「…あ」
ガッチャン
マグカップが派手な音を立てて床へと落下した。
不運にも、コーヒーという名の熱湯を撒き散らすオプション付きで。
足に直撃しなかったのは不幸中の幸いだが、当然のように露出した肌へ降りかかる。
「ぁ、つっ!」
というか、痛い。
半ズボンにスリッパという格好でなければ、もう少しマシだったのかもしれない。
とりあえず快斗が来る前に片付けなければ。
「まずは…」
破片集めから、いや、床を拭くのが先か?
探し出した雑巾を手に取り、大雑把に拭き始めた。
慌てていたため、破片を巻き込んでしまったらしい。
流しで雑巾を絞った際、何かが刺さったような痛みがあって、途端に赤くなっていく。
人間、焦るとろくなことがない。
冷静、沈着、かつ慎重に。
ホームズのことを忘れた訳ではないのに、まだまだてんで駄目だった。
割れたマグカップ、コーヒーで濡れた床、血のついた雑巾。
この状況は収拾不可能だと勝手に結論づける。
床に座り込んで妙に高い天井を見上げた。
何でこの小さな体だと、何もかも上手くいかないんだろう。
背は低い。手も足も短い。当然高校生だった頃触れられた場所には届かなくて、背伸びをするからバランスがとれず、ぐらりと崩れるのも充分に予測できる。子供じゃないんだとムキになって、失敗して逆に子供であることを証明するような。
悔しい。情けない。思うようにいかない歯痒さ。子供ならきっとここで思い切り泣くのだろう。招いた結果に驚いて、それから、ぶちまけられた熱湯がもたらす痛みに。
「ただいまー」
そこで、鬱々とした思考を遮る脳天気な声が聞こえた。
この男は、タイミングがいいんだか悪いんだか。今に限って言えば最悪だ。だいたい「ただいま」なんて図々しい。ここはお前の家じゃない。
「コナンちゃーん?」
色々と腹が立ったため、捜し回る快斗の声には決して答えてやらなかった。どっちにしろあっという間に見つかるのだが。
今週末は工藤邸で過ごそうと、誘ってきたのは快斗だった。
渋々というポーズを取ってはいたが、その誘いは純粋に嬉しいと思った。
少しだけ江戸川コナンに疲れていた。
例え週末の間だけでも、嘘つきから開放されたい、と。
それに最近はお互いに忙しく、学校行事やら裏稼業やらで、ゆっくり顔を合わせる暇もなかった。
会いたいなどと素直に言えないのは性格か。
午前授業だから迎えに行くよと言っていた快斗の訪れを、少しは楽しみにしていたのだけれど。
『ごめん!野暮用できたから先に行ってて!』
授業から解放された頃かかってきた電話の内容には、不満も不愉快も何もない。
ただ、バックに聞こえる女の声が、嫌がらせとしか思えなかった。
『黒羽くん、早く』
悪気がないことは分かっているのに。
「別に無理して来なくていい」
気付いたら電話を切っていた。
一人の洋館がやけに広いとか静かだとか、アイツの姿が見えないことに苛々するとか。
らしくないだろ、と頭を掻き毟って。
コーヒーを淹れて、本を読んで。
こんな幼い嫉妬なんて、早く忘れてしまわなければ。
まずはコーヒーだと取り掛かった、結果は本当に散々だ。
洋館の作りは子供向きではないらしい。
シンクもコンロもやけに高い。
手順をいちいち背伸びで進めて、最後にカップを落として割る。
心ここにあらずだったことを、皮肉にも自ら証明してしまった。
そのままぼんやりしていると、勢いよくドアの開く音が聞こえた。
「コナンちゃーん!お待たせっ」
呑気な声を発しながら入ってくる。
見つかりたくないから何も答えない。
けれど。
あの男は本能で分かってしまうのだろうか。
理由を聞いたら「愛ゆえだよ」だとか、馬鹿みたいなことを言ってきっと笑う。
まっすぐキッチンスペースにやってきた快斗は、覗き込んで一瞬絶句した。
無理もない。結局ろくに片付けていないのだ。
「どうしたんだよ!?」
慌てて抱き上げられ、とりあえずは切り傷が見つかる。
「コーヒー淹れたらカップ落として割っただけだ」
簡単に経緯を説明し、
「別に大したことねぇよ」
そう、付け加えてみたが、快斗はまるで聞いていなかった。
「おまえ、足赤くなってる。まさか…かかって火傷した?」
「まぁ、少し」
あまりの目敏さに舌打ちしたくなる。コイツが何も悪くないのは重々承知していて、これが八つ当たりじみた感情だということも、ちゃんと自覚はしているけれど。
「冷やすぞ!風呂場直行!」
宣言した快斗は俺を抱き抱えたまま、惨状を無視してキッチンから飛び出した。
「だいたい火傷したらまず冷やすんだぜ?」
真新しくごく浅い切り傷に、絆創膏を貼りながら快斗が言う。
「言われなくても分かってるよ」
「いや、分かってないって」
何とも用意のいいことにそれは防水仕様だ。
「対処法じゃなくて優先順位の話してんの」
何で床拭くのが先になるかなぁ…
と、不機嫌そうに零した快斗は俺を、あろうことかそのまま風呂場に放り込んだ。
「服着たままだぞ!」
更に思い切り蛇口を捻る。
「後で着替えればいーんだよ」
しかも水を、頭から。
「冷てぇだろ!」
そして気持ちが悪い。シャツもズホンも肌に張り付く。着衣水泳並にずぶ濡れだ。川にでも落ちたのかと言われそうだ。
「暑いからちょうどいいじゃん」
そう宣った快斗は水シャワーをこちらへ向けてくるだけで大して濡れていない。涼しい顔で水をかけ続ける。
理不尽だ。
そもそもこれで火傷した足を冷やすという目的は果たされているのだろうか。
「おい」
多少座ってしまった目で睨み上げた。
「さっきから何怒ってんだよ?」
どうやらコイツは不機嫌らしい、ということは分かる。
怒る権利があるのはたぶん俺の方だろう、ということもはっきりと。
快斗は、少し言葉を探すように黙り込んだ後、「だって」と零した。
同時にやっと水シャワーから解放された。
「だって、こんな怪我いつもならしないじゃん」
「だから大したことねぇって」
「そういうことじゃなくて!」
そうじゃなくて、ともどかしげに続ける。
「コナンが手元不注意になるような悩み、俺は何にも知らなくて…相談もしてくれないんだって思ったらつい、イライラっと…」
そりゃ心配したってのもあるけどさ。
拗ねてぶつくさ言っている様子に呆れ返った。
聞かなければよかった。
「あのなぁ…相談も何も、」
ない。悩み事の原因が何を言う。
勢いよくシャワーを奪って瞠目した快斗の顔面に向ける。
「オメーのせいなんだよ、バカイト!!」
悲鳴を上げて逃げる男のアホ面を見て、少しだけ溜飲が下がった気がした。
あんなことで機嫌を損ねてしまうような恋人に、電話の言い訳などを求める必要はなかった。
2012.3.16
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