本音も弱音も全て拾い上げて、大丈夫だよとお前は言う。
真夜中だと言うのに本格的な風呂掃除を始めてみたり、暗記してしまうほど読み返した本ばかり開いて結局一文字も読まないまま、最後までページをめくってみたり、思い切り濃く炒れたコーヒーを立て続けに飲んでみたりする。そんな夜。
その癖何もかも思うようにいかなくて、苛立ちが募って、風呂場は水浸し、本は雪崩れ、コップは割れて粉々の硝子に姿を変える。まるで癇癪を起こした子供。
何だか妙に疲れたなと思う。
不安や焦りばかり膨張する。何にも意味がない。感じない。
一人になりたいからとここへ来たのに、間違いなく自分の家である場所は、よそよそしくて冷たかった。
眠れないの?
眠るのが怖いの?
明日がくることが、怖いの?
全部と答えたらお前は笑うだろうか。
「起きてるだろうとは思ってたけど…」
来訪の予告もなく午前三時に人の家のチャイムを押した仕事帰りの男は、玄関より先に進むことなくパチパチと瞬いた。
正確に言うとそれ以上進むことができなかったのだが。
「…いったい何してたの?」
呆然と聞かれて言葉に詰まった。
とても簡単な質問で、答えることもまた簡単だ。
確か、掃除の後に本を読んで更にコーヒーを飲んでいただけのはずだった。
しかし視界に入るこの惨状。
玄関先にはバケツと雑巾と箒の山。廊下を進むと書斎は本の山。その廊下は水浸しで裸足の足が濡れている。
「どうせ来たなら片付けんの手伝えよ」
質問を無視して言い放った。
「…それは別にいいんだけど」
快斗はちっとも納得していない顔で了承の答えを返し、もう一度玄関から見える範囲の惨状を確認する。
「まぁ…話なら後で、だな」
勝手に結論を出してから、おもむろに両袖を捲ってみせた。
あれほど散らかっていた室内が、目の前であっという間に片付いていく。黙ったまま淡々と作業をこなす。手を出す隙もないくらいだった。
真夜中でしかも“仕事”帰りだというのに、元気な奴だなと思う。
来訪の予告こそなかったが、犯行予告ならテレビで散々見せられた。今日も怪盗は見事な手際で宝石を盗み出し、しっかり返却までを終えたらしい。
ぼんやりと彼の動きを眺めている。何もしないでただ立っているなんて、いつ眠気が襲ってきてもおかしくないような状況だったが、ちっとも眠いとは感じなかった。
そして一時間ほどが経過した頃だろうか。ぶ厚い本の山に取り掛かり出した快斗は、シリーズ物の数冊を順番通り並べ替えながらやっと口を開いた。
「…なぁ」
それは本の並べ方に関する問いではなく。
「何かあったんなら聞くけど」
さりげなく気遣うような調子の声で。
「別に何も」
変わんねぇよ、と返した。
何もないと強がる意味すら見つけられない午前四時半。
弱音の中身はいつも同じだ。
「俺は嘘つきで蘭は泣いて、“工藤新一”は薄情な最低男だ」
「いつも同じだからこそ辛いだろ」
分かるよと、そう、言ってくれる。
何もかもうまくいかない夜だった。
そして思うようにならないことばかりの、昨日や一昨日や明日や明後日。
「…いつか全部変わると思うか?」
とてもそうは思えないまま問いかける。
――何の意味も見出だせない夜も、いつかは消えてなくなるのか?
快斗は答えた。
「大丈夫だよ」
優しい声で、
「大丈夫」
繰り返して笑う。
「コナンちゃんにひとつだけ、いつでも絶対に意味のあることを教えてあげるよ」
笑顔のまま快斗はそう言った。
「俺に電話をかけること、今すぐ会いたいって我が儘言うこと」
それのどこが、なんて言えなくて、けれど素直に受け入れる気にもなれなくて、
「…わざわざ呼ばなくても勝手に来たじゃねぇか」
せめてもと憎まれ口を叩いてみる。
俺はたぶん、本当は。
一人になりたかった訳ではなくて、きっと、お前に会いたかった。そんな本音を見つけてしまった。
「…でも、今日コナンに会いたかったのは俺だよ?」
少しだけ弱くなった声。
「…またハズレだったのか?」
探し物。
「そういうこと」
答えたきり片付けを放棄した両腕が、緩く体を抱いてきた。
本の海の中に二人で埋もれる。
埃と快斗と怪盗の匂い。
ぎゅっと腕の力を強くして快斗が言う。
「こうしてると俺も思えるんだ」
――大丈夫、大丈夫。きっと大丈夫。
言い聞かせるのは必死すぎて悲しいから、それは言ってもらうための言葉なのかもしれない。
――そうでない時ばかりがむしゃらに繰り返すんだ。追い詰められていくだけなのに。
聞かれたら頷いてしまうしかないし、だから抱きしめるように繰り返してくれればいいと思う。
――大丈夫。いつかは何とかなる。
根拠なんてどこにも見当たらないけれど。
キスのため眠るようにそっと目を閉じて、開けばもう朝日が眩しく光った。
END
2012.3.19
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