正直かなり浮かれていた。駅の階段をスキップで駆け降りて、変な人を見る目で見られたりもした。
仕方のないことだと思う。何せ初めて恋人が自分からメールをくれた。文面は彼に似つかわしくない甘さで我が目を疑った。
そこにはこう書いてあったのだ。
『今夜ウチに来てくれないか?』
もちろん最初は何かの罠だと思った。彼には十分すぎる前科がある。
『本当に行っていいの?』
恐る恐る返信してみると、数十秒後にまたメールが届いて、驚愕のあまりケータイを取り落としそうになった。
そして。
『どうしてもお前に来てほしいんだ』
メールの本文に目を通した後、今度こそ手の中からケータイが滑り落ちた。
満面の笑顔でドアの前に立った俺を迎えたのは、照れ隠し故に不機嫌そうな表情を作った愛しの名探偵…ではなかった。残念ながら。
でん、と玄関先に置かれたそれ。
「あぁ、来たか」
照れ隠しでも何でもなく、普通に笑ってくれていない新一がその物体を指して言う。
「これを食べたいんだ」
急に食べたくなって買ったんだよ、でもどうすればいいか分からなくてさ。いや、知識としては一応分かるんだが、実際やってみたことがねぇからな。
「…それで俺を呼んだの?」
「あぁ」
当然だろ、他に何がある?
そんな顔で新一が俺を見返す。
あ、思ったより落ち込まなかった。というか最初からそんな気がしてた。
とりあえずその丸い深緑の物体を、無駄に広いキッチンまで運んでみた。
「で、どうして欲しいんだよコレ」
ただ食べたいのだと言われても調理方法は様々だ。まずは本人の希望を聞いてみる。
「食べられれば何でもいい」
何とも作りがいのない返答だ。
「洋食とか和食とか希望ないの?」
せめてそれくらいは決めてくれと思い、質問を重ねる。
「…じゃあ、和食」
数秒間迷ってから新一が答えた。
「了解!」
少し気分が乗ってきた。経緯は何であれ恋人に料理を作ってくれとせがまれたのだ。ここで腕を奮わない手はないだろう。
さっそく嵩張る物体をシンクの中に入れて洗う。洗い終わってから当然のことを聞いた。
「なぁ、調理器具ってどこにあんの?」
広いキッチンに似つかわしく、収納スペースもかなり多いのだ。自力で探すより住人に聞いた方が早い。
すると。
「どこだろうな」
「…は?」
耳を疑う答えが返ってきた。
「あぁ、ヤカンならそこにある」
新一がコンロの上を指す。言われなくても見れば分かる。
「包丁とまな板は?」
切らないことにはどうしようもないんだけど。
「暫く見てない」
「はぁ!?」
思わず大声を上げる。
だって一人暮らしで包丁とまな板を暫く見ないなんて…いったい何食べて生きてるんだ。弁当とレトルト食品とコーヒーか。出来ればお惣菜なんかも食べていてほしい。
「探せばどっかにあるだろ」
さすがに自分でもこれはよくないと思っているらしかった。
少しだけ気まずげに新一が言う。
たぶんな、とも付け加えて。
「…マジかよ……」
かくしてここで工藤邸キッチンの大捜索が始まったのだった。夜なのに。
2012.3.22
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