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 それはいつも判で押したみたいに、同じシーンから始まるのだ。



 クリスは寮へ帰る途中で、人影に気付いて立ち止まる。じわりと滲む違和感に、足を動かすことができなくなる。
 外壁に寄り掛かって暗い空を見上げる後輩は、見たことのない顔をしていた。無表情で、空っぽだった。
 泣きそうだとか苦しげだとか、そういうものが見えればまだましだったのに。
 その顔は幼い頃目にした能面のように見えた。
 背筋が寒くなる。放っておいてはいけないと強く思う。
 きっと声は出るのだから、どうしたんだ、と一言尋ねればいい。けれど、クリスは黙っている。黙って空っぽの横顔を見ている。

 どれだけの時間が過ぎたのだろうか。御幸は視線をゆっくりと地面に落とした。彼は僅かな間うつむいていたが、すぐに顔を上げ、寮の方へ戻っていく。
 こちらに気付かなかった背中は妙に小さく見えた。
 近付くことすらできなかったクリスを拒絶するように、ドアの閉まる音が遠く聞こえる。

 やがて単調な目覚ましの音が、静かすぎる暗闇を蹴散らした。


 身体を起こすと憂鬱な溜息が零れる。また同じ夢を見てしまった。
 御幸のあの顔も、彼との距離も、黙って見ているだけなのも毎回同じだ。夢見が悪いというほどではないが、変わってくれないことに苛立ち始めている。



 同室者と軽く言葉を交わし、朝食のために食堂へ向かう頃には、夢のことなど頭の片隅へ追いやられる。朝練でグラウンドにいる御幸とは、顔を合わせるはずもない。
 早い時間であるにも関わらず、同学年の寮生は殆ど食堂に集まっていた。賑やかな後輩達がいないこの場所にも慣れた。
 話題はやはり昨日の試合のことで、彼らの話に耳を傾けながら、トレーを丹波の隣に置く。
 誰が打った。誰が活躍した。クリーンナップで5打点。降谷は。沢村は。
 各々どんぶり飯の中身を減らしながら、試合の話も出尽くした頃、

「そういえばさ」

 正面に座っていた亮介が、感情の読めない笑みを浮かべて言った。

「あいつら早速揉めてるらしいね」
「誰が?」
「御幸とゾノ」
「……あいつらか」

 皆、それだけで納得したような顔をする。
 あの主将と副主将では、いつかぶつかると思っていた。皆の心中はそんなものだろう。

「一昨日の夜にケンカして、今は冷戦状態だってさ」
「大会中に何やってんだ」
「純もよく哲に突っ掛かってたよね」
「っるせえ!」

 クスッと笑う亮介に伊佐敷が吠えた。後輩達と同じようにぶつかり合った日々を思い出し、懐かしそうに皆も笑う。その記憶を共有していないクリスは、曖昧な笑みを浮かべている。

「けど、アイツ大丈夫かよ」

 終いにはつられて笑っていた伊佐敷が、ふと真面目な顔を取り戻して誰にともなく言った。

「主将のくせに敵の作り方しか知らねーだろ」
「確かに」
「不用意に敵増やすの得意だよな」
「一言多いし」
「それだけが原因じゃないと思うよ」

 御幸の性格をよく知る仲間達は口々に同意し、不安を漏らして眉を寄せる。

「もう1人の副主将は?」
「中立だってさ」
「倉持らしいな」

 新チームに起きた問題だ。引退した者が口出ししない方がいいことは分かっていても、時期が時期だけに気になるのだろう。
 監督の進退問題もある。秋大は何としても獲ってもらいたい。
 その思いはクリスとて共有できるが。

「……アイツなら、大丈夫だろ」

 小さな声でそう呟いたのは無意識に近かった。
 自分が心配する必要はない。どんな問題にぶち当たっても、御幸なら。

 半ば独り言のそれが聞かれていたことを知ったのは、朝食を終えて食堂を出ようとした時だった。他の面々はもう散った後で、彼とクリスが最後だった。

「純がお節介焼いてくれそうだし、俺もほっとくつもりだけど」

 振り返れば、糾弾するような視線とぶつかる。
 どうして彼がそんなものを向けてくるのか分からない。

「それは信頼してるんじゃなくて、無関心なだけじゃない?」

 亮介の言う“それ”が指すものはすぐに理解できた。御幸の話だ。
 反射的に口を開く。

「そんなことは……」

 ない。ないはずだ。
 はっきりと言い切ることができなかった。
 口ごもってしまったこちらには構わず、冷やかな声で亮介は聞く。

「クリスの後輩は沢村だけ?御幸はお前を追いかけてきたんじゃないの?」
「……」

 立ち尽くしているクリスを追い越して、彼がドアノブに手を掛けた。

「……アイツはさ、クリスが思い込んでるほど強くはないよ」

 食堂に1人、残される。
 その時思い出していたのは、何故か夢の中の横顔だった。



 様々な問題を抱えながらも、後輩達が秋大を勝ち進んでいく。御幸は大丈夫そうだった。
 一度、学校で話があると呼び止められた時は驚いたが、イップスを乗り越えた投手の成長を、楽しそうに教えてくれた。とても嬉しい報告だった。先発の沢村を観にきてやってほしいと頼まれた。彼自身の話は何もしなかった。

 また同じ夢を見たから「御幸」と声を掛けた。彼は「お疲れさんです」と笑って逃げてしまった。あれは他人を閉め出す笑顔だ。

 ――そんなものを向けられるほど、俺と御幸は遠くないだろう。

 現実では先輩後輩らしく、ちゃんと笑い合いながら話を……

 ――ああ。

 投手とチームと野球の話しかしていない。
 寂しいというよりも苛立っていた。1時間も経てば不快な夢の内容など、頭から追い出されてしまうのだが。



 ようは逃がさなければいいのだ。

「御幸」

 今度は目の前に立ってから言った。

「話をしないか」

 御幸がびくりと身体を揺らした。おどおどと見上げてくる。怯えを誤魔化すように笑おうとしている。
 彼はこんなに小さかっただろうか。
 何を話すべきなのか分からなくなった。

「えーと……リハビリ帰りっスか?」
「ああ」
「何か飲みます?」
「いや」

 どうしてこんなに冷たい声しか出せない?どうして。

 ――俺は野球ができないんだ。お前はできるのに。
 入部時に宣言した通り、今ではお前が正捕手だ。俺から奪い取れて満足だろう。どうしてそんな顔を見せる?
 思ったことを全て口に出したかどうかは分からない。起きた時の気分は最悪だった。

 夢の中にいたのは1年以上前の2人だ。見たことがない顔だなんて嘘だ。あれは夢じゃない。

 ――俺は見た。

 そして声もかけずに通りすぎた。様子のおかしい後輩に、優しい言葉をかけられるほど大人じゃなかった。酷いことを言ってしまうかもしれないと思った。無視されたことでも十分傷ついただろうに。
 御幸の視線を背中に感じながら、ドアに手をかけて閉め出した。
 憎たらしく笑えない時の彼は、見ない振りをし続けた。そうしないと駄目になるかもしれない自分のために。
 御幸も何も見せなくなった。楽しげな笑顔、野球と向き合う時の真摯な表情。クリスが見ていたのはそれだけだ。
 沢村の明るさに救われるまでの日々、何事もなかったように話しかけてくる御幸を、何度冷たく突き放しただろう。

 遠すぎるこの距離を作ったのはクリス自身だ。
 何度同じ夢を見ても、過去をやり直すことはできない。ならば、これからどうすればいい?
 ふと、携帯電話の画面を確認する。10月24日、午前4時50分。
 予定よりだいぶ早く目が覚めたのは、ドア越しに聞こえてきた声のせいなのだろうか。

「御幸センパイ!キャップ!キャプテン!起きてやすか!俺のストレート受けたくないっスか!」

 寮中の人間を起こす気か。
 仕方ないから止めに行こうとドアを薄く開いたところで、沢村が叩き続けていたドアも開いた。

「うるせーよ」
「主将!おはようございます!どうか俺の球を受けてやってください!お願いしやす!!!」
「わかった、わかったからちょっと静かにしろ。俺まで怒られるだろ」
「アンタ髪ボサボサっスね」
「寝てたんだよバカ」
「また寝坊なんスかキャップ!」
「またって何だ。人聞き悪ぃこと言うな。そんな時間じゃねぇだろーが…」

 突っ込む声に疲労が滲んでいる。確かに、朝っぱらからアレに付き合うのはとても疲れる。

「とりあえず中に入れ。これ以上騒ぐな」
「それは受けてくださるということで!?」
「いいから入れ!」

 何だかんだ言ってアイツは投手に甘いし、結局は付き合ってやるのだろう。パタンとその部屋のドアが閉まって、再び寮に静寂が戻った。
 御幸はなかなか大変そうだが、仲の良さが窺えるやり取りで微笑ましい。沢村の言動は遠慮がなさすぎる気もするが。
 羨ましいとすら思ってしまう。
 そんな自分に苦笑して、クリスも部屋の中へ戻る。騒ぎに気付かなかった増子と槙原はまだ眠っている。
 再び眠る気にはなれなかった。ベッドに浅く腰掛けて、御幸のことを考えている。

 不意に昨晩のことを思い出した。皆が野次を飛ばす中で行われた沢村の投球練習ではなく、その前の。


『明日はいい状態で臨めそうか?』

 戸惑いを与えるようなことを言ったつもりはなかった。
 決勝前夜、チームの調子を尋ねる。当然のことだ。クリスが聞かなくても隣にいた結城が同じことを聞いただろう。御幸は主将なのだから。

『……どうですかね……』

 あの時の彼はおかしくなかったか。一瞬、言葉に詰まったのは何故だ。

 紫がかった夜明け前の空が青く染まる頃になっても、クリスの心は晴れない。
 窓の外は決勝に相応しい晴天だった。







 心臓の音がうるさい。聞き慣れたヒッティングマーチがやけに耳につく。じっとりと嫌な汗をかいている。
 追い詰められた場面で打席に立った御幸は、怪我をしているかもしれないらしい。状態はどうなのか、試合に出ていて大丈夫なのか。スタンドにいる者は誰も答えを知らない。

『アイツはクリスが思い込んでるほど強くはないよ』

 あの時、亮介が言った通りだ。冷静に考えれば分かっただろう。
 人はそこまで強くない。ただ、平気なふりをするのが得意で、隠し事だらけで、嘘ばかり言う。クリスのために、投手のために、チームのために、あるいは彼自身をも騙すために。

 ――アイツなら大丈夫?
 そんな訳あるか。

 大丈夫ではなかった。今さら気付いた。
 まだまだ危なっかしくて放っておけない、可愛くて大切な後輩だ。そのことに気付くのが遅すぎた。

 小湊が走る。初球盗塁。

 9回表、2アウト二塁。御幸が塁に出なければ試合が終わる。今日の彼は4打席ノーヒット。痛めた箇所すら分からない。止めることも病院へ連れていくこともできない。昨日の夜ならば間に合ったのに。

 クリスが知っているつもりでいた彼とは違う、痛みを抱え、追い詰められ、必死で希望を繋ぐ姿を祈るように見つめる。
 身を乗り出している自分に気付いた。
 両手は汗でぬるついていた。

 打つ。走る。走れ。

「つっこめ!」

 御幸が拳を上げる。
 御幸がエースに声を掛ける。
 御幸が笑う。
 御幸が。

 執拗な程に御幸を目で追った。今日までのクリスは彼を視界に入れていただけで、ちゃんと見ることすらしていなかったのだと、そう思う。
 止まない歓声が湧き上がる。ついに試合は終わる。
 気力も体力も使い果たしたのだろう、勝利が決まっても仲間達の輪へ加わらない御幸は、それでもしっかりと立っていた。
 自分の足で。独りで。







 時計と食堂の入り口を落ち着きなく交互に睨んでいた沢村が、とうとう勢いをつけて立ち上がった。

「ちょっと、栄純君、どこ行くの?」

 黙って出ていこうとする背中に、慌てた様子で小湊が声を掛ける。
 沢村は「外で待ってる」とだけ答えた。
 誰を、とは聞かなくても分かる。皆、同じ男の帰りを待っているのだから。
 止めるかどうか迷っていると、カタン、とまた席を立つ音が聞こえた。

「僕も」
「降谷君!」

 相変わらずの無表情だが、これは止められないなと誰もが思った。沢村を追い抜きそうな勢いだ。

「なっ!?お前は来なくていい!」

 隣に並んだライバルに気付き、沢村が追い返そうと声を上げる。降谷はつん、とそっぽを向く。

「行きたいから行くだけだし。君には関係ない」
「なんだと!?」

 2人はテンポよく言い争いながらスリッパを放り、靴を履き、競うように早歩きで去っていった。

「ケガ人は走るなぁ!」
「走ってない!」

 途中から駆け足に変わったのか、声はすぐに遠くなる。あっという間の出来事だった。
 もちろんドアは開けっ放しだ。
 残った者は顔を見合わせる。

「どうする?」
「あいつらの気持ちは分からなくもないしなぁ……」

 主将と副主将を除く1、2年、引退した3年全員がここに集まってから、1時間近く経っていた。時間と共に不安も募る。遅すぎるのではないかと思ってしまう。

「連れ戻しましょうか?」

 ふと目が合った金丸に聞かれ、クリスは思わず立ち上がっていた。

「いや、俺も行こう」

 俺が、ではなく、俺もと言った。

「え?」

 かつて同室だった後輩は、困惑顔で言葉を探している。部屋中の視線が集まっているのを感じる。
 仕方ないだろう。心配なのだから。大事な後輩なのだから。
 口には出さずに言い訳を並べ、開いたままの出口へ向かう。
 副主将の2人だって、考え無しに揃って病院へ付き添ってしまった訳だし。
 直情型の1年投手と同じ行動に出て何が悪い。

「まあ、いいんじゃないの」

 背中を押すように聞こえてきたのは、亮介の笑みを含んだ声だった。

「御幸にはいい薬だよ」

 静かにドアを閉めた。


 秋の日はつるべ落とし。そんな言葉がふと浮かんで消える。
 陽はとうに沈んだ後で少し冷えていたが、あの2人が風邪をひくほどの寒さではないはずだ。
 門の前で騒ぐ沢村の声が、早くも冷たい風に乗って届く。まだ言い争っているらしい。沢村と降谷の会話は大抵そんな感じだ。
 声を抑えさせなければ、近隣住民から苦情が来そうだった。クリスは足を早める。

「沢村」
「師匠!!!」

 更にボリュームの上がった声。

「騒ぐなら食堂へ戻れ」
「すいやせん!」

 一言注意すれば何とか許容できそうな大きさになった。

「ですが、師匠に何と言われましても、今日だけは聞くことができません」

 俺はキャップの帰りを待ちますと、沢村はきっぱり言い切った。降谷は道路の向こうを睨んでいる。

「別に連れ戻しに来た訳じゃないさ。仲間に入れてもらいに来た」
「へ?」

 きょとんとした後輩の顔が2つ並んだ。



「くそー!なんで俺だけ知らなかったんだ!」

 食堂にいても外にいても、待ち続けることに変わりはない。
 他にやることもないからか、沢村はさっきから思う存分鬱憤を吐き出している。彼にしては小さな声で。

「お前は何で知ってたんだよ!」

 時々降谷にも突っ掛かっている。

「何となく分かっただけ」
「いつだ!いつ気付いた!?」
「昨日の、延長戦入った後。すごく汗かいてたから。そういえばあの時、君もいたよね」
「そんなんじゃわかんねーよ!」

 ぼんやりして見える降谷が気付いていたということを、クリスは少しだけ意外に思った。

「病院、行かなくていいんですかって言ったけど。何か、はぐらかされたし」

 珍しく口数の多い降谷も、相当不満を溜めていたらしい。

「僕は止められたのに、ずっと試合に出てるし、ずるい」
「……あのヤロー、早く帰ってこねーかな……」

 噛み合わなくなった2人の会話はそれきり途絶えた。

 もしも昨日、食堂で御幸に声を掛けたあの時。せめてクロスプレーのことを知っていれば。どこか痛めてないか、と訊いていれば。
 何度も考えたことを再び思う。
 御幸は後輩にそうしたように、クリスにまで嘘をついたのだろうか。



 焦れに焦れた沢村が「病院はどこだ!?」と駆け出しそうになった頃、ようやくタクシーが滑り込んできた。

「お前らそんなとこで何やってんの?」

 が、沢村と降谷を見つけた御幸の第一声だ。

「アンタを待ってたんだろーが!」
「は?中で待ってろよ」
「あのなぁ!!!」

 大人しく待っていられないほど心配したからここにいる訳で、こちらの思いなどまるで解っていない様子に溜息が出てしまう。
 心配するに決まっているだろう。
 沢村は爆発しそうになっている。怪我人に掴み掛らないかも心配だ。

「俺ら先行って知らせてくるわ」
「てめぇは無理しないでゆっくり来い!」
「頑張って」

 時間が掛かりそうなのを察し、副主将2人と高島先生が口々に声を掛け、御幸を置いて歩み去る。
 困り顔で頬を掻く御幸に、すっと距離を詰めて降谷が聞いた。

「ケガ、どうだったんですか?」
「たいしたことねーよ」

 御幸は即答して、にっと笑う。寮に向かって、逃げるように一歩踏み出した。

「神宮までには治すし」

 とりあえずホッとした。選手生命に関わるようなものだったらどうすればいいのかと、気が気でなかったのだ。帰ってきた御幸にすかさず駆け寄った1年投手2人より、動けなかった自分の方がよほど動揺していたのだと認めるしかない。
 これで落ち着いて話しかけることができる。

「つまり、すぐには復帰できないようなケガを隠してたんだな」

 咎める声を聞いて初めて、御幸はクリスに気付いたらしい。
 驚きから言葉を失った彼は、一転気まずげな様子で首肯した。

「……やっぱ先輩方にもバレちゃってました?」
「丹波達は準決勝を観ていたからな。皆、心配していたぞ」

 怖いなぁ、と零した御幸が、今度こそゆっくりと歩き出した。

「本当に、心配した。今日はお前ばかり見てたよ」
「すみません」

 心底申し訳なさそうな声が返り、それ以上言葉が続かなくなる。
 どうして。なんでこんな無茶を。
 御幸にぶつけてやりたい言葉の数々は、全て過去の自分に跳ね返ってくるのだ。

「降谷も」

 振り返らないまま、御幸が言う。

「昨日誤魔化して悪かった」
「御幸センパイ……」
「沢村は……気付かないでいてくれて、ありがとな」
「なんだよそれ!」

 とうとう沢村が爆発した。御幸の正面に回り込み、流石に胸倉は掴まなかったが、射抜くような大きな瞳で、彼の動きを止めてみせる。

「なんでそんなケガ隠してまで試合に出てたんだ!なんで痛いのに言わねーんだよ!いつもバカバカ言ってくるけどバカはアンタだろ!」

 真っ直ぐで真摯な糾弾はクリスにも刺さる。

 ――確かに俺達はバカだったのかもしれない。

 それでも後悔はしていない。少なくとも、今は。

「痛いって一言言ってくれれば、朝だって付き合わせたりしなかった!」
「投手の我が儘には慣れてるし、別に怒ってねーよ」
「そういうことじゃなくて!」

 今怒っているのは明らかに沢村の方だ。

「納得できる答えを言ってみやがれこのバカヤロー!」

 御幸がたじろぐほど睨み付けている。
 うーだとか、あーだとか唸った後でとうとう根負けしたのか、

「……なんでって」

 ややあってぽつりと本音を零した。

「そりゃまあ、好きだからだな」
 それだけ。

「好きって……」

 クリスにはその一言だけで全てが解った。
 投手が、チームメイトが、野球が好きだから。誰にも譲りたくないと思った。クリスだって、そうだった。



 しかし、バカと天然の2人には、全く伝わらなかったらしい。

「あ、あんたまさか」

 沢村が大真面目な顔で頓珍漢なことを喚いた。

「まさか痛いのが好きなのか!?」
「御幸センパイってMだったんですね」
「なんでそうなる!?」

 クリスも心中で同時に突っ込んだ。なんでそうなる。

「ちがうんですか?」
「ちがうに決まってんだろ!あーもーお前らには絶対言わねー!」
「教えてください」
「俺が好きなら素直に言いやがれ!」
「僕ですよね」
「どっちが好きなんだ御幸一也ぁ!!」

 しかも口を挟めないでいる間に、起動修正できないほど話がずれている。どうしたものか。
 2人に詰め寄られた御幸は、それほど困っていないようだった。宥めるでもなく少し身体を引いて、

「クリス先輩」

 と言った。呼ばれた訳ではなかった。

「俺が好きなのはクリス先輩だから」
「な」
「は?」
「え」

 クリスも沢村も降谷も、ぽかんと口を開けて固まった。

「分かったならさっさと食堂行くぞ!もう祝勝会始まってんじゃねーの?」
「…っ、始まってねーよ!」

 クリスや降谷より一足先に我に返った沢村が、今日一番の大声で言い返す。

「アンタを待ってるに決まってんだろ!!!」



 そういえば怪我について詳しい説明を聞いていない。神宮までに“治す”としか。“治る”ではなく。
 3人揃ってまんまとはぐらかされたことに気付いたのは、御幸を見失った後だった。
 御幸は一応祝勝会に顔を出したが、皆からこってり絞られた後、早々に自室へ逃げ帰ったらしい。いつの間にか姿が見えなくなっていた。
 疲れ果てて眠っているだろう彼を起こしてまで、訊き出す訳にはいかないじゃないか。
 憂慮を懐いたまま眠るしかなかった。今日1日で2年分くらい心配させられている気がする。



 そこに立つ御幸の姿を見つけてすぐに夢だと分かった。まだまだ体もできていない、精一杯強くあろうとしていた頃の御幸だ。
 クリスはこの夢を何度も見た。夢の中で持っている記憶が、どこまで真実かは判断のしようもないが。
 とにかく夢だ。

 御幸、と声をかける。リハビリ帰りっスよね、毎日お疲れさんです。
 何の蟠りもありません、という顔で言って、御幸はクリスから逃げようとする。
 その笑い方は好きじゃない。手を伸ばして――拍子抜けする程あっさりと伸ばすことができた――両頬を軽く引っ張ってみた。御幸が間の抜けた声を上げて瞠目した。
 中学生の頃の柔らかさには敵わないが、意外とよく伸びた。

「なっ……」

 解放されても言葉が出てこないらしい。

 笑えないなら、無理に笑わなくていいんだと、言った。

「は……」

 笑おうとすることも、顔を歪めてしまうこともできなかった御幸が、半端な表情で立ち尽くしている。

「寮へ戻ろう」

 そっと手を引く。子供のように見えたのだ。迷子になりそうな幼い子供。
 信じられないものを見る目で繋がれた手を凝視した彼は、おずおずとクリスを見上げて訊いた。

「これって、夢ですよね」

 そうだな、と答えるしかなかった。
 一瞬、何かに耐えるみたいに目を伏せた後で、

「ははっ」

 可笑しそうに御幸が笑った。今度はちゃんと笑っていた。

「お互い夢だって判ってるとか、何か変な感じっスね」

 もう一度「そうだな」と返して歩き出した。



 手を引いたまま入った自室は都合よく無人だった。
 消灯時間も迫っているはずだが、隣からは騒がしい声が聞こえる。確か合宿中だったかな、と思う。

「疲れてるんだろ?ここで休んでいけばいい」

 布団をまくって、ぽんぽんとマットを叩く。

「夢ん中で寝てどうするんですか」
「細かいことは気にするな。今はお前を甘やかすと決めたんだ。嫌か?」
「……困ります」

 御幸は、少し迷った後で付け加える。

「嬉しくて」

 現実でもこれくらい可愛げがあればいいのに。

「せっかく夢の中にいることだしな」
「夢ならいいですかね」

 少し楽しくなってきて笑い合う。これもまた現実では叶わないことなのかもしれない。
 御幸は勧められるままにベッドへ上がってくれた。枕が違うと眠れないんですよね、なんて言いながら。

「クリス先輩は寝ないんですか?」
「夢の中で寝ても仕方ないだろ」
「それさっき俺が言いましたよ」

 こんなに穏やかな会話を楽しめるのならば、もっと早く行動を起こせばよかった。
 夢だ夢だと繰り返しながら、何の意味もない夢だとは思えなくなってきている。本当に1年前の御幸と話しているような気がするのだ。

 ふわりと布団を掛けてやって、ベッドの端に腰掛ける。

「ありがとうございます。実はちょっと寝不足気味だったんです」
「だろうな」

 階段を上る時もふらついていた。
 この意地っ張りな後輩の言う「ちょっと」は、日常生活に支障が出るちょっと手前なんだろう。どうせ。
 こんな夢の中でしか安らげないんだろう。
 
「レギュラーの練習、きついんじゃないか?ついていけてるか?」
「まあ、なんとか」

 あの頃は考えようともしなかったが、とても辛かったのだろうと思う。
 先輩達を押し退けて正捕手になってしまった以上、弱みを晒す訳にもいかない。苦しくてもそれを見せられない。コイツが正捕手ならば大丈夫だと思わせなければならない。
 入部して2ヶ月足らずの1年に、とんでもない重荷を背負わせてしまった。

「クリス先輩の……肩のこと知らされた時ほど、苦しくなることなんてありませんから」

 その言葉に深く胸を突かれる。

「けど、治るまで1年ってことは、来年こそ正捕手争いできますね。俺、ずっと待ってますから。追いつけるように、頑張りますから」

 クリスはそれが叶わなかったことを知っている。この記憶だけは夢の中でも真実だと分かる。

「……お前は俺を恨んでいるか?」

「まさか」



 夢は願望の現れだと言われることがある。
 目が覚めて頭を抱えたくなった。
 夢の中で交わした会話など殆ど忘れてしまったが、御幸がきらきらした瞳で言ってくれた一言だけは、はっきりと脳裏に焼き付いていた。

「俺、クリス先輩のこと大好きですから」







 決勝翌日の夕暮れ時、室内練習場の辺りを通りかかった。後輩達は神宮大会に向け、気合も十分にグラウンドを駆け回っているようだ。自然と笑みを浮かべながら自販機に向かう。
 何ともいえない顔でベンチに座っている御幸を見つけた。1人だった。
 クリスはもう二度と見なかった振りなどしない。

「どうした」

 人に弱みを見せたがらない後輩が警戒して逃げ出すことのないように、努めて柔らかい声で尋ねる。

「クリス先輩……」

 御幸は逃げるどころか途方に暮れた子供みたいにこちらを見上げて、言った。

「ベンチ入りメンバーから外されました……」

 神宮大会までに治して試合に出る気満々だった彼は、そのことにショックを受けたらしい。

「まあ、仕方ないんじゃないか?」

 予想はできたことだ。
 隣へ腰掛けながら宥めるように続けた。

「10日かかるんじゃ、大会ぎりぎりだろ」

 御幸は黙っている。納得がいかないというよりも、言い辛い何かがあるような、気まずそうな様子だった。

「待て」

 嫌な予感を覚えつつ、短く嘆息して口を開く。

「医者には何日かかると言われたんだ」
「え、えと……」

 案の定、言葉に詰まっている後輩の目をじっと見て、追い詰めるように呼んだ。

「御幸?」

 1、2年の誰かに聞けばすぐに知れることだ。ここで逃げても意味はないだろう。

「……3週間っス」

 すぐに観念した御幸が答えて、「大袈裟なんですよあの医者」と、不満げに唇を尖らせた。

「お前な……」

 クリスは思い切り深い溜息を吐き出す。

「そんなにかかるということは、やっぱり肉離れを起こしていたんだな。痛めた箇所はわき腹か?」
「……はい」
「3週間は何日か分かるか?」
「……21日ですね」
「10日で治る訳ないな。お前はバカか」
「ははは……」
「笑って誤魔化すな」
「……はい、すみません」

 思ったより重症だった御幸を、有無を言わせず部屋まで連れ戻した。そういえば顔色もあまりよくない。



 横になれ、と言ってみたが、夢と同じように上手くはいかなかった。
 もう眠れませんと言い張る御幸は、学校を休んで寝ていたらしい。
 仕方なく、今度はベッドに並んで座った。

「とりあえず10日かけて、スタンドで応援できる程度まで治せばいい」
「目標そこなんですか」
「不満か?」

 反論を許さない声で聞く。

「……いいえ」

 そう答えつつも不満が駄々漏れの御幸に、クリスは「それから」と付け加えた。

「医者と俺が許可するまで野球は一切禁止だ」
「ええ〜」
 クリス先輩、医者より厳しそう。

 御幸がぼやく。

「よく分かってるじゃないか」
「マジですか……」

 ちゃんと見張ってやらなければ、と思った。
 彼が二度と無茶をしないように。痛みを隠すことのないように。クリスと同じ道を辿ることのないように。
 御幸を見ていたいと思ったのだ。

 殆ど高さの変わらない御幸の頭に手を載せて、優しくかき回しながら言ってやる。

「当然だろ。お前は俺の……大切な後輩だからな」

 そんな言葉では足りない気がしたが、赤くなって瞬いた後で「ありがとうございます」と答えた御幸が、擽ったそうに綺麗に笑ったから、今はこれで十分なんだろう。



2015.2.13




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