと、王が見返してくる。
「ねぇシン、知ってる人なの?」
小声で女が尋ねるのに、彼はゆっくりとかぶりを振った。
「いや」
知らないよ。
「…っ」
ひゅっと息を呑む。
「なにそれ、気持ち悪ぅい」
「お店の人よね、いきなり怒鳴ってくるなんて最低」
羞恥やら何やらで真っ赤になった顔を俯いて隠して、
「っ、失礼しました!」
ジャーファルはその場から逃げ出した。
客と揉めてしまったとでも言って、他の人に代わってもらおう。怒られて万が一クビにされても、他のバイトを探せばいいだけのことだ。
厨房へ早足で戻りながら、両目が潤みそうになっていた。目を擦っても擦っても視界がぼやける。
――当たり前の、ことなのに。
彼はジャーファルを覚えていなかった。その事実が悲しくて堪らなかったのだ。
自分にはどうやら前世の記憶があるらしいと気付いたのは、小学生の頃だった。
最初はただの妄想だと思った。
幼い頃から一人で本を読んで過ごすことが多く、結果として生まれた空想癖が、思うようにならない現実からの逃避の為にそのような妄想を生んだのだろう。そう解釈して自分を納得させた。成長するにつれ妄想は薄れていくだろうと。
しかし、シンドリアという国に生きた記憶は、歳を重ねれば重ねるほど鮮明になっていった。
更にジャーファルには奇妙な特技があった。初対面であるはずの人物の名前が、顔を見ただけで、あるいは声を聞いただけで解ることがあるのだ。それが己の妄想の登場人物に限って発揮される能力だと気付いた時、ジャーファルは前世を信じようと決めた。
公園で遊ぶアラジンとアリババ、手を繋いで歩くマスルールとモルジアナ、往来での派手な痴話喧嘩で人目を惹いたシャルルカンとヤムライハ。
みんな相変わらずだなと微笑みながら、誰とも関わりを持つことはなく、ジャーファルはずっと独りだった。奨学金制度を利用して大学へ通い、ひたすら勉学に励み、隙あればバイトで生活費を稼ぎ、目まぐるしく過ぎていく日々の中で、街の中や大学の構内、満員電車、ターミナル駅…どこにいてもシンドバッドの姿を探していた。
そんな毎日を繰り返した末、やっと今日、見つけることができたというのに、やはり現実は残酷だ。
酒癖の悪さも女好きも、相変わらずだ、なんて笑い飛ばせない。
痛む胸を抱えながらも接客用の笑顔を浮かべ、酒と料理を抱えて駆ける。
気付けば彼と女たちのいた席をサラリーマンが陣取って、疲れ顔でグラスを傾けていた。
シンドバッドはいなくなってしまった。
例えこの辺りに住んでいるとしても、もう二度と会うことは叶わないかもしれない。都会で暮らす人間は気が遠くなるほど多い。ようやくバイトから解放されたのは、それから数時間後のことだった。
疲れきった足取りでのろのろと表へ出ると、壁に寄り掛かっていた人影がジャーファルを見て片手を上げた。
「やあ!」
酔っ払い特有の陽気な声で、真っ赤な顔で笑っていた。
――シン!?
今度は辛うじて言葉を飲み込むことができた。
こちらの動揺など気にも留めずに彼が言う。
「名前を教えてくれないか」
ジャーファルは困惑して暫し固まった。
「あの、先程のことでしたら、本当に申し訳ありませんでした」
唐突な言動の理由を尋ねたかったのだが、果して酔っ払いがまともな答えを口にしてくれるものなのか。
逡巡の末、とりあえず謝罪しておく。
「いや、それは構わないんだ」
まさか、ジャーファルが出てくるまで、ひたすら待っていたのだろうか。彼がいつ頃店を出たのかは知らないけれど。
混乱して考えが纏まらない。
「ただ、どうしても気になってしまってね」
彼はヘラヘラと笑っているように見えて、割と声だけが真剣だった。
「なぜ、初対面の君が、俺の名前を知っていたのか」
「それは、その…」
変わらない琥珀の瞳に見つめられ、言葉に詰まる。
本当のことを答えれば気味悪がられるだけだ。
「…知り合いにとてもよく似ていたので、思わず。名前が同じだったのは偶然ですよ」
「…そうか」
ちらりと彼の顔を窺う。納得したのかどうかは解らない。いたたまれない空気の中、沈黙が続いた。
「……もう、」
結局ジャーファルは逃げることを選んだ。
「いいですか?私、終電があるので」
そう言って背中を向けてしまう。
自分を知らない彼と向き合っているのは辛かった。二度と会えないことも辛いけれど。どちらがより辛いのかなんて、とても比べることはできない。
数歩、前に進んだところで、
「…!?」
腕を強く掴まれた。
「待ってくれ!」
剥き出しの手首に感じる掌の熱。懐かしすぎて涙が出そうだった。
「まだ、名前を聞いていない」
教えてくれ、ともう一度請われる。
シンドバッドの考えていることがまるで解らない。
振り返らないまま小さな声で答えた。
「…ジャーファルです」
かつて、彼が愛しげに呼び続けたその名を。
一番最初に思い出したのは、ジャーファルの全てであった王のことだ。
ただの妄想なのだと決め付けながらも、もっと彼のことを知りたかった。
それと引き換えに失われていく記憶なんて、取るに足らないものだと思っていた。
いや、今でもそう思っている。
家族や友人の記憶など幾らでも差し出そう。彼の全てを思い出す為ならば何も惜しくない。
こうして成人してから振り返ってみても、失ったのが人に関する記憶だけでよかったと胸を撫で下ろすだけで終わる自分は、現世でもきっと欠陥品なのだろう。
以上が、随分と失礼な質問を投げられた瞬間にジャーファルの頭を過ぎった思考の全てである。
「ジャーファルくんって友達いないの」
と、真顔で彼は聞いた。
「どうしてそう思うんです」
向かいの男を軽く睨む。
駅前の喫茶店は人影も疎らだ。平日の真昼間だった。
居酒屋での出会いから三ヶ月。何だかんだで彼とはちょくちょく顔を合わせ、親しくしているような気がする。
出会って、知人と呼べる程度の関係になって、その先どうしたいのか。全く考えてみたことがなかった。
ただ、中途半端な関係は嫌だ。彼が全てでないと嫌だと思う。
流されるままに過ぎた三ヶ月は、焦燥もあったけれど幸せだった。
結局、ジャーファルはシンドバッドが生きているというだけでそれなりに幸せなのだ。
「おまえ、俺がいつ誘っても、バイトと学校以外の理由では断らないだろう」
彼の声を聞いて我に返った。
すっかり上の空でいたが、そういえば友達の話をしていたのだった。
「誰かと一緒にいるとこも見たことねーし。だから、友達いないのかと思って」
あなたこそ仕事ないんですか、と聞き返したい。殆どの人間は働いているべき時間である。仕事しろ。
思わず飛び出しそうになった言葉を何とか飲み込み、
「いませんよ。それが何か?」
平然と答えて紅茶を啜った。
ガタンと男が立ち上がった。
「なんでだよ!」
「…はい!?」
そして、バンッとテーブルを叩く。
「なんでいないんだよジャーファル!」
「ちょっとシン、飲み物が零れます!」
しかも、少ないとはいえ店内には人がいるのだ。すっかり注目の的となっている。
「私に友達がいるかいないかなんて、どうでもいいことではないですか」
更には聞き耳を立てられているであろう会話の内容が、これだ。いたたまれなくて仕方がない。
「いやいや全くよくないぞ!」
「わかりましたから!座って!落ち着いてください!」
静けさを取り戻した店内には、気の抜けるようなジャズが流れている。
「あなたがムキになる必要なんてないでしょう」
彼を宥めることに成功した後――前世の余りある経験を生かせば何てことはなかった。できることならもう少し迅速に宥めたかったが――困惑したままジャーファルは言った。
この人は、時々変なところでムキになるなと思う。
「友達は大事だぞ。いいものなんだぞ」
「そう、なんですかね」
ことりと首を傾げながら返す。
いたことのないジャーファルにはわからないことだった。
シンドバッドは悲壮な顔で続ける。
「おまえには家族もいないのに。友達すらいないなんてあんまりだろう」
寂しくないのか?
彼らしい言葉に苦笑した。
「いない、というと語弊がありますね」
ぽつりと零し、喉を潤そうと手に取ったカップは空だった。
仕方なく小さなテーブルへ戻す。気付けばずいぶんと長居していた。
「忘れてしまっただけなんです」
「忘れた?」
「ええ。記憶障害みたいなもの、なんですかね」
親だろうが友達だろうが関係なく、人に関する記憶だけを失ってしまう。元々地味で可愛げのない子供なのに、親を忘れたとなれば愛情が冷めるのも無理はない。親戚の元を転々としていたのもそれが原因だ。
前世云々の話は省き、さらりと説明すれば彼は絶句した。
そして、恐る恐る聞いてくる。
「記憶は、戻らないのか」
どうでしょうね、と人事のように答えた。
戻るどころか、これからも忘れ続けるかもしれない。
そんな危惧ゆえにジャーファルは、誰とも必要以上には関わりを持たない。
シンドリアに生きた記憶は確かに鮮明になった。しかし、まだ思い出していないことがある。
ジャーファルは、シンドバッドとの出会いを知らない。
国ができ、彼が王になるまでは、共に旅をしていたような気がする。
ふと思い出した情景と引き換えに、数日前、真っ赤になって告白してきた奇特な少女の顔を忘れる。
全てを思い出した時には、一体どうなってしまうのだろうか。
一番忘れてはいけないことを、思い出せないままでいるような気さえするのに。
今、目の前にいるシンドバッドは、哀しそうな顔をしてジャーファルを見ていた。
「でも、寂しくはないですよ」
優しい彼を少しでも安心させたくて、ジャーファルは微笑んで言葉を継いだ。
「だって、あなたがいます」
「……え?」
言ってしまってから、失敗したと思った。
ただの知り合いが言っていい台詞ではなかった。
変に思われたかもしれない。
そっと彼の表情を窺う。
ぽかんと口を開けていたシンドバッドは、生真面目な顔に戻ったかと思うと、唐突にジャーファルの手を取り言った。
「付き合おうか」
「…はぁ!?」
なんでそうなる。
全く、この男の思考回路は理解できない。
「女好きの癖になに言ってんです」
呆れて言い返したのだが、シンドバッドは聞いていなかったようだ。
「初めて会った時さぁ」
と、間延びした声で呑気に言う。
「おまえ、俺のこと怒鳴っただろ?」
「…そうでしたっけね」
正直、あまり思い出したい記憶ではなく、いい加減に答えて目を逸らした。
出会いが最悪なのは現世でも変わらないということか。
まぁ、前世と比べればかなりマシだが。少なくともシンドバッドに危害は加えていない。
と、知らないはずの記憶が混じった感傷に疑問を抱くより早く、
「あの時、俺はジャーファルを好きになったんだ」
そう言って人タラシがにっこりと笑った。
あんまりのことに頭が正常に働かない。
怒鳴られたから好きになった、だなんて、それじゃあまるで。
「…あなた、マゾだったんですか」
「ちがう!!」
シンドバッドが再び席を立って大声を上げた為、またもや店中の人間から注視された。
「おまえに一目惚れしたって言ってるんだ!!!」
止めを刺すように喚いてくれる。
真っ赤になった顔を抱え考える。
――この喫茶店には二度と入れない。
2012.10.22
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