朝になったら
もしも、御幸がいなくなったら。
いつか、いなくなったとしても。
そんな話をした夜が明けた。
揃って外泊した翌日、一応時間をずらしつつ、昼過ぎに寮へと帰ってきた。先に行かせた彼は早速一年投手達に捕まったらしく、5号室前で「受けろ」「受けない」のじゃれ合いになっている。すっかり見慣れた光景だ。
いつも通りの沢村と降谷。いつも通りの御幸。
クリスは階段の前で足を止めてそれを見ている。
じきに一人分の靴音が下りてきて、「早かったじゃん」と言いながら隣に並ぶ。
「で、相変わらずなんだ」
珍しく面白がるでもなく、気の毒そうにすら聞こえる亮介の問い掛けを、溜め息混じりで肯定した。
「ああ。相変わらずだ」
どこから何を察しての「で」なんだと思ったりもしたが、恋人と外泊したにしては、晴れない顔でいる自覚はある。
御幸とは相変わらずだった。他に答えようがない。
相変わらず弱音の一つも零してもらえないし、全く頼ってもらえないし、彼が稀に見せる歪な甘え方に、苛立ったり惑ったりさせられっ放しだ。
だからと言ってクリスが特別沈んでいるという訳でもなく、とりあえず仕方がないと諦めている。
たぶん、何もかもを分かっていたいと思い過ぎるからこそ、何も分からなくなってしまうんだろう。
御幸からの告白を受けた後、衝動のままに彼を抱きしめてしまったクリスは、「俺も好きだ」とはっきり伝えた、はずだった。記憶にはそう残っている。パラパラと雨が降り出して、慌てて校舎へ戻ったことまで鮮明に覚えている。
お互い相手の気持ちに全く気付かず片想いを続けていたことが分かり、晴れて恋人同士になった。亮介にも二人で揃って報告に行ったし、盛大に照れていた御幸が逃げ出そうとしたり、クリスの後ろに隠れようとするのが可愛かった。だから、恋人同士になったことは確かだ。
それでも、何か間違えたのかもしれない、という思いが拭えない。その何かを強いて挙げるなら、「好きだ」と告げるより先に抱きしめてしまったことだろうか。
――たったそれだけのことで?
御幸の思考回路や行動は時々理解に苦しむし、ようするに二人の関係はあまり上手くいっていない。一つどころではなく三つくらいボタンを掛け違えているような気がする。
例えば二人きりで過ごせる僅かな時間に、いきなり後ろから抱き着かれたことがある。
ふざけたふりで「びっくりしました?」などと楽しげに笑ってはいるが、御幸が本当に参っている時だけ、こういうことをするのだと知っていた。
背中にへばりつかれても抱き返せない。顔も見えない。
「どうした?」と聞いてみても、「好きです」以外のことは言わないのだ。
「好きです」
「……ああ」
「好きです」
「……ああ」
クリスは何もできないことに焦れていて、どうすれば彼の心を軽くできるのか考えていて、「俺も好きだ」とだけ言えばよかったのだということは、御幸が自室へ戻ってから思い出す。
初めて触れるだけのキスをした時、御幸は初々しく頬を真っ赤に染めて、それから幸せそうにふにゃりと笑った。思わずもう一度唇に触れて舌を捩込んで絡めたくなるくらいの可愛さだった。というか実際にやった。
御幸は、はふはふ息を切らせて、「こういうのやめてください」と言った。
「……嫌なのか?」
「そうじゃなくて……幸せすぎて死んじゃったらどうするんですか」
本気で困っていた。涙目だった。
「もうすぐ秋大本戦始まるのに」
野球馬鹿らしい困り方ではあったが。
その時、同室者である増子が部屋に戻ってこなければ、ベッドへ押し倒していたと思う。
正面から抱き着いてくることはできず、触れようとすればヒラリと逃げ、キスには困り切っていた癖に、「抱いてください」と言ってきたのは御幸の方だった。
初めて御幸を抱いた時。これは明らかにおかしかった。
「ちゃんと慣らしておいたんで、すぐ挿れちゃって平気ですよ」
同室の後輩が友人のところに泊まるからと、彼の部屋へ呼ばれた夜、いきなりそんなことを言われたクリスは唖然とした。
そもそも挿入までするつもりはなかったのだ。
はじめからそこまでしなくてもいいだろう、と言った。なら何をするんですか、と返された。
「だって俺、男ですよ。おっぱいとか何にもないんですよ。突っ込む以外に何するんですか」
御幸はきょとんとした顔で言い放って、するりと自らズボンを下ろして、クリス自身にも手を伸ばしてくる。下着に潜り込んできた彼の手の中で、それは質量を増していく。
ああ、噛み合っていないなと、思った。無力感に囚われるくらい噛み合っていない。
御幸は、いきなり挿れられるようなセックスをした経験があるのか。それとも無知すぎるだけなのか。クリスはそれを問う代わりに、彼のTシャツを引き上げた。
「だから、何にもありませんって」
綺麗に割れた腹筋を撫でてみると、御幸が擽ったそうに笑う。掌を下肢の方へ滑らせる。
やんわりとそれを退けられた。
「ほら、ホントにすぐ入りますから……ね?」
御幸が躊躇なく足を開いて、唾液で濡らした指を体内に沈ませる。一本、二本、三本。抜き差ししてみせながら「はやく」と言う。そこは体液でない何かで濡れていて、指が動くたびにくちゅくちゅと水音が聞こえる。
野球しかやってこなかったのだ。こんな状況に耐性なんてあるはずがなかった。
あの時、止められずに流されてしまったのが、一番の過ちだったのかもしれない。
久しぶりのオフの前日。御幸はクリスの実家にいる。
目が合ったような気がしたけれど、そこにあるのは焦点の合わないぼんやりとした瞳で、こちらを見ているようで見ていない。
眼鏡を外していることだけが原因ではないはずだ。
「クリス先輩」と、御幸が口を開いた。
剥き出しの肩に吐息が当たる。汗は既に引いている。
汚れたシーツを交換し終えたところで面倒になってしまった。クリス以上に面倒がった御幸が「いいじゃないですか、裸で寝ても」などとのたまうので、なんとか下着は穿かせたが、二人分のジャージは床に散ったままだ。綺麗に片付けた自室の中でそこだけが浮いている。ベッドサイドの明かりだけを点して背中を向けた。
こんなことをするつもりで、無人になる家へ誘った訳ではなかった。落ち着いて話をしたかったのに、いつの間にか流されていた。またもや抗えずに流されて抱いてしまった。何かはぐらかされているような、ごまかされているような気がしてならない。
相変わらずあまり触れさせてはくれないが、それなりに甘ったるい時間を過ごした後で、睦言みたいにとろとろと御幸は言う。
「クリス先輩は、俺がいなくなっても泣かないですよね」
「……は……?」
何を言われたのか理解するよりも先に声が出た。
「俺が死んでも平気ですよね」
質問ではなく断定だ。言葉とはちぐはぐに擦り寄ってくる御幸を、引き剥がしてベッドから追い出しても許されると思った。好きだと告げて身体まで繋げているのにその言い様はなんだ。
「俺なんかのことで取り乱してるクリス先輩なんて、想像もできませんし」
心底可笑しそうに御幸が笑う。その表情はいつもより柔らかく、幼い。半分眠りかけているのかもしれなかった。きっと頭に浮かんだことをそのまま話しているだけだ。だからこそ本音なのだと分かってしまう。
平気な訳ないだろう、と思ったが、それを言ってやる気にはなれなかった。
お前はどうなんだ、とクリスは聞いた。
「俺?俺はダメですよ。俺の中には野球とクリス先輩しかないんで。誰もいなくなっちゃいます」
「野球だけでいいんじゃないか?」
突き放すように言う。駄々っ子のように御幸が答える。
「クリス先輩がいないと嫌です」
どうしてだろう。ちっとも嬉しくない。こんな話はしたくなかった。
けれど、御幸は尚も言う。
「ダメになるって言ってみてくれません?もちろん嘘でいいですから」
さらりとした前髪を掻き上げて額に触れた。あんまりおかしなことばかり言うものだから、熱でもあるのかと思ったのだ。むしろクリスの掌の方が熱い。
「……何か、あったのか?」
「いいえ?」
「眠いのか?」
「……そうかもしれません」
呟くようにそう答えて、肩の辺りに頭を押し付ける。
珍しく御幸が甘えてきているらしいことは分かった。言っていることは全く可愛くないが。
「クリス先輩だけいてくれれば、それでいいんです」
今度こそ睦言であるはずのそれを、酷く冷めた思いで聞いていた。
クリスだけいればいいなんて、本気で思っているはずないだろう。何せ二人ではキャッチボールしかできない。キャッチャーが二人でいても仕方がない。
薄っぺらい嘘に気付きながら、気付かなかったふりをした。
「……俺も、御幸だけいればいいな」
「ははっ……ありがとうございます」
投げ返された嘘を泣きそうな声で受け止める。それでも御幸はこの嘘を、大切にしまい込むんだろうなと、思った。
ゆるゆると顔を上げて、笑う。
「クリス先輩、大好きです」
そう言ったきり御幸は目を閉じてしまった。
眠っているような穏やかな呼吸。まだ起きていることは知っている。
ここでクリスが何を言っても、どうせ嘘にされるのだ。
「……おやすみ」
同じ言葉など絶対に返してやるものか。
大好き、と告げてくれる時のあの笑顔が、愛おしくて堪らないことも言わない。
――もしも、御幸がいなくなっても……
眠り損なったクリスはつらつらと考える。
野球はやめない。肩を壊しても再びプレイヤーとして立つことを諦められなかったのだから、やめられるはずがない。誰よりも大切な人を失ったくらいで。
運動をすれば腹が減る。疲れて眠くなる。端から見れば平気そうに見えるだろう。時が経てば永遠の喪失だって受け入れることができる。
――御幸、お前もそうじゃないのか。
平気そうだったじゃないか。
クリスがいなくなったグラウンドに立つ彼は、いつでも強気に笑っていた。生き生きとしていて、楽しそうだった。
――俺がいなくなっても平気なのはお前だろう。
クリスはそろりと手を伸ばして、温かな頬に触れてみる。あどけない顔を無防備に曝して、御幸が寝息を立てている。
お互い、恋よりも遥かに大切な物を抱えている以上、恋を失っても何事もなかったように生きていく自分というものが、たやすく想像できるのは仕方がない。仕方がないけれど。
何も変わらず生きていく未来を思うと、どうしようもなく寂しくなる。
御幸もこんな心許ない思いを抱えて、“もしも”の話をしたのだろうか。
いつ頃眠ったのか全く記憶になかったが、起きた時には御幸がいなかった。時計を確認する。まだ5時だった。
御幸はどこだ。先に寮へ帰ったのか、それとも。
『クリス先輩は、俺がいなくなっても……』
布団を跳ね退けて飛び起きた。
昨晩の会話は失踪の前触れか?まさか。
うろうろと視線をさ迷わせても、この部屋の中にいないことだけは判っている。
――落ち着け。
散らかっていたはずの床には、一人分のジャージが畳んで置いてある。あまり綺麗とは言えない畳み方のそれを、慌ただしく身につけて廊下に出た。
途端、漂う香りに食欲をそそられ、立っていられなくなりそうなほど一気に体中の力が抜けた。
「御幸」
キッチンに立っていた彼が、顔だけこちらに向けて答える。
「あ、おはよーございます」
いっそ腹立たしいほどに、いつも通りの御幸だった。
「……どうして起こさなかったんだ」
「すいません。できてから起こせばいいかと思って。それに」
そこまで言うとガスコンロの方に向き直り、昨日言いましたよね、と続ける。
「何を」
眠る前に話したことかと身構えたクリスを余所に、
「朝メシ俺が作りますよって」
御幸はあっけらかんと言い放って、片手鍋の中味を掬い上げた。
「……そうだったな」
確かに、キッチンは好きに使っていいとも言った。
「忘れるなんてらしくないっスね」
誰のせいだ。
恨みがましく睨まれていることにも気付かず、火を止めた彼が豆腐と葱とワカメの味噌汁をお椀によそい、ダイニングルームに運んでいく。
煮物やおひたし等のおかずも運ぶ。何時から起き出して作っていたんだか。
テーブルに用意された温かな朝食を見る。彼に愛されているのだと、痛い程に伝わってくる。
――それだけ分かっていれば十分じゃないか。
「……御幸、もしもお前がいなくなったら、見つかるまで捜すつもりだが」
白米の盛られたどんぶりを運んでいた御幸が、ピタリと立ち止まってクリスを見た。その目を睨むように見返して告げる。
「できればいなくならないでほしい」
答えが返るまで僅かな間が空いた。
「いなくなったりしませんよ」
なに言ってんですかと笑う御幸は、昨晩のことを覚えていないのか、とぼけているだけなのか分からなかった。
2015.4.9
back