ガーベラ
一番好きな物を手放して、一番好きな人を諦めて。
二番目はなかった。もう何もなかった。
喧騒が遠い。
この辺りは居酒屋も多かったはずだ。駅への近道なのだろう。シャッターの下りた店先を、たくさんの靴が通り過ぎていく。目の前で止まって、無遠慮な視線を送って、また動く。笑い声、中味のない口論、千鳥足。
一際騒いでいた集団の中の一人が、ぴたりと足を止めるのが見えた。
「なんだよ、急に止まるな」
「あの人!具合悪そうだろ!」
「あー?ただの酔っ払いじゃねーの?」
男ばかり五、六人といったところか。どうでもいいと思っていたら、最初に止まった青い靴が近付いてくる。
「えーっと、そこのお兄さん?大丈夫っスか?」
夜の繁華街にお人好しが一人。こういう奴に捕まると面倒臭い。
「タクシー呼びます?それとも救急車?」
顔を上げないままゆっくりとかぶりを振った。一応ここまでは歩けた訳だし、もう少し休めばまた動ける。
「……いき、なんで、ほっといてもらえますか」
搾り出した声は掠れきっていて、自分でも聞き取れないくらいだった。当然、目の前の男にも伝わりはしない。
「……あの〜……聞こえなかったんでもう一度!お願いしやす!」
――しやすって。
思わず笑いそうになった。彼の話し方を聞いていると、かつての後輩を思い出す。
バカで、真っ直ぐで、太陽みたいに明るくて、バカで。その明るさで、あの人を救った。
「あー、話すのも辛いなら、無理にとは……」
ふらふらと頭を持ち上げる。相変わらず視界はぼんやりしていて、声もはっきりとは聞こえなかったが、俺なんかのことを心配そうに見下ろしているのが、高校生くらいの少年だということだけは辛うじて分かる。
その、丸い大きな目が、零れ落ちそうなほどに見開かれ。
「……み、み、みっ、御幸一也ぁ!?」
お人好しで童顔の大学1年生が喚く。
本人だった。最悪だ。
あっという間にタクシーへ乗せられ、「俺ん家でいいっスよね」と言われ、文句を言おうにも車は走り始めているし、沢村は同居人に電話している。
「実は予定が変わりまして、タクシーで帰ってるんですが……いやいやトラブルじゃないっスよ!ちょっと拾いモノを……犬でもないっス!ペット禁止なの分かってますし!もう拾いません!」
前に拾った前科ありか。俺はモノ扱いか。
沢村は無駄に大きい声で話しているが、相手の声は一切漏れ聞こえてこない。小さいから、聞こえるはずがない。
「で、あの……はい、その通りっス!タクシー代が足りないんスよ!さすが師匠!」
信号に捕まった運転手が、不安そうな目でちらりと後部座席の方を見た。
尻ポケットから引っ張り出した分厚い財布を沢村の膝に放る。沢村は猫目でぶんぶんと首を横に振る。
「30分くらいで着くはずなんで!また電話しやす!」
通話は数分で終わった。そっと財布を返された。
「御幸センパイは寝てていいっスよ。着いたらちゃんと起こしますし」
それは初めて聞くような優しい声で、誘われるようにとろりと瞼が落ちる。
このまま深く眠ってしまえば、全て夢にならないだろうか。
目が醒めて、まだあの部屋の中にいるのでもいい。汚れた床に倒れていても、知らない男の下で喘いでいても。
今連れて行かれようとしている場所以外なら、どこでも構わないと思うのに。
シーツは懐かしい匂いがした。
「……御幸?」
薄っすらと目を開ける。クリス先輩の心配そうな顔。
俺は今、寮にいるんだろうか。
よく、思い出せない。
不意に視界が遮られ、大きな掌が額に乗る。
硬いマメ。冷たい手。心地よくて口許がふにふにと弛む。
「まだ、熱いな……もう少し寝ていろ」
クリス先輩が、そう言うなら。
すぐに何も考えられなくなった。再び眠った。
もう一度目を開けた時、こちらを覗き込む顔は二つに増えていた。
飛び起きようとしたつもりだったが、頭が僅かに上がっただけで終わる。
「……起きられるか?」
頷いて、ベッドに両肘をつく。ゆっくりと上半身を持ち上げていく。背中に掌が添えられる。病人みたいだと思っていたら、スポドリのボトルを渡された。キャップは外してある。
急に喉の渇きを覚え、500mlのそれを一気に飲み干した。
空のボトルを受け取りながら、クリス先輩が言った。
「御幸、覚えてるか?沢村がお前を拾ってきたんだ」
「……覚えてます」
というか思い出した。
二人とは二年近く会っていなかったのに、むしろ会うことはないと思っていたのに、久々の再会でこの様か。最悪だ。
とりあえず、と枕元をパタパタ探っていたら、無言の沢村からメガネを渡される。
視界は良好だ。歪んでもいない。カーテンの向こうは暗い。
「俺、どれくらい寝てました?」
恐る恐る尋ねてみる。明らかに自分のものではないジャージを着ていることに気付く。サイズ的にクリス先輩のものだろう。
――駄目だ。考えるな。
「途中で一度起きてたが……だいたい20時間くらいか」
ほぼ丸一日じゃないか。
「すみません……大変なご迷惑を」
「気にするな。お粥くらいなら食べられそうか?」
「……たぶん」
まだ掠れている声で答えれば、彼は少し安堵したような顔で、さっきから一言も発していない沢村を呼ぶ。
「温めて、持ってきてくれるか?」
コクコクと頷いた沢村が、静かに部屋を出ていった。
これまた静かに閉まったドアを茫然と見つめる。あれは本当に沢村か?
小さな笑い声が聞こえて、視線を戻した。クリス先輩が笑っていた。
「黙ってるように言っておいたんだ。アイツの声は大きすぎるからな」
「なるほど」
ぷるぷる震えながら凄い目で睨み付けてくる割に口すら開けないから、ずっとおかしいと思っていたのだ。
もう大丈夫ですよと言ってみたが、信用してもらえたかどうかは分からない。
「お前の意識がなかったから、説明もなく運び込んでしまったが……ここは、その……」
二人きりになった部屋の中で、クリス先輩がぼそぼそと話を切り出す。硬く、緊張した面持ち。
「知ってます」
被せるように先んじて答えると、張り詰めた気配が薄くなる。
「ずいぶん前に、哲さんから聞きました」
彼は何の偏見も持たない人だった。高校時代の仲間であり、ずっと思い合っていた二人が結ばれ、順調に愛を育んでいることが嬉しいのだと。「沢村が卒業したら一緒に住むらしいぞ」と語る表情から窺えた心情はそれだけだった。
拗らせすぎた俺の片想いなど、あの元主将は知るはずもない。遅かれ早かれ、大好きな先輩と後輩が恋人同士になってしまうことは高校時代から分かっていたし、ちゃんと覚悟もしていたけれど、できればそうなったことを知りたくない、聞きたくないと思っていたことも。そのために電話番号やメールアドレスを変え、誰にも住所を教えずにいたことも。
クリス先輩の口から聞くのも嫌だった。カミングアウトを遮った理由はそれだけだ。
「偏見とかもないですよ。俺もゲイですし」
ついでにさらりと告げてみる。全く知らなかったんだろう。驚いた顔は少しだけ沢村に似ていた。
クリス先輩が何かを言い掛けたところで、タイミングよくノックの音。
俺はドア越しに呼びかける。
「沢村、もう声出していいぞ」
途端、騒々しい音と共にドアが開いて、
「御幸センパイ!!!」
湯気の立つ器が載ったお盆を引っ繰り返しそうになりながら、勢いよく沢村が飛び込んできた。
「起きて大丈夫なんスか!なんであんなとこに居たんスか!!いったい何があったんだ!!!」
「うるせぇよ」
「近所迷惑だ」
もうちょっと黙っていてもらえばよかった。
二人に見守られながら器の中味を半分ほど減らすと、またもや眠気が襲ってきた。
寝ていいぞ、とクリス先輩が言う。そっとメガネを外される。
「……ソファーか床に……」
移ります、と言いたかった。ここはクリス先輩のベッドだ。俺が占領し続ける訳には。
「いいから。おやすみ」
瞼に掌を乗せられた。光がなくなればいよいよ眠気に逆らえない。
「仕方ないですね!カツ丼は明日の朝まで待ってやりましょう!」
「取り調べじゃなくて事情聴取だからな……分かってるか?」
子守唄には煩すぎる掛け合いも不思議と気にならず、意識が遠くなっていく。暗い方へ暗い方へ落ちていく。
この場所は、温かくて寂しくて苦しい。
荒い息。汗。べとべとのシーツ。
手首に巻き付いた麻縄がほどけない。
視界いっぱいに広がる、見たことがあるようなないような男の顔。天井に安っぽいシャンデリア。
拘束されて下敷きになった両手が気になるのは、肩や腕を痛めたくないからで、けれどもう気にする必要はないんだった。馬鹿みたいだ。力を抜く。
もうどうなっても構わないのに。
「泣けよ」と男が言う。殴る。殴りながら言う。
俺もそう思う。泣けよと思う。痛くて涙が出ればよかった。
胸が痛くて堪らなかったあの頃、声を上げて子供みたいにわんわん泣けてたら、恋は終わっていたかもしれない。
知らない男に目茶苦茶に抱かれて、頭が真っ白で、訳が分からなくなって。気持ち良くて、やっと涙が出る。
こんな泣き方じゃ何も終わらない。
三度目の目覚めは悪くなかった。カーテンの隙間から差し込む光。
部屋の外から一人分の足音が聞こえ、また、しんとした静寂が戻る。たぶん朝だ。朝であってほしい。
寝ぼけ眼でメガネを探しながら、寝かされていたベッドの大きさに今さら気付いた。男二人で寝ても窮屈じゃないくらい大きく見えた。つまりはそういうことだ。
俺に貸し出せたということは、沢村の部屋にもベッドか布団くらいあるはずだが。
ぼんやりと考える。
俺がベッドを占領していた間は、狭すぎるそこでくっついて寝て、甘い夜を過ごしたりしたんだろうか。何せこっちはぐっすり眠り込んでいた訳だし。
彼がどんな風に恋人を抱くのか聞いてみたかったような気もするけれど、どうせ聞こえてくるのは沢村の声だけだろう。そっちには全く興味がない。熟睡していてよかった。
体中に鈍い痛みがあったが、起き上がるのに支障はなかった。元来、体は丈夫な方だ。こんなことになってしまったのは、少し疲れが溜まっていたせいだ。そうに決まってる。
メガネはパソコンデスクの上にあった。
起きているのは沢村か、それともクリス先輩か。
どちらにせよ謝り倒した後で、一刻も早くここから出ていかなければ。
2口コンロの前に立っていたのはクリス先輩だった。ヤカンがヒュウヒュウ鳴いている。沢村は走りに行ったと言う。
とりあえずトイレを借りてから、顔を洗うことにした。綺麗に磨かれた鏡を見る。顔にガーゼと絆創膏。けっこう派手に殴られたらしい。
ホテルの一室であの男と顔を合わせた瞬間、やばいかもとは思ったのだ。こんなことになるなら逃げておけばよかった。いや、逃げようとしたら拘束されたんだったか。
ガーゼを濡らさないように気を付けて、目の辺りだけ冷水で洗う。垂れた水滴が手首の擦り傷に染みて顔をしかめる。
ああいう頭のおかしい男を上手く避ける術はないんだろうか。行為が終わった後には涙を流して謝りながら体を洗ってくれたが、彼はいったい何をしたかったんだろうか。DVごっこか。
顔を上げる。鏡の中の自分に問い掛ける。
――お前は何をやってるんだ?
水気を拭き取るために触れたタオルはふかふかで、触れてはいけない物に触れたような気がして胸が痛くなる。息が詰まる。
明るい窓際に据えられたテーブルの上には、携帯電話と財布が並んでいた。それから湯気の立つマグカップが二つ。
マグカップ以外を隠すようにポケットへ入れてから、服は借り物だったことを思い出す。
「すみません、俺が着てた服って、」
「何があったんだ」
遮るようにぶつけられたのは静かな問い掛けで、彼らしくないその声の厳しさに、思わず言葉を呑んでしまう。
いったい何と答えたものか。彼がどれくらい事情を察しているのか分からない。
少し迷ってから、口を開く。
「……喧嘩です」
「縛って噛み付いて殴るのが喧嘩か?」
「まぁ、そういう喧嘩になることだってあるんですよ」
「ないだろう」
「ないですかね」
溜め息。
「恋人にやられたのか?」
「いえ」
反射的に否定した後で、失敗したと思った。ここは肯定しておくべきだった。
気まずい沈黙。
クリス先輩は険しい顔で考え込んでいる。
そんなあなたの顔も好きです、なんて、現実逃避しながら頭の沸いたことを思う俺がいる。
「……御幸」
やがて結論にたどり着いたらしい彼の、射抜くような目に囚われた。
「お前、現金を持ち歩きすぎじゃないか?」
「そうですかね?」
そうだろうな。
とりあえず惚けてみた自分を嘲笑いたくなる。
また会いたいと言いながら万札を握らせてきたのは、この前の男が初めてじゃない。枚数なんて数えずに財布へ突っ込んで、同じようなことを何度も繰り返して。
空っぽの頭で夜の街を歩き続けたあの日からずっと。
「まさかとは思うが、お前、もしかして……」
どうしてこんなことには気付くんだろう。俺の想いなんて知ろうともしないくせに。
――やっぱり敵わないです。降参です。
心の中で白旗を揚げ、「誤解されたくないんで言いますけど」と前置きする。その後は一息に捲し立てた。
「金目当てでやってるんじゃないっスよ。男に抱かれるのが好きなんです。ゴーカンみたいにヤられるのも嫌いじゃないですし。クリス先輩が心配するようなことは、なに、も」
たぶん、彼が止めなければ、いつまでも露悪的で露骨な言葉を吐き続けたんだろう。
途中で声がくぐもって、だから続けられなくなった。力強い手が俺の頭を掴んで、彼の右肩に押し付けていた。
クリス先輩に抱きしめられていた。
他にどうすればいいのか、バカな後輩に何を言えばいいのか、彼には分からなかったのだと思う。
やがて言葉を塞ぐための手がゆっくりと離れ、とうとう両腕が体に回された。
俺はやっと声の出し方を思い出した。
「離してください。俺、汚いんで」
あなたはこんなモノ触ったら駄目です。
「石鹸とシャンプーの匂いだな」
綺麗だろ、と言った彼が、あやすようにポンポンと背中を叩く。
ぎゅう、と両手を握り締めた。
こんなのあんまりだ。痛くて苦しくて死にそうだ。
会わないようにしていた期間など、何の意味も持たなかったことを悟る。空っぽになって、投げやりになって、何人の男に抱かれたのか数えることすらやめた今でも、こんなにクリス先輩のことが好きだった。想いは少しも薄れていない。絶対に叶いやしないのに。彼が俺なんかを選んでくれるはずないのに。
残酷な優しさしかくれないこの人のことが、ずっと、ずっと好きなのだ。
「……高校の時から思ってたんスけど、今、言ってもいいですか?」
震えそうな声でそう聞いた。答えなど待たずに言葉を継ぐ。
「俺、犬とか猫じゃないんで」
懐くだけじゃ済まないんですよ。
「正直きついんです」
「……御幸?」
「こういうの、やめてもらえませんか。優しくしないでもらえませんか」
あなたが好きだから辛いのだと、そう言わなければ伝わらないのだと思う。分かってる。
懇願に似たそれを受け止め損ねた彼は、困ったように黙っている。
回された両腕の力が僅かに緩んだ。
「……俺が嫌いか?」
「ははっ」
彼が導き出した結論に、思わず声を上げて笑った。涙が出そうだ。
「そう思うなら、それでいいです」
だから早く逃がしてくれないか。どうして腕を解いてくれない。
並んだ不揃いなマグカップの中の紅茶は、とうに冷めてしまっただろう。せっかくクリス先輩が入れてくれたのに。
やがて沢村が帰ってきて、「浮気ですか!?」と一頻り騒いだ。本気で疑っている様子ではないし、クリス先輩も焦りなど見せず、「違う」と短く否定して俺を離した。
「じゃあ、これでおあいこっスね!」
笑いながら沢村が抱き着いてくる。ここはクリス先輩の方へ行くべきではないのか。バカの考えることはよく分からない。
走ってきた後の身体は汗で湿っている。別に不快ではないけれど。
クリス先輩はほっとしたような顔をしている。
「風邪ひく前にシャワー浴びてこいよ」
沢村の乱入で話はうやむやになった。
小さなテーブルに椅子が二脚。温かみのあるブラウンに、テーブルクロスはシンプルなブルー。
二人らしいなと思う。決して広くはない部屋の中、どこを見ても何を見てもそう思う。
玄関に揃えられた靴、風に揺れるカーテン、スリッパ、柔軟剤でふわふわのタオル、洗面所に並んでいた歯ブラシだとか。
改めて思い浮かべようとしても色すら出てこないのだから、見ているようで何も見えていなかったのかもしれない。
クリス先輩と沢村が三人分の朝食を作り始めてしまったせいで、俺は帰るタイミングを逃した。何度もレシピを確認しているし、手つきが少々危なっかしいのだ。沢村の迷いのない包丁捌きが逆に怖い。隣にいるのはクリス先輩だし、俺が心配する必要はないんだろうが。
気になって帰れないじゃないか。
「本当に大丈夫なんスか?代わりましょうか?」
三脚目の椅子に座ったまま声を掛けると、二人は同時に振り返ってくれた。
「客人は大人しく座っててくだせえ!」
「心配するな。普段から時々作ってはいるんだ」
「時々なんですね……」
それはまたどのくらいの頻度なのだろうか。あまり安心はできない答えだ。
「忙しいと、どうしてもな……お前はきっと毎日作ってるんだろうが」
「俺だって毎日は無理っスよ。沢村〜鍋吹き零れそうになってるぞ〜」
「分かってます!!」
言い返しながら沢村が慌てて火を弱める。クリス先輩の意識もそちらへ向く。また背中しか見えなくなる。同じ部屋の中にいるのに遠く感じる。手持無沙汰に頬杖をつくと、顔の傷に触れて痛かった。
「沢村、皿を取ってくれ」
「はい、ただいま!」
朝食は無事に出来上がりそうだ。二人の息の合ったやり取りを聞きながら、食べ終わったら帰ろうと決めた。そういえば服も借り物のままだ。返してもらって着替えたら帰ろう。ここから出ればもう会うことはない。
バターとトマトソースの匂いが、息の詰まる部屋の中を満たしていた。
「朝からこれなんですね」
「文句でもあるんスか!?」
「失敗する可能性の低いメニューを考えた結果なんだ。お前に不味いものを食わせる訳にはいかないからな」
「不味いなんて絶対思いませんって」
あなたの作ったものならば。
そんな訳で朝から主食はパスタらしい。パンでもご飯でもなく。
作っている様子を見て一抹の不安を覚えたりもしたけれど、パスタとスープの朝食はそれなりに美味かった。クリス先輩の作ってくれたものなら黒焦げの目玉焼きだって美味しく感じてしまう自信があるが。
仕方なくお誕生日席に納まっている俺は、向かい合って食事を進める二人を眺めながら言った。
「なんか……変わってないんスね」
クリス先輩が手を止める。沢村は食べることに集中している。
「何がだ」
「二人とも。付き合って二年くらいは経ってるんでしょ?もうちょっとこう、恋人らしい呼び方とか話し方とかしてるんじゃないかと」
栄純とか呼んだりしないんですか、と聞くと、沢村がコンソメスープを噴き出して喚いた。
「気色悪い呼び方しないでもらえます!?」
「例として挙げただけだろ、栄ちゃん?」
「だーっ!や!め!ろ!」
高校時代のように胸倉でも掴んで揺さ振る気か、立ち上がった沢村が腕を伸ばしてきたところで、「食事中に立つな」と飼い主の制止が入る。
「はい。すみません師匠!」
「御幸も。あまりからかってやるな」
こっちまでとばっちりをくらって叱られた。
「はい。すみません」
意図せず謝り文句が沢村と被ってしまう。クリス先輩が苦笑している。
「お前らは相変わらず仲がいいな……」
おまけに承服しかねることまで言われて閉口した。
美味しいと思ったはずなのに、皿の中味は半分も減っていなかった。思うに、今も日々体を鍛えている彼らとは、胃の大きさが違うのだ。いったい何人前茹でたのだろう。これ以上食べたら確実に吐く。
どんぶり飯三杯を必死で詰め込んだ、入部したての頃を思い出してげんなりした。恨めしく皿の上に残ったパスタを睨む。
「無理しなくていい」
「……すみません」
クリス先輩に言われて諦めてフォークを置く。こちらへ向けられた沢村の心配そうな視線が、ちらりと食べ残したパスタへ逸れた。
「食う?」
遠慮がちに頷くので皿を押しやる。代わりに空の皿を引き取って席を立った。
さっそく残飯処理に取り掛かった沢村は、見ていて気持ちのいい食べっぷりだ。同じく空になっているクリス先輩の前の皿も、取り上げて重ねてシンクへ運ぶ。たいして広くないそのスペースは、鍋とフライパンとボールに占領されつつあった。
勢いよく水を出す。目と口がついている間の抜けたスポンジに、オレンジのボトルの洗剤を数滴。
慌てて立ち上がったクリス先輩に止められたが、「これくらいやらせてください」と譲らなかった。
「悪いな」
「いえいえ」
軽く答えて皿を洗っていく。汚れたものを綺麗に磨くのは気持ちがいい。じきに「ごちそうさまでした!」と声を上げた沢村が、三枚目の皿を持ってきた。一枚だけデザインの違う、来客用の皿だ。洗い上げて並べて籠に立てた。色違いのマグカップと、自分の使った真っ白いそれも。
水音が途切れると部屋の中は急に静かになった。何か話しているのではないかと思ったのに、振り返れば二人と目が合ってしまう。黙ったまま俺を見ていたんだろうか。とても気まずい。
「ええと、その、今回は本当にすみませんでした。色々とご迷惑をおかけしまして……」
とりあえず深く頭を下げてみた。
「迷惑だとは思ってないが」
クリス先輩が言う。
「ものすごく心配した」
「すみません」
更にうなだれ、視線を落とす。叱られている子供みたいで情けない。クリス先輩には謝ってばかりだ。後輩にまで見られていることだし。
そういえば沢村がまた黙っている。
俺がじっと俯いたままでいると、大好きな優しい穏やかな声で、顔を上げてくれと言われた。
「御幸、俺も沢村もお前のことが好きだし、今でも大切な仲間だと思ってる」
「……それは、ありがとうございます。嬉しいです」
本当は全然嬉しくない。好きだなんて言わないで欲しい。アンタは沢村にだけそう言ってればいいんだと思うし、こんな「好き」は欲しくない。
「大切に思っているからこそ、お前が傷付くようなことはしてほしくないんだが」
クリス先輩のそんな言葉が、耳も心もすり抜けていく。
今回痛い目に遭ったのは偶々で、いつもは傷なんか付かないのだ。
気持ちいいし、金は増えるし、頭が真っ白になるから嫌なことを考えずに済む。
彼が思うほど悪いことばかりでもない。それを言って理解してもらえるとは思わないが。
もう住む世界が違うのだから、分かり合えなくて当然だ。
黙って、遠くなった人を見返す。
「もうあんなことはやらないな?」
俺がやっていることを沢村には知らせたくないのか、何を、の部分をぼかして聞いてきた彼に、「はい」と短い嘘をついた。
「本当に?」
「はい」
「……嘘だろう」
「ホントですって」
信じられないなら聞かなければいいのに、と思う。
「何か困っていることがあるなら」
「何にもありませんし放っておいてもらえると有り難いです」
真摯な言葉を遮ってにっこりと笑う。面倒を掛けたことも心配させてしまったことも申し訳ないと思うが、こちらのプライベートに踏み込まれるのは迷惑だ。
困った顔で溜め息を吐いたのは、クリス先輩の方だった。
こんなことになった切っ掛けはアンタと沢村なんですよ、なんて言ったら、どんな顔になるんだろうか。言わないけど。
「で、俺の服って」
「……洗濯機の上に置いてある」
「ありがとうございます。着替えてきます」
あなたなんか好きにならなければ。
そう思ったこともあるけれど、恨み言をぶつけるつもりもない。
彼を好きにならなかった自分なんて想像もできない。結局、悪いのは俺だけだ。
着替えを終えて廊下に出ると、二人は玄関先にいた。クリス先輩が慌てて靴を履いている。何か急ぎの用事があって出掛けるらしかった。
振り返って「行ってくる」と言うから、反射で「いってらっしゃい」と返してしまった。声が沢村と揃った。
広い背中を見送ってから、違うだろ!と頭を抱えた。見送ってどうするんだ。早く帰ろう。
しかし今出たらクリス先輩に追いついてしまう。
迷っていると唐突に沢村が言った。
「居候の御幸センパイ!掃除と洗濯手伝ってください!」
さっきまで客人だったはずだが。
「都合のいい時だけ居候扱いすんな。帰るからな」
「帰しませんよ。俺が帰るまでは絶対に逃がすなって、クリス先輩に頼まれてるんで」
因みにクリス先輩は夕方まで帰らないらしい。
ぎゅっと腕を掴まれる。力強い投手の手だ。
沢村が「だいたい!」と続けて眉を吊り上げた。
「服とベッド借りて朝飯食って、なんの礼もせず帰るつもりなんスか!?なんという恩知らずな!」
「分かった分かった手伝えばいいんだろ。昼飯と夕飯もまとめて作ってやる」
「俺、レタスチャーハン食いたいっス!」
そんな訳で居候扱いされた俺は仕方なく洗濯物を干し、掃除機をかけ、買い出しにまで出掛ける羽目になった。冷蔵庫に調味料しかなかったのだ。沢村相手なら適当なことを言っていつでも逃げられそうだし、もう少し付き合ってもいいだろう。
数分歩いて住宅街を抜ければ、線路沿いの広い道にぶつかる。最寄り駅までは10分くらいだと沢村が言う。この立地で2DKだと、けっこう家賃が高いんじゃないのか。
話のついでに聞いてみたが、クリス先輩の父親の知り合いの持ち家だとかで、かなり安くしてもらっているらしい。適当な相槌を打つと会話が途絶えた。
日曜の昼間ということもあり、駅前はそこそこ賑わっていた。電車から何度か見たことのあるスーパーに入り、何やってんだろうなと遠い目になりながら食材を籠へ放り込み、長蛇の列へ沢村と並び、どちらが払うかレジ前で揉め、おばさま方に睨まれた。
帰り道でも会話は弾まなかったし、借りたエプロンをつけてキッチンに立ってからも同じだった。沢村は俺に突っ掛かってこないし、俺が沢村をからかうこともない。
何か聞きたいことがあるような、こちらを窺うような視線だけ何度か感じた。
「昼飯できたぞ」と声を掛けるまで、結局沢村は黙っていた。
いつも賑やかなはずの後輩が「いただきます」と「美味いっス」と「ごちそうさまでした」以外の言葉を発したのは、二人の夕飯用に作ったあれこれにラップをかけて、冷蔵庫へしまい終えた頃だった。
「御幸センパイ」
妙に真面目な顔をして、今さらすぎることを聞いてくる。
「本当に野球やめたんスか」
大きめの冷蔵庫に寄り掛かって溜め息をひとつ。
「お前らには散々話したろ」
最後の試合を終えて引退し、高校卒業後の進路が周囲に知れ渡った後、何でと詰め寄ってくる沢村と降谷に、何度も何度も説明した。一応その場では納得するのに翌日になるとすっかり忘れたような顔で同じことを聞いてくるものだから、最後には面倒になったことを覚えている。少なからず慕ってくれている気持ちの表れなのだろうそれを、「いい加減にしろ!」と追い払いたくなってしまうほど何度も聞かれたのだ。
「……大学いって、卒業したら親父さんの仕事手伝って、ゆくゆくは御幸スチールっていう町工場の社長さんになるんスよね」
「覚えてんじゃねーか」
あれだけ何度も話したのだから、いくらバカでも覚えていてもらわないと困る。感心感心と笑ってやった。
沢村は低い声でゆっくりと聞いてくる。
「それが、御幸センパイの夢ですか?」
違うでしょう、と責めるように。
あの頃は、高校を卒業した時には、こんな未来が来るなんて夢にも思わなかった。
「夢とかじゃなくて。現実だろ」
一番好きなことはできなくなるけれど、四年間真面目に勉強して、それなりに大学生活と一人暮らしを満喫して、卒業して、自宅に戻る。休みは殆どなくなるだろうが、今度は幼い頃見ていた父親の背中を追い掛けて、一生懸命働くのだと。
「本当にもう野球はやらないんスか」
「ああ」
再度の問い掛けに短く答える。
ダメになったのは大好きだった野球を避けている自分に気付いた時?それとも、偶然会ってしまった哲さんから、クリス先輩と沢村のことを聞かされた時?
「アンタは、野球するために生まれてきたんだと思ってた。他には何にもないんだって」
「なら今は死んでるようなもんだな」
「生きろよ!」
「生きてるだろ」
そういうことじゃなくて、と沢村が噛み付いた。
悲しそうな、悔しそうな表情で。
「アンタがなんであんなところにいたのか、俺は聞く気ないっスけど」
そこまで言って一旦言葉を切ってから、沢村は視線を落としてぽつりと零す。
「御幸センパイ、前はもっと楽しそうだった」
「そうか?」
「そうだよ!アンタがそんなんじゃほっとけねーよ。クリス先輩だってぜってーそう思ってる!」
キッと睨みつけてくる瞳の強さに、俺は僅かにたじろいだ。
「なんでそんな笑い方しかしねぇの」
なんで変わってしまったんだと聞く。ムカつかないアンタなんか嫌だ、とよく分からないことを言う。
適当なことを言ってはぐらかすつもりだった。
適当な言葉が浮かばない。
嘘ばかりついてきたはずなのに、本当のことしか出てこない。
「……なんでって、まぁ……失恋したからかな」
「しつれん」
言葉の意味が分からないというように、たどたどしく沢村が繰り返した。
「そ。失恋」
いざ口に出してみると滑稽だ。お前に負けたんだよ、なんて思うと更に滑稽だ。笑える。
そういえば笑い方が気に食わないと言われたんだったか。
沢村は暫く何か考え込むそぶりを見せた後、打って変わっておずおずと切り出した。
「……あのさ、もしかして」
どうせコイツのことだから、見当違いのことを言い出すんだろうと思っていた。
アンタも若菜が好きだったのか、とか、もしかして俺が好きなのか、とか。そうだよと言ってやってもいい。
「アンタもクリス先輩のことが好きだった、とか?」
まさか図星を突かれるなんて思わないじゃないか。
「……ちがう」
どうにか否定を吐き出すと、沢村が安心したような顔をする。
ちがうよ。そういう意味じゃない。
「今でも好きだ」
丸く綺麗な二つの瞳が、更に大きく見開かれた。
「別に譲ってくれなんて言わねーよ。もう会わねーし、帰るから」
余計なことを言ってしまったとは思うが、さすがにこれで帰してくれるだろう。
「クリス先輩には内緒な」
一応最後に付け加えてみた。
言葉を失ったままの沢村に背を向け、静かにドアを開けて短い廊下に出る。換気のために開け放したままの、沢村の部屋、彼の部屋。二度と立つことはないキッチン。冷蔵庫の中に残した料理なんて捨ててしまいたくなったけれど、戻る気にもなれず靴を履く。
「待てよ!」
沢村が追い掛けてきた。誰が待つか。一歩外へ出た。それ以上前へ進めない。
今度は伸びそうなほど服を掴まれている。
「帰っていいですからケータイ貸してください!」
「はあ?」
「すぐ返しますんで」
了承なんて待たず両手をポケットに突っ込まれ、勝手にそれを奪われた。
「ちょ、おい」
自分の携帯電話も取り出して、物凄い勢いで何やら打ち込んでいる。もう好きにしてくれと、俺は諦めて傍観する。
1分と掛からずに突き返された。
「俺の番号登録したからな!消したり変えたりしたら許さねーからな!もう会わないなんて言うなよ!それから、」
断ち切るようにドアを閉める直前、「ごめん」と聞こえた。泣いていそうな声だった。
俺がここから去った後、アイツは子供みたいにわんわん泣くんだろう。分かっていても、立ち止まる気などなかった。
謝らなきゃならないのは俺の方だ。
就寝前に何気なく携帯を見ると、メールが届いているようだった。早く読めと言いたげに、しつこくチカチカと光っている。
『夕飯うまかったっす!ごちそーさんでした!なんで御幸を逃がしたんだってクリス先輩に怒られました あんたのせいだからな!』
沢村からだった。あの短時間でメールアドレスまで登録していたらしい。慌てていたせいか名前が全て平仮名だ。
さわむらえいじゅんからのメール。文面までバカっぽく見えてくる。
『けど 御幸先輩が話してくれたことは クリス先輩にも誰にも言いません 男と男の約束ですから 絶対に口を割ったりしません お前ら本当に仲がいいなだとか俺の方が先に会ったのにだとか言ってご機嫌を損ねた師匠がちっちゃかった頃のあんたの可愛さを自慢し始めましたが それでも言いません 俺もちっちゃい御幸先輩見たかった!
そもそも俺と御幸先輩ってぜんぜん仲良くないっすよね?どうせあんたはメールに返事なんかくれねーし!俺が電話しても無視するんだ!それくらい俺にはお見通しなんすよ!
夕飯 クリス先輩もすごくうまいって言ってました ずっとうちにいればいいのにって 俺もそう思います ひどいこと言ってるのは分かってますけど やっぱり今のあんたを一人にしておくのは……』
その後も文章はだらだらと続いていたが、何となく読む気が失せてしまった。
思い付くままに打ったようなこのメールは、一体どんな返信を求めているんだろう。
――だから俺はペットじゃねぇんだって。
拾われたところで家族にはなれない。あの場所にいたって俺は独りだ。
別に腹は立たなかった。ただひたすらに呆れている。
愛おしきバカからのメールを消した。電話番号もアドレスも消した。
携帯電話は明日にでも買い替えよう。
2015.3.18
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