それは優しい御伽話
びっしょりと汗をかいていた。
「美咲?」
目を開けて一番最初に見えたのは、心配そうなウサギさんの顔。
「どうした?怖い夢でも見たのか?」
濡れた前髪を梳く優しい指。
「あー、ええっと…」
怖くはなかった。雨が、降っていて。
輪郭のぼけた人影と車。高速道路。
はっきりとは何も見えなかったから。
それでも目を逸らしたくなる光景を瞼の裏に見ながら口を開いて、全く違う夢の話をする。
「クマ雪崩から抜け出せなくなる夢、見た」
確か、一週間くらい前に。
「なんだそれは」
「いや、ホントに雪崩なみのクマが降ってきて埋められて、俺、息できなかったし」
ウサギさんのせいだぞ、と言ってやる。
「クマ部屋いっぱいだって言ってんのにまたクマ買ってくるから」
ウサギさんは、黙ってじっと俺を見ている。言葉が途切れたら負けだと何故か思い込んでいて、ふざけ半分で詰る台詞を、一生懸命考えている。
「買う前に部屋を何とかしろよ。あ、マンション買うのはなしだかんな!」
途切れたら言われるんだ。嘘だって。本当のことを話せって。
あんな夢を見た夜はきっと、弱い自分が顔を出してしまう。
俺は両親が亡くなったあの事故のことを、一生背負っていこうと決めたのに。
他の誰に言われてもダメだったけれどもしもウサギさんが、お前のせいじゃないって言ってくれたら、お前のせいで死んだんじゃないって言ってくれたら。
そうなのかもしれないって、思えてしまうような気がする。
ちゃんとあの時誓ったのに。もう誰も失うことのないように、ワガママ言って困らせたりもしないって。誰よりも失いたくないこの人には、絶対に迷惑をかけないって。
「美咲」
開いてしまった言葉の隙間に、呼ばれた。
もうダメだ。口が、動かなくなってしまった。
「言っとくけどな、俺は……お前の嘘くらい簡単に判るぞ」
「……知ってる」
「話してくれないか?」
黙ってかぶりを振る。
「美咲」
咎めるような声に唇を噛んだ。
ウサギさんに心配をかけたら駄目だ。
「……ちょっと、嫌な夢見ただけだから。起こしちゃってごめ、っ」
途中で口を塞がれた。
「ぅ、ん……っ」
触れるだけでは終わらないキス。大抵タバコの味がする。
息苦しさに薄く開けた唇の隙間から、舌が入り込んで絡め取られる。
解放された頃にはすっかり息が上がっていた。
「…っ、いきなり何だよ!?」
ウサギはしれっとした顔で答える。
「したくなったから」
この流れであっさり解放されるはずがないことくらい、判ってしまっている自分が悲しい。
シャツの裾を捲り上げて、冷たい手が直接素肌に触れる。
器用な指が胸元を辿り始める。
「ちょっ、」
空いた手は下着ごとズボンを下ろしにかかっていて、足をばたつかせても止められない。下半身が真夜中の冷気に触れた。
「待てって!…ぁ、あっ」
性器を包み込んだ手の平は、性急にそれを擦り上げてくる。
「や……あ、あ………っ」
ウサギさんが黙っているせいで、上擦った自分の声ばかり響いてしまう。
上下に扱く手の巧みさに、あっという間に性器が硬度を増す。先走りで濡れた音が立つ。指先が胸の尖りを摘んで押し潰す。親指が先端の窪みを擦る。
一人でこんなに熱を上げていることが、恥ずかしくて堪らないのに。
そのまま、全く容赦のない愛撫を続けられ、
「ぁ、あ……ああああ―――っ」
俺は呆気なく熱を放った。
ガクリと力が抜けてしまう瞬間まで、ウサギさんは何も言わず俺の顔を見ていた。
息が落ち着くと途端に不安になった。
「ウサギさ……」
恐る恐る呼んでみる。
あまり機嫌のよくなさそうな目とぶつかって息を呑む。
深い溜め息が返ってきた。
「お前は本当に俺を頼らないな」
「だから、何でもないって言ってんじゃん」
助けを必要とするようなことは何もないし、辛い訳でもない。きっとあの夢は子供の頃の自分に、忘れるなと釘を刺されただけだ。
今までだって一人で抱えてこれたのだから、これからだって平気に決まってる。
「嘘つきめ」
答えずにふいと顔を背けた。
苦い声や、脚を掴んで開かせた強引な手とは裏腹に、ウサギさんが悲しそうな目をしていたから。
その後は意識を飛ばすまで抱かれた。
眠ったのは確か明け方だったと思う。
夢うつつにウサギさんの声を聞いたような気がした。
「お前が抱えているものを俺は知ってる。でもな、」
それは独り言のような呟きだった。
「お前から話してくれないと、何の意味もないんだよ」
どんな夜を過ごしたとしても、朝になれば変わらない一日が始まる。朝食を作って洗濯して、バカみたいに広い5LDKの隅々まで、念入りに掃除機をかけるのだ。まるで主婦みたいな休日の過ごし方じゃないか、なんて考えたら負けだ。
ウサギさんは打ち合わせだとかで出掛けている。
ところで物凄く腰が痛い。
簡単な昼食を終えた後、仕事部屋のドアを開け放った。
「うっわ…」
瞬間、掃除してやる気が一気に失せた。
本が山積みだ。しかもホモ小説ときた。何箇所かで小さな雪崩まで起きている。
昨日も片付けたばかりなのに。
「あの野郎…また派手に散らかしやがって…っ」
朝からずっと動きっぱなしだったこともあり、疲労感に襲われて座り込む。まずは足の踏み場を作るための一連の作業が必要だった訳だが。
座ったままそこそこ綺麗に積み上げて気付く。表紙が見えていたのは秋川弥生なるペンネームでバカウサギが書いてくれた例の本たちだが、その下は全て真面目な本だった。一体どんな小説を書くために、築いた資料の山なんだか。全部ホモ話のためだったらどうしよう。
手前にあった本をぱらりとめくる。これは一度読んだことがある。
秋彦が……美咲は……
数行読んだだけでうんざりする類いのアレだ。それでも俺はこの本を、憤慨しながらも最後まで読んだことがある。
何となくページをめくっていく。不思議と眠気には襲われなかった。
自分の都合がいいように捏造しまくりやがって!!!と、妄想本が出るたび俺は怒ってきたけれど。
ウサギさんの書いた世界は、優しい。
秋彦はずっと美咲が好きで、美咲もずっと秋彦が好きで、秋彦はふわふわオムライスを作って、家事も完璧で、美咲は秋彦さんの役に立ちたいから文芸部!なんて言っちゃって。
俺の両親は、生きていて。
そこには何の痛みもない。だからこそ逆に切なくなる。
本当はウサギさんは、エッチなシーンより、そんな優しい世界を書きたかったんじゃないか、なんて思ってしまう。
俺、なんだかんだ言ってあの人のやりたがってることには、結構付き合ってやってるし。ナニされたって本気で拒絶したことないじゃん。
いや、それはどうでもいいんだけど。
ページをめくる。
俺じゃない俺が、優しい家族と、和やかに食卓を囲んでいる。一家団欒とかしちゃってる。ウサギさん、あったかい家族が判らないなんて言ってたくせに。
いつもは眠くなるだけの文字をじっと見つめる。
どうしよう。
――どうしよう。俺、いま泣きそうになってる。
「なんだ、研究熱心だな」
唐突に声をかけられて飛び上がった。
「ウ、ウサギさん!?」
背後を取られていたことにも、それどころか帰宅していたことにも気付かなかった。
宇佐見大先生はからかうように聞いてくる。
「また実践してくれるのか?」
涙が一気に引っ込んだ。
「冗談じゃないです絶対イヤです」
「俺はいつでも大歓迎だが」
さっそく後ろから抱き込まれてジタバタと暴れる。
「真っ昼間から何するつもりだ!」
「昼間?」
綺麗に築き直した本の山が、足に当たって再び崩れる。
俺を抱えたまま雪崩から避難したウサギさんが呆れ声で言った。
「もう夜だぞ」
「へ?」
いつの間に。
「離せよ!」
今度こそ本気を出してもがく。何とか抜け出すことに成功した。
「まだ夕飯作ってないんだって!」
「美咲を食べるから大丈夫」
「全っ然大丈夫じゃねー!」
後ずされば背中が廊下の突き当たりにぶつかる。すぐに唇が重なった。
「さあ、何を実践してくれるんだ?」
生クリームプレイあたりがオススメ。
「しねーよ!!!」
というか何で急に生クリーム。
濡れた唇が楽しそうに弧を描く。
やっぱりコイツは俺で好き勝手に妄想して小説を書いているだけだ。そうに違いない。
あんな妄想ホモ小説のせいで、うっかり泣きかけていた自分が恥ずかしくて仕方がない。
「……美咲」
ふざけたことを言っていた癖に、名前を呼ぶ声も抱き込む腕もやっぱり優しくて。それだけは小説の中と丸っきり同じで。
「美咲……?」
俺はウサギさんの広い背中に、ぎゅっと両腕を回したのだ。
2013.7.2
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