「そんな世界になればいいのにね」なんて、偽善でしかない、叶うはずもない、すかすかで中味のない慰めは、紙風船に似ていると思った。
呆気なくぺしゃんと潰れてしわくちゃの薄い紙に戻ってしまう、あの脆い風船のことを考えていた。
昔から第六感的なものは結構働く方で、まだ夜の気配が残る日曜日の明け方にふっと起き出して、そのまま家の外へ出てみる気になったのも、それが働いた結果らしかった。
こんなに早く起きても仕方ない。急に予定がぽっかりと空いてしまった今日一日は、約束も取り付けていないのにコナンと過ごすと決めてはいるけれど。
散漫に浮き沈みする思考。眠気をたっぷり含んだ大きな欠伸をひとつ。
彼の居候先を訪ねるのは、早すぎても遅すぎても駄目なのだ。早すぎる訪問は迷惑になるし、かといって少しでも遅くなれば、探偵事務所の依頼人が持ってきた事件やら謎解きやらに恋人を奪われてしまう。重要なのはタイミングと、運だ。もしもコナンを探偵事務所から連れ出すことに成功したとしても、道端で事件に出会すかもしれない。その先の駅で、出掛けた先で、もしくは昼食を取るために入った店内で。
きりがないから考えるのを止めた。
新聞の入ったポストの横を素通りして道に出る。結局は完全に気を抜いていて、だからぼやけた朝の景色の中に彼の姿を見つけた瞬間、思わず呆けてしまったのも、無理のないことだと俺は思う。
一車線道路の反対側に、スケボーを脇に抱えたコナンが立っていた。
こっちは「へ?」と間抜けな声を漏らして呆けているが、俺に気付いたコナンはたった今夢から醒めたみたいな顔をした。それから、逃げた。ド派手なカーチェイスに参加できる程のスピードを誇るあのスケボーで。
まさか朝っぱらから全力疾走する羽目になるとは思わなかった。
とにかく追い掛けてある程度近付いてから、何かで気を引いて止まらせる作戦に出た。棒手裏剣の如く放った赤いバラ一輪は無視されたが、小さな公園の前に差し掛かった辺りで更に距離を詰め、鳩を二羽出したらあっさりと止まってくれた。正直なところ少し拍子抜けしている。
「おまえさぁ……」
必死になりすぎだろ、と呆れ声でコナンが言う。
「逃げるからだろ」
全力出さずにスケボーに追い付けるか。
「おまえが出てくるなんて思わなかったんだよ」
「俺だって、コナンが家の前にいるとは思わなかった」
「知ってて外に出たんじゃねーのか?」
「ちがうって。ただ、なんとなく?」
いつも通りテンポよく続いていた言葉の投げ合いが、止まる。
公園の片隅にあったベンチに座り、コナンが隣に来るのを待っていた。
彼はどこかぼんやりとしたまま、少し離れたところに立っていた。何かを考えているようにも見えた。
ややあって、知らず張り詰めていた糸が切れたみたいに、ぺたんとベンチに座り込む。
「……なんでおまえには分かるんだろうな」
そう溢したコナンは珍しくも負けを認めた顔で苦く笑っていて、なんとなくで勝ってもな、と少々複雑な心持ちだ。愛の力とでも言っておけばよかった。
「夢を見たんだ」と、コナンが言った。
「夢?」
「あぁ。変な……嫌な夢だった。たぶん、昨日テレビで観た映画の影響だろうな」
途中で帰ってきたおっちゃんに消されたけど。
「ホラー?」
「ちげーよ」
1942年冬の某国が舞台になっている、実話を元にした洋画だと彼は言う。主に描かれているのは廃墟と化した市街での戦闘だったと。
その情報だけで大体の内容は察することができた。隣に座っている彼の見た目だけを考えれば、映像化された過去から何かを学ぶどころか、深刻なトラウマにでもなりかねない年齢だ。案外真っ当な保護者役を務めているらしいあの迷探偵が、子供に見せまいとしたのも当然か。
──俺が初めて“それ”を知ったのは、いつ頃だったんだろうか。
そんなことを、コナンが夢の話を始めるまでの僅かな間に、ふと、思い返してみたりする。
「建物が全部瓦礫の山に変わっちまったような場所を 、独りで歩いてるんだ。大規模な爆撃で壊滅した、元はきっとたくさんの人が生活していたはずの場所だ。そこら中が瓦礫と死体の山だった。ほとんどは黒焦げになってたが、別の何かが原因で亡くなったらしい死体も混ざっていて……餓死が多かった。あとは病死と凍死か。
夢の中の俺は、夢だからだろうな、死体のほんの一部分を見るだけでも、すぐに死因が判っちまうんだ。いつのまにか雪が降り出していて、死体は雪の下に埋もれていくのに、それでもやっぱり判るんだよ。判るだけで、他には何もできねーんだ。
誰も、助けられない。
「それから、まだ息のある人が倒れていたりしないか探して、歩いて、歩いて、気付いたら川の前に立っててさ……遠い向こう岸にいる“俺”と目が合った。そいつは汚れひとつないいつもの制服姿で、冷ややかな目で俺を見てるんだ。
渡らねーと、って思ったんだよ。歩いて渡れるような川じゃなかった。辺りを見回したところで橋も船もないから、川に沿ってまた歩き出した。けど、どこまで歩いても、見つかるのはバラバラになった船や、橋の残骸や、死体だけなんだ。凍傷で指や手足が欠けた死体、自殺に見せかけた他殺、他殺に見せかけた自殺、下手な偽装を施されていたり、消毒もできずに放置された傷口から、感染症にかかって亡くなっていたり、敵方への逃亡を謀って、叶わず味方に殺されたもの……
誰が殺したかなんてここではどうでもよくて、罪に問われることもないんだと思ったよ。敵を殺すことも、降伏しようとする味方の背中を撃ち殺すことも正しいことで、そうしないことを責められて殺されるような世界で、誰が誰に殺されただとか、誰が誰を殺しただとか、真実を明らかにすることに意味はあると思うか?
何か他にやるべきことがあるはずだろ。今もどこかで続いている殺人を止めるだとか、どこかで殺されそうになっている人を、例えそれが敵と呼ばれている人だろうと、守るだとか。どこかにいる大勢の人たちと同じように、武器を手に取って戦う、だとか。それにしたって、いったい何と、どこで戦ってるんだ?俺には何も見えないのに。
「川を渡ろうとしていたことも忘れて、途方に暮れて空を見上げたら、おまえがあの真っ白い格好で飛んでた。
危ねーから飛ぶなって叫びながら追い掛けた。ライフルでおまえを狙ってる敵に、そこら辺の瓦礫蹴っ飛ばしてぶつけて、倒して、必死で走って追い掛けても、どんどん小さく、遠くなっていくんだ。
いつのまにか誰もおまえを撃ち落とそうとしなくなって、息を切らしながら立ち止まってよく目を凝らしたら、どうしたって追いつけないくらい高く、遠くへ飛んでいくのは、ただの白い鳩だったんだ。
だから、オメーが鳩になってないか見にきたんだよ」
長い独白を終えたコナンが、夢をなぞるように空を仰いだ。
「……寂しかった?」
「いや、恐かった」
いなくなっちまってる気がしたんだ、と小さな声で続けた彼はやけに素直で、そっちの方が恐いんだけど、と思う。
らしくない、なんて言いたくなくて、俺は短く、「そっか」と返す。
「変な夢だろ」
「う、ん」
同意を求められて曖昧に頷く。
「ただの夢だ。意味なんかない」
そう言い切った横顔は、夢の意味を考え続けているように見えた。様々な死因の死体の山、探偵が必要とされない世界、彼本来の姿である工藤新一が向こう岸にいて、いつしか川を渡りたかったことすら忘れてしまう。それから。
「白い鳩、ねぇ……」
平和の象徴か、と独りごちた矢先、
「おまえみたいだよな」とコナンが言うから脱力してしまう。
「……あのなぁ、一応俺は国際指名手配されてる犯罪者だぜ?」
「けど、おまえは誰も傷つけない」
「おまえだって、そうだろ」
俺の声なんて聞こえなかったみたいに、彼は訥々と言葉を継ぐ。
「目的のために誰かの命を危険に晒したりしない、越えちゃならねぇ一線を越えることはない。そこは絶対に間違えない」
空へ向けられたままの、遠い目差し。
「その線はどこにあるんだろうな」
恐いのか、それとも悲しいのか、ぎゅっと眉を寄せたまま、唇だけが笑みを象って。
「俺は、まだ踏み留まれてると思うか?」
どうしてだろう、彼なら絶対に大丈夫だと思っているのに。
肯定するだけでいい簡単な問い掛けに、俺は答えることができなかったのだ。
彼がそんなことを不安に思う理由が解らなかった。悔しいけれど、認めるしかない。俺は彼の──江戸川コナンと工藤新一の──ことを、全て知っている訳じゃない。
彼が追い続けている組織、敵を、追い詰めているのか、追い詰められているのか。それすら俺は解っていないし、きっと隠されていることばかりだ。
ただ、俺の知っている正義の塊みたいな名探偵は、どんな人の命だって平等に救おうとあがいて、救えなかったことを深い傷にして膿ませてしまうけれど、それでも闇を照らせる絶対的な光みたいな。
コナンに倣って空を見上げた。朝焼けもとっくに終わった空は、雲ひとつない淡い青だった。
──あぁ、早く何か言わなければ。
「……いつか、傷つけることも傷つけられることもないような」
そんな世界になればいいのにね。
2019.04.04
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