神出鬼没と称される男をもう一人知っていた。
彼が現れるたび呆れ半分で思い浮かべた言葉だ。
驚きはしても畏れるべき存在ではなかったから、「勝手に入ってくるな」などと、眉を寄せて言ってやることができた。
しかし神出鬼没とは、よくよく考えれば不気味な現象を差す言葉だったことを、俺は今更思い知る。
突然現れるような人間など、あの男以外に知らなかったのだ。
「だれ…?」
顔を強張らせながら、硬い声で聞いた。
真夜中に、ふと目が覚めたら知らない男が自分を見下ろしていた。それは紛れもない恐怖だった。
たぶん男だろう。全身に黒を纏い、頭部に巻いた黒い布を夜風に揺らし、両目と額だけが赤い光を発している。
異様で、不気味。
胸がざわつくような、不快感。
黒い服を着た怪しい人物。
まさか、奴らの仲間なのか…?
隣で小五郎は鼾をかいて眠っている。
男が低く笑い声を漏らした。
「私はスパイダー」
腕時計を探した。身につけていたはずなのに見当たらない。
とっさに小五郎の前へ立ち塞がる。こんな身体で守ることができるとは思わないけれど。
「お前以外に手を出すつもりはない」
唯一マスクに隠れていない、男の口元が緩い弧を描く。
「ついてきてもらおう」
クドウ シンイチ
ひゅっと息を呑んだ。
ここで表情を変えてしまったら認めたようなものだ。
解っていながら凍り付いた。
楽しくて堪らないというように、スパイダーは再び暗く笑った。
「Welcome to my great illusion…」
三つの赤い光が回転する。惑わすように薄闇に光る。
「ようこそ…お前の悪夢へ…」
あの光を見てはいけない。
そう思った時には最早手遅れで。
視界が黒く塗り潰される。
男の笑い声だけが、頭の中で響き続けた。
ぼんやりと霞んでいく意識の中、俺は散漫に考える。
――スパイダー
どこかで、聞いたことのある声だ。
『コナンちゃんってさぁ…』
何も見えない暗闇の中で、快斗の声が再生される。
『怖い夢とか見る?』
夢の話をする夢を見ていた。
「見たのか?」
『……うん』
いつかの朝の記憶だ。
彼からの電話に起こされた。怖い夢を見たのだと。
『サ……の大群に襲われる夢』
「…く…っ」
思わず吹き出してしまった。
『笑うなよ!』
電話の向こうから拗ねた声が返る。
『マジで恐かったんだからな!』
それは恐いだろう。魚に襲われる夢なんて。遭遇しただけでも泣いて逃げ出しそうなのに。
「悪ぃ悪ぃ」
笑いながら言う。快斗はまだ拗ねている。
その様子が可笑しくて笑い続けていると、
「…あのさ」
真面目な声になった快斗が唐突に問い掛けた。
『コナンちゃんにとっての悪夢って、なに?』
あの日、こんな会話をしただろうか。
笑っていたら蘭に呼ばれて、
「朝食、焼き魚だってさ」
『……今日はコナンちゃんにキスできる気がしない…』
「っ、しなくていい!」
勢いよく電話を切ってしまったような気がする。
これは回想でなく夢なのだから、どんな展開になってもおかしくはないけれど。
そんなことを思いながら口を開く。
「俺は………
呑気に眠っている場合じゃない。
今すぐ、起きないと。大切な人たちを守らないと。
…誰から……?
『私はスパイダー』
どこかで聞いた。
頭が、痛い。
「…そういえば」
ひとつ、ふたつ、みっつ。
ランドセルがカタカタと揺れる。
「知ってますか?ギュンター・フォン・ゴールドバーグ!」
興奮気味な、光彦の声。
「牛タン?」
相変わらず何を聞いても食べ物のことばかり連想してしまう元太と。
「知ってる!テレビで見たよ!その人のショーへ行くと、天使になって飛んだりできるんだよね」
弾んだ声で答える歩美。
「何だよそれ!すげーじゃん!」
脈絡のない夢ばかり見ている。
これもまた何週間か前の記憶、小学校からの帰り道だった。
「ギュンター・フォン・ゴールドバーグ2世…世界最高峰のイリュージョニストね」
灰原の淡々とした説明が続く。
「イリュージョニスト?」
会話の内容は忠実に再現されているのに、風景を認識することができない。靄の中を歩いているようだった。
「集団催眠で観客に幻を見せるらしいぜ」
そして、決められた通りに俺も口を開く。
「催眠術と最先端のデジタル技術を使ってんじゃねぇかって…見に行った快斗、兄ちゃんは言ってたな」
憶測ということはつまり見破れなかったんだな、とからかった。次こそ絶対にと彼は息巻いた。
快斗の口からイリュージョニストの名を聞いたのはあの日が最後だ。それには何か理由があるのだろうか。
「快斗お兄さん見に行ったんだ!」
「羨ましいですね」
「俺はやっぱ牛タンよりうな重だな!」
「だから牛タンじゃなくてギュンターですよ、元太くん」
「そうだっけ?」
光彦と歩美の笑い声が響いて、そのまま姿は靄の中に消える。
「集団催眠なんて気味が悪いわね…操られているようなものでしょう?」
夢はまだ続いている。
灰原と並んで歩いている。
「あぁ。悪用したらとんでもないことになるだろうぜ」
「まぁ、とことん現実主義の貴方は、幻影術になんてかからないでしょうけど」
「かかるどころか、暴いてやるに決まってんだろ」
幻影なんてくだらないと、挑戦的な笑みを浮かべる。
第三者の目で傍観を続ける、もう一人の自分が夢の中にいる。
会話の内容を吟味して、こんな夢を見る理由を考察して、
――そうか。
気付く。
スパイダーの声に聞き覚えがあると思ったのは、何度かニュースで耳にした声と同じだったからだ。
「手強い…」
再生されているシーンには、含まれなかった声が不意に割り込んで。
ハッとした瞬間、目が覚めた。
「……っ!?」
見開いた目が白い光に焼かれる。
纏められた両腕は麻痺したように動かない。
素足が宙を蹴って揺れた。
「もっと弱らせる必要があるか…」
睡眠薬でも使われたのか、朦朧とした頭で記憶を探る。
逆光の中に立っているのは、先程スパイダーと名乗った男だ。
…それから?
ここは何処だ?
この男に俺は攫われた?
眩しくて目を開けていることができない。瞬きを繰り返す瞼まで重かった。
「三日だ」
と男は言った。
「三日後、お前はただの人形になる」
何を言われたのか解らなかった。
受け入れたくなかったのかもしれない。
まるで操り人形のように、無数の糸で吊り上げられている現実など。
「……お前の目的は何だ」
発した声は掠れていた。
喉がカラカラに渇いている。
「スパイダー、いや、GUNTER VON GOLDBERG…」
確信を持って、そう告げる。
致命的に音痴であることを知る連中には不思議がられるが、これでも耳には自信があるのだ。
暗闇を背に立つ男の唇が、にい、と吊り上がってまた哄笑が零れた。
2013.1.8
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