何とも食欲をそそる香りで目を覚ました。少し重たい体を起こし、腹が減ったなと思う。
昨日は夜遅くまで事件にかかりきりだった。流石に空腹を感じつつ深夜帰宅すると、何と冷蔵庫が空だった。そういえば暫く買い物をしていなかった気がする。疲弊した思考で何とかそのことを思い出して、ぐったり、ベッドへダイブしそのまま寝た。
疲れていても己の記憶は正確だ。
となるとこれは一体どういうことなのか。
真っ先に浮かんだ顔は、今すぐでも母親になれそうなほど面倒見のいい幼なじみで、チャイムくらい押して入ればいいのにと思いつつ、久しぶりに食べる彼女の手料理の味を思い浮かべながら扉を開けた。そして固まる。

「おはよう新一」

機嫌のよさそうな台詞と笑顔で迎えられたことは想定内でも、声のトーンが想像より低い。低すぎる。更に致命的なことに性別が違う。キッチンに立つ“それ”は間違いなく男だった。しかも最悪なことに見覚えのある。

「…おい、何のつもりだよ」

今日の機嫌は上昇する前に急降下した。



あるありふれた朝の話




「え?何って…朝ご飯じゃん」

――俺はまだ寝ぼけているのだろうか。

白い手袋のない右手が、マグカップにコーヒーを注いでいる。

一体何が目的でこんなことをするんだ、と問う。名探偵を太らせるため、と返される。
ピーピーピーと聞き覚えのない機械音が鳴った。

「あ、パン焼けた」

独り言のように男が言う。視線の先には見覚えのないホームベーカリー、ようするに製パン機があった。わざわざ自分で持ち込んだのか、と呆れた。

彼の意識がパンへ逸れたのをいいことに考える。怪盗が探偵を太らせたいと望む。その動機はいったいなんなのか。

「…あぁ」

彼が焼き上がった食パンをナイフで綺麗に切り分け終える頃、やっと理由に思い至って声を上げた。

「お前、俺を太らせれば楽に逃げられるとか考えてんだろ」
「…はぁっ!?」

確かに目暮警部や博士なんかに、キッドを何処までも追えるかと言われたらきっと難しいだろうし。

江戸川コナンという子供から、元の高校生探偵へ戻って以来、怪盗との攻防戦は熱を増していた。これはいける、と思ったことも一度や二度ではない。いい加減彼も新しい手を講じる気になったのか、と思う。
しかし、随分と効率が悪く気の遠い作戦を思い付くものだ。怪盗の考えることはやはり理解に苦しむ。

そんな風に思考を巡らせていたから、怪盗の素っ頓狂な声という、世にも珍しいものをうっかり聞き逃してしまった。

「もっと他になんか思いつかないのかよ」
不法侵入のコソ泥のくせに。

「……ちょっと誤解を解いてもいいかな?」

文句をつければ疲れた声の言葉が耳に入る。

「誤解?」

彼の吐いたため息がスープの湯気を散らした。

「まず、俺はコソ泥じゃなくて怪盗!」
「…大した違いはないだろ」
「次に、今日は不法侵入なんかしてません!」
「鍵を開けて入れてやった覚えはねぇぞ?」
「開いてた」
「…え?」
「鍵開いてたし、チャイムも押した」
その後は勝手に入ったけど。

もごもごと少し気まずげに続ける。
こちらはといえば鍵を閉めた記憶がないことに気付いて脱力した。

「最後に、これは」

と言っていつの間にか整えられたテーブルと二人分並んだ朝食を示す。

「探偵とか怪盗とか関係ないよ。お前、元に戻ってからすごい痩せただろ?」

そうだろうか。自覚は全くないのだが。

「また一人暮らしになって、事件にばっかかまけて、不摂生してるんだろうし。
だから、元通りくらいにはなって欲しいと思って」
じゃないと触り心地が悪い。

よく分からない発言で締めた彼は「分かったなら食べよう」と促してくる。とてもじゃないが、倣って椅子へ座る気にはなれない。とにかく突っ込みどころが多すぎる。
簡単なところから突っ込んでみようと思った。

「…元通りって、お前コナンになる前の俺なんかろくに知らなかっただろ」

ちゃんと邂逅したのはあのエイプリールフールが初めてなのだし。

「知らなくても分かるよ。だってコナンはもっとやわらかかった」
抱きしめるとあったかいし、ほっぺたがぷにぷにしててよく伸びた。

「あのなぁ…」

子供の体と大人の体じゃ、肉の付き具合が違うのは当たり前で…

説明するのもバカバカしい。
コナンだった頃に彼のスキンシップが激しかったのは、子供扱いという嫌がらせではなく、彼の欲望のままに突っ走った結果という訳か。
あぁ、差し向かいで食事をとるのが嫌だ。料理自体は美味しそうだからありがたく頂戴して別室で食べたい。こいつの言動は危ない気がする。

「…ま、それはともかく」

俺はお前の体が心配なんだよ、と言われた。

「はぁ」

生返事を返す。ものすごく話が繋がっていないし信じられない。

彼はキラキラした目で「だから早く食べてみて」と言う。あんまりうざったいので渋々腰を下ろして食べてやった。悔しいことに半端じゃなく美味しい。

好み通りのコーヒーをすすって、呟く。

「キッドはショタコンだったのか…」
「違うよ」

男は慌てるでもなく穏やかに否定してみせた。

「ただ、コナンも含めてお前のことが好きってだけ」



あまりにあっけらかんとした告白、だと思われるようなものを受けて真っ先に思ったのは、ショタコンじゃないならいいか、ということで、それはおそらく随分前から、すっかりこの男にほだされていたことを、証明しているに他ならなかった。

白いズボンに青いシャツ、柔らかそうな髪の彼を盗み見る。

――嫌い、ではない。いや、むしろ…



END

2012.3.14


 
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