「いったい何をしてるんだ?」

 聞こえた声は完全に呆れ返っていて、振り返らないままビショップは唇を歪める。
 自分では微笑んだつもりだった。

「何も」

 本当に何もしていない。こうして座り込んでいるだけだ。
 見上げた空はあの日と同じ、胸に刺さる美しい夕焼けだった。

「ただ、ルーク様のことを考えていました」

「僕のことを?」

「ルーク様のことを」

 沈黙。

 遥か下で岩壁にぶつかった波が弾ける。転落すれば確実に命はない。
 それで構わないと思っていた。

「ビショップ」とその声が名前を呼ぶ。何とも幸福な響きだった。普段はあまり呼んでくださらないものだから。

「僕の声が判るか?」

 僕のことが判るか、と問う。勿論です、と答える。

「ルーク様のお声です」

「……判っているんじゃないか」

 呆れたような困ったような声だった。
 尚も何か言いたげな雰囲気を感じたが、ビショップが黙っていると諦めたらしい。
「まあいいや」とひとつ息をついた。

「本題に入るよ」

 あまり時間がないんだ、と言う。

「じかん」

 ぼんやり繰り返す。
 そんなことを言われても、どうにもピンとこないのだ。
 主が姿を消した瞬間から、ビショップの時間は止まってしまった。
 彼のいない時間ならばいくらでもある。気が遠くなるほど続いていく。何の重みもない月日が。

「クイズを出してもいい?」

 不意に無邪気な声が響く。それは少々芝居がかって聞こえた。自分に向けられたことのない声音だからだろう。

「今日は何月何日でしょう?」

 大門カイトと話す時に使う、無邪気な子供のような声。
 なんて考えていたら問題を聞き逃した。

「すみません、もう一度お願いします」

「だから」

 彼が面倒がらず繰り返してくれたお陰で、問われていることは判った。
 クイズでも何でもない。カレンダーか携帯端末を見ていれば即答できる問いだった。

「……ええと……」

 しかし、ビショップには全く判らない。辛うじて判ることといえば。

「今日は……まだ冬だったような……」

 風が冷たいのだからきっと冬だ。
 思い切り溜め息をつかれた。

「お前、大丈夫か?」

「大丈夫な訳ないですよ。ルーク様がいないのですから」

「……その問題はとりあえず置いておこう」

 脇に置いておけるような物ではないのだが。

 とにかく彼は辛抱強く答えを待っている。
 どうやら何としても答えを出さないといけないらしい。しかし判らないものは判らない。
 試しに言ってみた。

「ヒントをお願いします」

「今日から三月……?」

 ヒントってこれでいいのかな、と首を傾げる姿が見える気がした。

「……それ、答えじゃないですか」

 ビショップは少し脱力して、ほんの少しだけ泣きたくなった。こんな言葉遊びは殆どしたことがないから、勝手が掴めないのだろう。彼の経験は著しく欠けている。欠けたまま終わってしまったのだ。

「判ったなら早く答えてくれ」

 焦れた声に促され、腑に落ちないままビショップは答えた。

「……三月一日です。それがなにか?」

 また、溜め息だ。
 ややあって、気を取り直したように彼が聞いてくる。

「僕に何か、してほしいことはないか?」

 さっきの問いとどう繋がるのだろう。全く判らないことだらけだったが、この質問には迷いなく答えることができた。

「背中を押してください」

 ここから落ちていきたいから。

「……」

 彼は何も言わなかった。白い手が背中へ触れることもなかった。

 それきり声は途絶えてしまった。

「……ルーク様?」

 振り返る。誰もいなかった。

「ルーク様……」

 判っていた。始めから誰もいなかった。

 三月一日が何の日だったのか。
 少しでも傾けば死んでしまう場所へ座り込んだまま、ビショップは記憶を手繰り寄せる。

「……誕生日、か……」

 それが何だと喚きたくなった。

 まもなく日は落ちて黄昏時が終わる。



2014.3.1




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