最初はただの、風邪だと思った。さすがの蘭も、「お医者さんへ行く?」なんて言い出さないくらいに些細な。
この身体になってから風邪ばかりひいている、ような気がしていた。免疫力が低下してしまったせいだろう。たぶん。
中学の頃まではサッカーもやっていたが、元からものすごく身体が丈夫、という訳でもないのだ。
小学生の子供が、中学の頃はなどと違和感なく振り返ってしまえること。それは絶対にありえないことで、それでも自分にとっては確かに過去なのだから。この身体になって随分経った今でも、時々口を滑らせては灰原に呆れられている。
精一杯小学生を演じなければならない授業中の教室で、こうやって取り留めのないことばかりをうつらうつらと考えてしまうのはきっと下がらない微熱のせいだ。
「コホッ…コホッ」
それから、体力を奪うしつこい咳。
「…コホッ」
昨日からずっとこの調子だから、いい加減喉が痛かった。
まぁ、こんな授業なんて全て聞き流していても別段支障はない。突然当てられてもすらすらと淀みなく正解を述べられる自信がある。
ちらりと見た先の灰原だって、堂々と女性向け雑誌を読み耽っているではないか。
第一、平仮名ばかりが並ぶ教科書に目を落としたが最後、間違いなく目眩が酷くなる。
授業の声へ意識を傾けた途端、くらくらとしてきた頭に、大きく響いた救いのチャイムですら頭痛を酷くした。
一日が終わった開放感によるざわめきは、ぐわんと耳鳴りで歪んでいく。
目眩と貧血にはもううんざりだった。
「コナンくん、早く帰ろ!」
やがて聞こえてきた歩美の声が、まともな意味を持って聞こえて本当によかった。
「風邪、なかなか治らないね…」
コナンくんと遊べなくてつまんなーい。
歩きながらの不満げな台詞には苦笑いで返して、マスク越しでは意味がないと笑みを象った後に気付いた。
学校を休むほど重症でもない、軽い風邪の症状が続くこと早一ヶ月近く。
「おまえしょっちゅう風邪ひいてるよな」
「生活習慣や食生活に、何か問題があるんじゃないでしょうか」
「江戸川くんの場合、度重なる夜更かしが原因だと思うけれど?」
探偵団の面々から口々に言われて閉口する。
特に灰原の指摘は厭味だろう。昨日から隣の洋館へ泊まり込んでいることに対しての。勿論、表向きには『博士のところに泊まる』ことになっているのだが。
「夜更かしっていやぁ、昨日の夜の試合見たかよ?」
「見ました!すごい接戦でしたよね」
「えぇーっ!?歩美見てなーい!」
元太の一言で話題が変わったことにホッとして、止まらない咳をまたコホコホと零した。
「読書も程々にしないとそろそろ倒れるわよ」
一旦は忘れられたかに見えた話題がまた振り返されたのは、歩美たちと別れた後だった。
「仕方ねーだろ。あそこにいるとおっちゃんや蘭に怒られて読めねーんだよ」
風邪っぴきは本なんか読んでねーでさっさと寝ろってな。
せっかく読みたい本がたまっているのに、治るまでお預けなんて冗談じゃない。
「無駄なのは分かっているからうるさくは言わないわ。でも、気が済んだら帰るなり、こっちへ来るなりしなさいよ?」
工藤くん、顔色悪いの分かってる?
「寝不足だからだろ」
いつになく厳しい灰原の言葉から、のらりくらりと逃れているうちに洋館の前へ着いた。
思う存分本を読める至福の時間が始まるというのに大きな溜め息が零れたのは、門の前に快斗が立っていたからだ。
「風邪ひいたコナンを一人にしておけないからね」
当然の権利、という顔で俺の後をついて入ってきた快斗が言う。
「…灰原から聞いたんだろ」
こっちにいること。
こんな時だけ結託するなんてとうんざりした。
「心配なんだもん。どうせコナンは、風邪も寝食も忘れて読み耽るんだから」
「ついでにお前も忘れてな」
「…相変わらず冷たいよ名探偵」
懐いてこようとした快斗を追い払う。
「あんま近寄んな。移るぞ?」
こうやって話しながらも咳が、止まらないのに。
息苦しいから、マスクはさっき外してしまった。
「俺の方が丈夫だから平気」
快斗は、離れる様子もなくにっこり笑う。
「近々予告、出すんだろ。俺の、コホッ…風邪が移ったせいで失敗したとか言いやがったら…っ…う…」
承知しねぇ、と言うつもりだった。
「っ!コナン…!?」
突然息もできないほどの咳の奔流が襲ってきて、身体を丸めてうずくまる。
慌てて隣に膝をついた、快斗を遠ざける余裕もない。
「…ゴホッゴホッ、ゴホッ」
痛む喉に酷く痰が絡んで、
「う…ぐ…っ…」
手渡されたタオルに吐き出したものは、鮮やかにただ赤かった。
「…え……」
呆然とした快斗の眼差しを受けて、ポタポタと滴る赤が白いシャツを汚す。
喉が焼け付くように痛い。咳も止まらない。
それでも、声くらいなら何とか聞こえる。
「救急車、…」
みっともないほどに狼狽してそんなことを口走った快斗の腕を、
「っ…んなもん、ゴホッ…呼ぶな、」
血に汚れていない方の手の平でかろうじて掴んだ。
「…っ。いらねーよ」
「だっておまえ、血…」
「ゴホ…ッ、咳のし過ぎで喉が…切れた、んだよ…っ」
吐血なら血はもっと黒くなる。
「わかった、とりあえずもう喋らないで」
背中をさする手の平が震えていた。
なかなか止まらない咳の苦しさから熱が上がるのに反して、快斗の顔は何処までも青ざめていった。
それは、永遠に思えるほど長い数分間だった。
「…はぁ……」
何とかしつこい咳を止めて、二人同時に息を吐く。安堵の息まで震えていたから、いっそ目の前の男の健康状態の方が心配になった。
「大丈夫か…?」
ずいぶん至近距離にあった顔は、呆気に取られた後、ぐしゃりと歪む。
「そんなこと、俺に言ってる場合じゃないだろっ!?」
快斗が同じ問いを返してこなかったということは、聞くまでもないと思われている訳で。
「病院…の前に哀ちゃんだな。…どうする?」
「行かなくていい。たかが風邪で大袈裟なんだよ」
「コナン、一応言っておくけどさ」
睨みつけられているのに、泣くのかと思った。
「行くか行かないかは聞いてないから。お前に与えられた選択肢はふたつ。今からおとなしくお隣りへ行くか、眠らされて無理矢理連れて行かれるか。どっちがいい?早く選んで」
選べと言いつつも快斗の手には、何やら怪しげなスプレーが握られている。意識のない状態で連れて行かれて、あることないこと話されては堪らない。
「…ちゃんと行くよ」
抵抗することもなくそう告げたのに快斗は、まだ硬い表情で俺を見ていた。
「着替えてくるからそこで待ってろ」
こんな格好じゃ外出れねーし。
思わず背中を向けてしまった。
お前に、隠していることがあると告げたなら、快斗はどんな顔をして怒るだろうか。
最初はただの、風邪だと思った。
裏を返せば、風邪だと思っていたのは最初だけ。
あとは気付かない振りをしていた。人に移る訳でもないし。風邪のウイルスくらいなら、マスクでなんとかなるだろうと。
病院へ閉じ込められる訳にはいかなかった。
そんなことになったら、どうやって組織を追えばいい?どうやって大切な人たちを守ればいい?
2010.9.7
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