ことの起こりは、夏休みも間近の七月中旬。
快斗の海外出張宣言から全てが始まった。
曰く。

「俺ちょっとシンガポールに行ってくる」
「へぇ……っは?!」

まるでコンビニに行ってくる、というように軽い口調だったから、思わず聞き流してしまいそうになった。

「今から?!」
「まさか。夏休みに入ったらだよ。二週間くらいはかかるかな」
「…ふぅん」

今からではないというのなら、別に驚くような話じゃない。
再び本に目を落としながら生返事を返した。

「反応それだけなの?理由とか聞かないの?」

不満げな快斗が寄ってきて、本に影を落とす。

「どーせキッド絡みだろ。聞くまでもねぇよ」
「当たり。今回を逃したらもう二度とお目に掛かれなそうな宝石だし、日本に来ることもなさそうだし。学校もないから丁度いいかなって」
「けど、ずいぶん急じゃねーか?夏休みまであと一週間もないだろ」
「いや、けっこう前から決めてたんだけど。コナンちゃんが寂しがると思ったらさ。言い辛くて」
「バーロ。たかが二週間で寂しがる奴がいるか」

呆れ声で告げれば、快斗は「やっぱり」と零して肩を落とした。

「…ホントは、全く寂しがってくれない気がして、言うのが怖かったんだ…」






「黒羽くんって、確か昨日の夜、日本を出たんでしょう?」
「あぁ、たぶんな」

夏休み初日のラジオ体操帰り。
隣を歩く灰原の問い掛けに、欠伸混じりで答える。

「あら、行かなかったの?怪盗さんのお見送り」
「探偵が、泥棒しに行く奴をわざわざ送り出してどうすんだよ」

予告状は、犯行日が近付いてから出すのだろう。まだ今朝の新聞にキッドの記事は載っていなかった。

「彼のこと、心配じゃないのかしら?」
「…アイツは、捕まるようなヘマはしないだろ」

自分へ言い聞かせるように、そう言った。


「あ、灰原」

そして、前を行く元太たちが十分離れていることを確認してから、言葉を続ける。

「一応頼んでおきたいんだけど、いいか?」
「何よ?」

俺が真剣な口調で言うと、灰原も少し声を潜めた。

「もしも快斗がいない間に俺に何かあってもさ。絶対アイツには連絡しないでほしいんだ」
「貴方が死亡した場合でも?」

灰原は、冗談とも本気ともつかない口調で縁起でもないことを尋ねてくる。
まぁ、普段の事件遭遇率の高さからして、有り得ない話でもないのだが。

「その場合は尚更、連絡する必要なんてないだろ?」

急いで帰ってきたところで、死んでることに変わりはないんだし。

「貴方ね…」

灰原が何か言いたそうな顔をして口を開いたが、結局諦めたようにため息をついた。

「わかったわ。博士にもそう伝えておくから」

私まで死んでしまった場合に備えて、ね。

「おいおい、そんな簡単に死ぬ訳ないだろ…」

そう返しながら、快斗を想って少し不安になる。
俺も灰原も怪盗キッドも、一般人より遥かに死と近い場所に立っていると思う。
まして今回キッドが犯行場所に選んだのは外国なのだ。何が起きるか分からない。
たぶんキッドなら大丈夫だとは思う。けれど、俺のせいで動揺させて仕事の邪魔をすることになるのは絶対に嫌なのだ。

何もなければいいが、と最後まで見送りをせがんで膨れていた恋人の無事を、ひそかに祈った。





喉の渇きを覚えて、熱気の篭った部屋を出る。
パタンと冷蔵庫を開けたところで、足音と呼出し音が近付いてきた。

「コナンくん、電話だよー!」

足音の主は歩美で、わざわざ着信を告げる携帯電話を持ってきてくれたらしい。

「サンキュ」

そういえばテレビの前に置きっぱなしだった。
軽く礼を言って画面を確認する。
表示されている番号は蘭のものだが…

「もしもし…?」
『ちょっとコナン君、いつになったら帰ってくるの?!ハンバーグすっかり冷めちゃったよ?』

途端聞こえてきたのは、蘭の少し不機嫌そうな声。
慌てて時計を確認すると、とうに八時を回っていた。
そういえば今日は「夕ご飯までに帰ってきてね!」と言われていたような…

「ごめんなさい、すぐ帰る!」

長々と電話を続ければ小言が降ってくるのは分かりきっていたから、勢いよく謝って通話終了。
そのままバタバタと玄関へ向かう。

「えーっ、コナンくん帰っちゃうの?!」

歩美の残念そうな声が追い掛けてきた。

「泊まっていかないんですか?」

その声が聞こえたのか、テレビゲームに興じていた部屋からも光彦たちが顔を出す。
今日は、午後から博士の家に集まってゲームをやっている。元太たちはこのままここに泊まるつもりらしい。

「最近ずっとこっちにいるから、今日こそ帰ってこいって蘭姉ちゃんに言われてんだ」

夏休みに入ってもう五日になる。
結局少年探偵団の面々とは、学校もないのに毎日顔を合わせていた。毎日プールやら海やら山やらに引っ張り出されていて、息つく暇もないくらいだ。
ヘトヘトになるまで引っ張り回されても何処か物足りないと感じるのは、快斗がいないせいでは断じてない、と信じたい。

夏休み初日からちょっとした事件に遭遇し、夜遅くまでかかったため博士のところへ泊まることにして…
帰ってこいと言われないのをいいことに、ずるずると泊まり続けていたら、とうとう今日の昼間に帰宅要請があった、という訳だ。

「相変わらず蘭さんには逆らえないのね」

灰原にクスリと笑われて、言い返す言葉もない。

「コナンくんがいないとつまんないー」
「いいじゃねーか。どうせコナン、ゲームは弱いしよ」
「悪かったな」

歩美はともかく、元太の率直な意見に少しだけムッとしたが。

「じゃーな」

そんなことを言いながらも、見送ろうと玄関までついてきた三人に軽く手を振った。

「明日は十時に公園集合ですよ」
「遅れんなよ」

掛けられた言葉に、またかよ、と思う。
わざわざ玄関まで出てきたのは、明日の予定を強制するため、だったらしい。

「おまえら、そんな毎日出掛けてて宿題とか大丈夫なのか?」

何とか予定を取り消せないものかと、聞いてみる。

「平気だよ。コナンくんに教えてもらうもん」

にっこりと笑った歩美の答えと。

「それに、より充実した絵日記をつけるためにも、毎日いろいろな場所へ出掛けることは重要だと思いますけど」

光彦の大仰な主張が返ってきた。

「…そーいやそんなのもあったな」

中身が高校二年の俺としては、ある意味一番苦労しそうな宿題だ。

「まだ書いてないの?明日歩美の見せてあげようか?」
「いや、いいよ。後でまとめて書くから」

絵日記を見せてもらっても、あまり参考にならないような気がする。
さっさと片付けようとは思うものの、今日はそんな気力など残っていないし。
毎日出掛けていて大丈夫じゃないのは俺かもしれない、という嫌な事実に気付いてしまった。

「とにかくあんまはしゃぎすぎるなよ。また明日な」

明日も付き合ってやるしかないかと、諦めて話を打ち切った。
これ以上だらだらしていると蘭に怒られる。

「またな!」
「バイバーイ!」

夜になっても気温が下がらない。ドアの向こう、湿度の高そうな空気に辟易する。
元太たちの元気のいい見送りを受けながら、俺は阿笠邸をあとにした。





「君、もしかして江戸川コナンくん?」

急にそんな問い掛けが降ってきたのは、阿笠邸を出て数メートルも行かない頃だった。

「…そう、だけど?」

やむなく急いでいた足を止めて振り返る。
時々キッド絡みで新聞に載ることはあるものの、名指しで声を掛けられるのは珍しい。
訝しく思いながら男の顔を見上げた。

年齢は三十代半ばくらいだろうか。何処にでもいそうなサラリーマン風の男だ。あまり特徴のない顔をしている。
親しげな笑みを浮かべてみせたその表情に透ける、憔悴したような影が気になった。

「確か毛利探偵事務所に居候しているんだよね」

何度か新聞で見たことがあるんだと男が言う。

「どうしても毛利探偵に相談したいことがあって来てみたんだが、この辺にはあまり詳しくなくて迷ってしまったんだ。出来れば道案内してくれないかな」

何だ依頼人か、と思う。こんな時間に訪ねてくるくらいだから、よもや浮気調査やペット捜し等の依頼ではないだろう。

「いいよ」

依頼内容に興味が湧いたため、俺は得意の作り笑いで了承の意を告げた。



「それで、どうしても相談したいことってどんなことなの?」

夜道を並んで歩きながら、無邪気さを装って尋ねてみる。

「いなくなってしまった息子を、捜し出してもらいたいと思ってね」
ちょうど君と同い年くらいなんだよ。

街灯で照らされたその顔は、奇妙に澱んだ表情をしていた。
心配とは、違う。
ただの人捜しではなさそうだと思った。

「ふぅん…」

小学生の、失踪事件か。
低学年なら家出の可能性は低いだろう。一番可能性が高いのは誘拐だが。
彼は子供相手にこれ以上事情を話す気はないようだし、聞く前からあれこれ考えても仕方がない。

そして、さっきから依頼内容と同じくらい気になっているのは、先ほどフヤマと名乗ったこの男のことだった。
毛利探偵にどうしても相談したいと言いつつ、道をちゃんと調べてこないのはおかしい。余程切羽詰まっていたのか、相当な方向音痴なのか、それとも他に何か理由があるのか。
それから、不自然な点はもうひとつ。
フヤマは鞄の類いを持たず、手ぶらだった。この辺に詳しくないということは、近くに住んではいないはずだ。
車を何処かに止めているのかもしれない。



「最近は随分物騒だからね。君も、こんな時間に一人で出歩くのはよくないよ」

コナンになってから飽きるほど聞かされたその台詞に、俺は思わず苦笑いを浮かべた。
確かに小学生にとっては“こんな時間”だが。なにぶん中身は高校生だ。そこらへんの感覚はいつまで経っても掴めない。


『中身が高校生なのはよーく分かってるんだけどさぁ…』

ことあるごとに繰り返された、快斗の小言を思い出す。

『お前は今、ものすごく狙われやすい子供なの!ホント危ないんだからちゃんと気を付けろよ』

一応は同い年の男からそんなことを言われる理不尽さに苛立ち、いつも聞き流していたけれど。

そうして、またもやここにはいない男のことを考えている自分に気付き、深い溜め息が零れた。
記憶を振り払うように軽くかぶりを振る。
たかが二週間会わなかったところで、ちっとも寂しくなんかない。
その言葉に嘘はなかったが。
毎日毎日懲りずにしつこく纏わり付かれて、ちょっとは離れてくれとすら思っていたのに。
急にいなくなられると、微かな喪失感を覚えてしまう。



「…私としては、有り難かったけれど」

半ば現実から離れていた頭に、独り言のような男の声が響く。
そのお陰で道案内をしてもらえたからかと、思考の片隅でぼんやり考えた。

すっかり己の思考に沈んでいなければ、もっと早く男の台詞が含むものに気付けたかもしれない。

俯きがちになっていた顔を上げて隣を歩いていたはずの男を見れば、その姿はいつの間にか消えていて、

「…?!」

背後に回り込まれたのだと、気付いた時には全てが遅かった。
口元に素早く押し当てられた、水気を含むハンカチが意識を奪う。
見咎める者は、誰もいなかった。



引き摺りこまれるように眠りに落ちながら己の不注意を悔やんだところで、それは何の意味も持たない。
意識が暗い淵へ落ちていく寸前、

「…おやすみ」

そんな、ぞっとするほど優しい囁きが確かに聞こえた。





身体の震えで目が覚めた。
意識がはっきりと浮上していくにつれて感じるのは、素肌に触れる冷たくて固い床の感触。
微かに空調音が聞こえる。見上げたクーラーに表示された設定温度は二十度で、寒いはずだよと凍える息を吐いた。
薄暗がりの下、己の身体を見下ろす。室内にいるせいで当然素足だ。靴が処分されていないのならばまだ望みはあるが。
手首の腕時計もベルトもない。メガネは強制的に眠りへとつかされた時、落ちた気がする。
武器がひとつもないだけではなかった。
更に認めたくない現実だが、真夏なのに身体がひんやりとするのは、効き過ぎたクーラーのせいだけではなかった。
さっきまで着ていたはずのものとは違う白いシャツが肩に掛けられていることを除けば、衣服の類いを全く身に纏っていないからだ。
後ろ手に廻された両手にはめられている鉄の感触が更に体温を下げる。
それは随分頑丈な作りのようで、外そうとしても手首が痛んだだけだった。
ベッドの支柱から延びる鎖の存在が更に厄介だ。
取り返しのつかない失態を思い、噛み締めすぎて血すら流れ出しそうな唇へまた、歯を立てる。

(くそっ、迂闊だった)

脳天気なほどに警戒心のなかった数時間前の自分を、今更悔やんでももう遅い。
彼の起こす行動を見抜けなかったのは何故なのか。いつもならたやすく相手の嘘を見破れるのに。

『いなくなってしまった息子を、捜し出してもらいたいと思ってね』

目が暗闇に慣れるのを待ちながら、彼が口にした言葉を反芻してみて気付く。眠りの小五郎を訪ねてきた理由。それを口にした時の声や表情。何やら事情はありそうだったが、あれが嘘とはどうしても思えなかったからだ。



深いため息をついた後、室内の状況も確認しなくてはと首を巡らせた。本当は身体を起こしたかったのだが、クラクラする頭では叶わなかった。
カーテンがしっかり閉ざされているせいで、外の様子は窺えない。
転がされた背後には小さめのベッド、壁際には棚と勉強机。ここはどうやら子供部屋のようだ。
けれど荒みきった空気の中、漂っているのは強いアルコール臭で。床に転がるビールの空き缶は、子供部屋にはあまりにも似つかわしくなかった。
空気を吸い込むだけで気分が悪くなりそうだと、もう一度重く息をついたその時。


ひた、ひた、ひた、ひた


澄ました耳が近付く足音を捉える。剥き出しの汗ばんだ足の裏が、床に張り付いては剥がれる音。
すぐにガチャリとドアノブが動いた。
部屋のドアが開いて人影が現れる。そちらへ身体の向きを変えれば、絡まった鎖が派手な音を立てた。



「どういうつもり?」

先手必勝とばかりに鋭い問い掛けを投げる。
廊下の薄明かりに照らされたその顔は、先程までの穏やかさの片鱗もない。

「お前が逃げるからいけないんだ」
「…逃げる?」

今はとりあえず情報が欲しかった。けれど目の前の男からは想定外の答えが返ってくるから、怪訝に思う。
彼は俺のことをある程度調べていた。俺を狙った理由が何かあるはずだ。居候の子供だと知っているのだから、営利誘拐の線はないだろう。
そこまでは瞬時に弾き出せたのだが。

「学校へ行ったきり帰ってこなかった、まっすぐ帰ってこいと何度言ってもお前は聞かなかった、毎日寄り道ばかりして、その挙句家に帰ってこない」
「何のこと?」

粘ついた声でまくし立てる男は、俺の声など聞く気もないようだ。

「逃げただろう。あの女と逃げたんだろう」

俺と、他の誰かを重ねて見ている。すっかり自己暗示をかけて思い込んでいる。

「どうして逃げたりしたんだ。許さないと言っておいたのに」

たぶんそれは、姿を消してしまった息子のことだろうと悟ってゾッとした。

「もう、逃がさないよ」
お前はずっとここにいるんだ。



完全に常軌を逸した、その目。
身体を舐めるように這う視線。
一刻も早く逃げ出さなくては、と思う。
…けれどどうやって?
身を守る道具を何ひとつ持たない、この弱々しい身体ひとつで。

諦めるつもりなど毛頭なかったが、思考をフル回転させてみたところで、何も答えが見つからなかった。



2010.10.24
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