読書中に差し出されたコーヒーは、相変わらずとてもいい香りがした。
煎れ方だとかブレンドだとか尋ねてみたことはないけれど、インスタントでないことだけは確かだろう。
いつもなら香りくらいで本の世界から抜け出すことはできないのだが。つまり今日は全く集中できていなかった。
「…サンキュ」
慣れ親しんだ香りにホッとして、向かい側へ座った快斗に言う。
粗筋すらも思い出せない気がする本から目を離して、湯気をたてるマグカップへ手を伸ばす。
「俺、コナンちゃんにお礼言われたの初めてかも」
コーヒーを口に含んだ瞬間、戸惑ったような彼の声が聞こえてきた。
「…そうか…?」
まさかと思いながら聞けば快斗は、真顔でコクコクと頷いてみせる。
「俺以外には言うんだよね。満面の笑顔で『ありがとう』ってさ」
「演ってほしいのかよ」
心が全くこもっていないとまでは言わないが、所詮あれはただの演技だ。可愛らしい子供と見せ掛けるための。礼儀のない子供は嫌われる。
「いや、そういう訳じゃないんだけど」
何とも煮え切らない返事だった。
「珍しいなって思っただけ」
快斗は一度言葉を切って、自分のマグカップに砂糖を入れる。どばどばと入れる。
いい加減見慣れたもので、もう胸やけはしない。
「お礼くらい言ってくれればいいのにって何度も思ったのにさ」
神妙な顔で砂糖水と化していそうな液体を混ぜた。
「…実際言われると変な感じがする」
何気なく投げた一言に文句をつけられるとは。多少どころでなくムッとした。一体なにが気に食わない。
「……だったらお前には二度と言わねぇ」
「えぇっ!?」
それは嫌だ!
多少損ねた機嫌のまま言い放つと、途端に悲愴な表情で声を上げる。無視してもう一口コーヒーを飲む。
どうでもいい、中身のない会話だと思っていた。…少なくとも俺にとっては。
「別に不満だって言った訳じゃないし!コナンちゃんが素直な方が俺は嬉しいし!」
快斗は必死な顔で続ける。
無視だ無視。
「夫婦が長年連れ添うためには、日々の“ありがとう”が大事だってよく言うじゃん」
誰と誰が夫婦だよ。
そろそろ面倒になってきた。本を読むふりを再開する。
快斗はまだ何やら主張していたが、聞こえないことにしておいた。
相変わらず本の内容はちっとも頭に入ってこない。明日のことにばかりひたすら思いを巡らせる。
明日の夜、俺は、こんな場所にはいない。砂漠で水を探す旅人のように、僅かな手掛かりを求めてきっと餓えた目をする。
数日前、組織の人間が出入りしているらしき建物を偶然見つけた。一見ただのオフィスビルだが、調べてみると不審な点が幾つかあった。
明日の晩には本格的に探りに行く。
何かあるかもしれない。何もないかもしれない。収穫も、危険も。
覚悟はしていた。
「たださ…」
不意に、耳に入れざるをえない改まったような声を発した快斗は、たぶん何も知らないはずなのだ。
「今日のは何か、違うと」
思う。
先ほどまでの情けない調子を裏切るように、探るような瞳がじっとこちらを見ている。
「何でもないならいいんだけど」
たった一言、無意識に近い礼の言葉で、彼に悟らせてしまったのか。
何かを隠してもいつだってあっさり見透かしてみせる奴だ。侮れない。
「………」
無言でいると快斗は空になったふたつのカップを取り上げ、洗ってくるよと席を立った。
「もしもお前が…」
シンクの中を片付ける、遠い背中に向かって呟く。
全て気付いたなら連れて行ってやろう。
どうせ勝手についてくるのだ。仕方ない。
読みかけの本を閉じて立ち上がった。
「出掛けてくる」
どこに?と聞かれて隣と答えた。
至急、灰原と会わなければならない。
「いってらっしゃい」
快斗はにっこりとそう言った。
素直に「いってきます」などと答えたところで、「ただいま」を告げるまで待っていたりしない。
どうせ探りに来るのだろう。だから俺は何も答えなかった。
そもそも此処は俺の実家であって、決してコイツの家ではないはずだ。つまり「いってらっしゃい」というのはおかしい。
「どうしたの?今日はのんびりするって言ってたじゃない」
隣の家のチャイムを押すと、意外そうな顔に迎えられた。
「明日の予定が狂ったんだよ」
明晩の建物への侵入に関しては、詳細な計画も立てていた。しかし、全て組み直しだ。強力な助っ人が増えてしまうのだから。
俺は既にそのことを確信していた。もうすぐ何でもない顔で次の客が来る。
「哀ちゃん、俺もその話聞いていい?」
間に割り込んできた快斗は灰原に伺いを立てながら、
「明日の予定って何?」
目だけこちらを見てひんやりと笑った。
2011.7.12
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