新一は本を読んでいるのだと思っていて、だから急に彼の声が聞こえた時、内容を聞き取ることができなかった。新一へのセンサーを弱めていたつもりはないけれど、何分、声が小さすぎたのだ。
「ごめん、新一。今なんて言ったの?」
聞こえなかった。
キッチンスペースからひょいと顔を出す。
ややあって彼がまたぼそりと言う。
「テレビ、」
「え?」
「消せ」
一瞬首を傾げそうになった。しかし優秀な聴覚は即座にピアノの音を拾い上げる。世界的に有名らしいピアニストの指が、鍵盤上で華麗に踊る。
音楽の知識はまるでない新一が、唯一識別できる曲。
「りょーかい」
敢えて軽い調子で答え、リモコンを向けた。
唐突に途切れたソナタは重い沈黙をもたらす。
もう大丈夫だよと言いたかったけれど、静かな部屋の中には必要以上に響いてしまいそうで、俺は黙って立っていた。
たぶん誰よりも多く人の死を見てきただろう彼は、どれほど簡単に命が尽きるかを知っている。だからだろうか。彼にとって人の命は皆が感じているよりずっとずっと重いのだ。
新一はいつまでも「月光」を引きずる。暗く燃える炎の中に閉じ込められている。心の中で自分を責め続ける。虚ろな瞳で消えた画面を見つめているのは、救えなかった時のままの小さな彼だ。
そして無意識に差し出された掌を、俺が握ったところで何の意味もない。新一が救いたいのは一人だけ。炎の中で鍵盤を叩く彼、彼だけに掴んでほしいのだ。
こちらから伸ばせない腕をもどかしく持て余していると、彼の膝に伏せられた本が床へと落下した。
バサリ
重い音を立てて広がる。
呼応するように新一が口を開く。
「……人殺しだ」
耳にした言葉よりも空虚すぎるその声にヒヤリとした。
「…誰が?」
「俺に決まってるだろ」
「……なんで…」
「人殺しなんだ。三人も殺した」
戸惑う俺に構うことなく、新一がその細い指を一本ずつ折る。
「麻生成実、アイリッシュ、それから、」
「新一のせいじゃないだろ。どうしようもなかったんだから」
遮るように言う。
それを言い出したら俺だって充分人殺しだ。
救えなかった命、滑り落ちた手袋。
お前のせいじゃないと言って俺を慰めたのはいったい誰だ。
「どうしようもなかった、確かにそうかもしれねぇな。だが、三人目はどうだ?」
暗い瞳がひたと俺を見据える。
「三人目…?」
その、話は聞いていない。新一はまた、何か、後悔に苛まれるしかない事件に巻き込まれたのだろうか。
不安と共に見つめ返す。
息の詰まる僅かな沈黙の後、
「“江戸川コナン”、俺が殺した」
冷淡とも思える声で彼が言った。
「この手で、俺が」
苦しくなって今度こそ彼に触れたけれど、この腕は心まで届かない。せめて“コナン”だったあの頃なら、抱き上げて抱きしめてすっぽりと、両腕で包み込めたのに。
END
2011.8.6
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