いつだったか、小五郎への依頼の関係で、実業家の講演を聞きに行ったことがある。
 講演者の元に脅迫状が届き、警察には知られたくないから探偵に依頼してきただとか、そんな感じの仕事だったはずだ。たしかあの日は夏休み中で、蘭は部活へ行っていて、報酬に目が眩んだおっちゃんを一人で行かせるのは不安だし、何より暇だったから俺もついていった。結局、最後まで脅迫状の送り主が現れることはなく、薄暗いステージ袖で二時間ほど、パイプ椅子に座っているだけで終わったのだが。
 眠りの小五郎の名に相応しく、おっちゃんは終始気持ち良さそうに居眠りしていた。それを横目で睨みつつ、俺は何事かが起きた時に備えて、眠気を追い払いながら退屈な講演を聞いているしかなかった。
 余談ですが、で始まる話ばかりが続いて内容への興味も失せた頃、演者は水分補給のために取り上げたペットボトルを持ったまま、ロボットにはどんな形状の手を付けるべきか、というようなことを熱心に話していた。
「では、指が何本あればいいのかということですが、親指と人差し指の二本があれば、こうして物を掴むことができます。三本あると、持つ場所を移動させることができます。四本あると安定します。それで、五本目が増えて何ができるかというと、何もない。なくても困らないんですね。実は、小指は必要のない指なんですよ。指は四本あればいいんです」
 小指を詰めさせる暴力団は、実は良心的なんですね、と話が結ばれ、何の講演だよ、と呆れ半分、つい、自分の手に視線を遣ってしまった。
 怪我した指を無意識に庇った結果としてささやかな不自由さを感じた時、この指はこんなことに使っていたのか、と初めて気付いたりするが、小指が使えなくなっても生活に支障はないらしい。
 だったら、小指は約束するためにあるんだろうか。役に立たない、必要のない指で、忘れられない約束を交わすんだろうか。
 らしくもないことを考えてしまったのは、いつかの指切りを思い出したからだ。


 あれは、キッドが犯行を予告していた夜のことだった。ビッグジュエルが展示されていたホテルで、怪盗とは全く関係のない事件に巻き込まれ、軽傷を負った状態で対峙する羽目になった時、こっそり事件の顛末を見守っていたらしいキッドに、疲れと呆れが半分ずつ含まれたような声で言われたのだ。
「おまえさぁ、怪我しないように気を付けながら動けねーのかよ」
「気を付けたって避けられねーこともあるんだよ!」
「だとしても、もうちょっとさぁ……」
 キッドはその後もハートフルな泥棒らしく苦言だか小言だかを零し続けていたが、不意に何か思い付いた様子で顔を明るくすると、「そうだ!指切りしよう」と言い出した。
「名探偵はもう怪我しないこと!指切りげんまん嘘ついたら針千本のーます!指切った!」
 絡めた小指が振りほどかれる前に言い切ってしまえ、と言わんばかりに早口で唱えられたそれは、俺が呆気にとられている間に交わされた約束だった。満足げに笑った彼の指が離れてから、キッドが手袋を外していたことに気が付いた。


 記憶に留める必要もない、大部分を聞き流してしまった講演と、他愛ない指切り。
 強い印象を残すような出来事ではなかったのに、あれから季節が二つ過ぎて春になっても、ふと、頭を過るのだ。
 どうして忘れられなかったのか、何を忘れたくなかったのか。
 認めることも捨てることもできずにいた感情が抑えられなくなったあの時まで、俺は考えようともしなかったのだけれど。







1

「ちょっと左手貸して」とキッドが言った。
 その声は初めて耳にするような硬さだったから、渋々ポケットから出して見せる。大部分が白い布で隠れているそれを目にした男は盛大に眉を寄せて「おっまえなぁ!」と反射のように喚きかけ、それから、言葉を失った。
 モノクルで隠されていない目から窺える感情は、驚愕と衝撃。
 なんだ、何も知らなかったのか。
 そういえば最近のコイツは忙しそうだった。新聞に怪盗キッドの文字を見つけられない日の方が珍しいくらいで、胸糞悪い事件の報道を目にする機会があったとしても、毛利小五郎の名前すら出てこないそれに俺が巻き込まれていたことなど知る由もなかったはずで、つまり知らなくて当然だった。こうして顔を合わせるのも久しぶりだ。
 いつもの真っ白な衣装で非常識にも真夜中の探偵事務所を訪問してくれた怪盗は──一応ポストに入っていた手紙で予告されていたから寝ずに待っていてやったが──目の前で片膝をつくなりいつになく真面目な顔で、「なぁ、名探偵」と口を開いた。月明かりがほんのり照らすだけの室内は薄暗く、僅かながら後ろめたさも抱えていたせいで、この時、表情を読み違えてしまったのだと思う。パジャマの上に羽織ったパーカーのポケットに手を突っ込んだままでいれば、何てことない会話を楽しめる夜になったのかもしれなかった。失敗した、と思う。
 おまえは俺の左手に何の用があったんだ。紛らわしいこと言いやがって。
 恨みがましく睨みつければ、遥かに上回る強さで返されてたじろいだ。
「右は?」
「……無傷だよ」
 ポケットから利き手を出して見せる。ただの小さな子供の手だ。
 逡巡の後にそろりと伸びてきた白い両手が、確かめるように指先から手首までを辿る。隅々まで触れてようやく納得したのか、「そうみたいだな」と呟いて手を離した後、ちらりともう片方の手を見て、再び俺の顔に戻る。
「説明してくれるんだよな?」と、否とは言わせない声で聞いてくる。
 この期に及んで隠し通すつもりはなかったが、話さずに済ませたいこともあった。頭の中で話す内容と順番を組み立てていく。コイツは俺がこの指を選んだ理由まで知りたがるだろうか。
「とりあえず座ろうぜ」
 強い視線を振り切るように、さっさとソファーの方へ歩き出しながら言う。
「長くなるから」
 渋々といった様子でキッドがついてきて、何故か向かいではなく隣に座った。探偵事務所の来客用ソファーに並んで座っている、奇抜な格好の不審者と指が欠けた子供。おかしな光景だと少しだけ笑えた。



 テーブルで小さなキャンドルの炎が揺れている。キッド曰く「この前クラスメイトに押し付けられたアロマキャンドル」らしい。現役の学生だとさりげなくバラされた気もするが、軽く聞き流しておいた。キッドの素性なんて今はどうでもいい。リラックス効果があると謳われた香りが室内に充満しつつあることの方がよほど気になる。
「無臭のやつ持ってねーのかよ?」
 匂いが残って不審がられたらどうしてくれるんだ、と文句をつけずにはいられない。
「そこら中に咲いてるから平気だろ」
「あのなぁ……」
 いい加減すぎる答えに眉を寄せる。確かに桜の香りだが、だからなんなんだ。そこら中で満開の桜はほぼ無臭だろう。
 話を聞いているんだかいないんだか、隣の男は俺の右手を勝手にひっくり返し、キャンドルのお陰で手相くらいは見えるようになった手のひらを、まじまじと眺め続けている。
「そっちは無傷だって言っただろ。少しは信用しろよ」
「うん」
 今度はあからさまな生返事だ。表から裏、裏から表。何回ひっくり返せば気が済むのか。さすがにもう見るところなどなくなったと思うのだが。
 何かを見つけようとしているのではなく、元々意味のない行動だとしたら?どう説明をつけられるのだろう。俺の知る限り、この男は手やら指やらに執着する嗜好の持ち主ではなかったはずだ。
 尤も、くっついたままの状態で満足できるなら、人体のどこに執着しようが全く構わないけれど──嫌なことを考えてしまった。
 ちらりと彼の様子を窺う。相変わらず割と酷い顰めっ面で、何の面白味もない手のひらを見つめている。
 結局、コイツの頭の中なんて俺には分からない。
 答えの出ない思索など早々に切り上げ、ため息の後で口を開いた。
「説明、始めていいか?」
「いつでもどーぞ」
「……あんまり気分のいい話じゃねーぜ」
「聞く前から充分気分悪ぃから気にすんな」
 突き放すような冷ややかさだった。
「それとも」と言ってやっと視線を別のところへ向けたキッドは、俯きがちにキャンドルの炎を見ていた。
「やっぱり話さなくていいとでも言ってほしい?」
「いや……」
 曖昧に否定した後で思う。そうなのかもしれない。
 探偵として、何もできなかったのだ。関わった時には既に手遅れだった。巻き込まれ、翻弄され、助けたかった人も助けられないまま終わってしまった。
 温かい手が、散々ひっくり返された右手に重なって、まるで壊れ物に触れるみたいに、表情や口調とはちぐはぐの優しさで包んでくる。
「話すよ」と俺は言った。布一枚で隔てられたその手が遠いなと思いながら。







2

「春休みに入ってすぐの月曜だったから……六日前か。探偵事務所に、人捜しの依頼があったんだよ。四十代後半か五十代くらいに見える男性が『十日前にいなくなった私の娘を捜してください』って、必死に頼み込んできてさ。最初は乗り気じゃなかったおっちゃんが、例の如く金に釣られて安請け合いして……その後でよくよく話を聞いてみたら、いなくなったのは五歳の女の子だったんだ」
 失踪から一週間以上が過ぎてから探偵を頼ったことと、依頼人の年齢とを考え合わせたら、高校生くらいの娘に家出でもされたんだろう、と誤った見当をつけてしまっても無理はない状況だったと思う。何しろ依頼人は「とにかく捜してほしい」と繰り返すだけで、おっちゃんが依頼を引き受けるまで詳細を語らなかったのだ。
 娘の年齢を知ったのは、早速依頼人の家へ向かおうと張り切った小五郎が、事務所の電話でタクシーを呼んだ後だった。

「ご、五歳ぃ!?」
 迷探偵が目を剥いて素っ頓狂な声を上げる。人捜しならいいか、と関心を失いかけていたが、五歳の子供が一週間以上行方不明ということなら、事態はかなり深刻だ。ほぼ間違いなく何らかの事件に巻き込まれたのだろうし、最悪の可能性まで考えなければならない。
 おっちゃんも俺も揃って表情を険しくして、依頼人が話し始めるのを待つ。
「……十日前の、三時頃でした」
 憔悴しきった顔で彼は言って、小五郎に一枚の写真を差し出した。肩くらいの長さの髪をハーフアップにした女の子が、ワンピース姿で笑っている。
「その日は休みを取っていたので、妻が出掛けている間、私が代わりに娘を見ていました。家の前で遊んでやっていた時、仕事用の携帯に電話が入って……娘から目を離してしまったんです。ほんの数分でした。気付いたらいなくなっていて、そのまま……警察にも捜してもらっていますが、手掛かりすら見つからなくて……もう、名探偵の貴方に頼むしかないと……」
 藁にも縋るような思いで行き着いた先が、有名な名探偵の──などという誤解がメディアで広まって取り返しがつかなくなりつつある──眠りの小五郎、だったらしい。
 榛田柚恵。ようやく知った彼の娘の名前は、そういえば情報提供を求めるニュースで目にした覚えがあった。その子を見つけ出してやれたら、とは思う。しかし徒に過ぎてしまった時は長く、今さら探偵が乗り出したところで、取っ掛かりが掴める可能性は零に近い。依頼人は「とりあえず家まで来てください」と一歩も引かない。小五郎も一旦引き受けておいて今さら無理だとは言い出し辛いようで、「しかしですなぁ」などと弱り切った声を出している。
 行くとも行かないとも決め兼ねているうちに、タクシーは到着してしまった。
 俺は蘭の不在を理由にして、強引に後部座席へ乗り込んだ。いつにも増して苦い顔をされた。


 一時間半ほどでタクシーは国道を離れ、人気のない住宅街へと入っていった。総レンガ張りの外壁や大きな出窓を持つ家々の柔らかな色彩を、その間の築三、四十年は経っていそうなアパートがぼんやりとくすませている。
 小さな公園、通学路、通りの向こうに見える保育園らしき建物の屋根。
「春休みなのに子供がいないね」
 午後の日差しが降り注ぐ窓の外を見ながら、何気なさを装ってそう言った。子供が少ない地域、という訳でもないはずだが。
「私の娘が見つかっていないからでしょう。この辺りでは有名な話ですし、親が外に出したがらないんだと思います」
 助手席に座る榛田が答える。
 小五郎は普段と比べて明らかに口数が少ない。
「……嫌な感じだな」
 エンジン音に紛れるほどの声で、独り言のようにぼそりと呟いた。
「だから連れてきたくなかったんだよ」と続いたそれは、俺に聞かせるつもりもなかったのだと思う。
 まだ汚れていない白い外壁と、青い切妻屋根の小さな一軒家の手前で、「ここです」と榛田は誰にともなく言う。厄介事に首を突っ込みたくないらしい運転手は、こちらの会話の内容に一切触れないまま車を停めた。


 彼の妻にも話を聞いてみるつもりだったが、家の中もまた無人だった。妻はショックを受けて体調を崩してしまったから、落ち着くまで実家に帰らせた、と榛田が言う。
 窓際に置かれたピアノのせいか、少し狭く感じるリビングのテーブルに落ち着いてから、改めて彼の娘がいなくなった時の話を聞いた。
 彼が幼稚園まで娘を迎えに行ったこと、家の前で母親の帰りを待ち構えていたが、娘が待つのに飽きてそのまま遊び始めたこと、彼が電話に出る直前、娘は道端に座り込んで花を摘んでいたこと。
 電話を終えた後で娘がいないことに気付き、最初は家の中に入ったのだと思ったらしい。帰宅した時、鞄を玄関へ置いてすぐに外へ出ていたから、鍵もドアも開けっ放しだった。だから先に家の中を捜した。焦っていて、玄関に娘の靴があるかどうかを確かめることなど頭になかった。家中を慌ただしく見て回った後で、今度は外を捜した。この時も、もちろん電話を終えた直後も、怪しい人影などは目撃していない。車は一台も通らなかったと言う。警察は誘拐されたものと見て捜査しているが、犯人らしき人物からの連絡も一切ない。
 それから彼は自分を責めるための言葉以外は忘れてしまったかのように、後悔だけをとめどなく吐き出し続けた。私が目を離さなければ。あの時すぐに外を捜していれば。
 宥める役割は小五郎に任せればいいだろう。
 俺はトイレの場所を聞いてその場を離れた。教えられたドアを素通りして玄関へ向かう。今のうちに周辺をゆっくりと見ておきたかった。


 まずは家の前に立ってみる。湾曲のない一本道で、見通しはいい。道の先、六軒ほど住宅を数えた後にT字路がある。とりあえずそこまで歩いてみるか。
 相変わらず人影はなく、ただただ静かな町だった。
 何者かが少女を攫ったのだとしたら、一人でいるところを狙ったはずだ、と考える。たぶん、彼女は何かに興味を引かれ、自ら親の傍を離れてしまったのだろう。綺麗な蝶だとか、野良猫だとか。
 小学生の友人達と日常を共にしているから、分かる。子供は目当ての何かへ一目散に走っていってしまう生き物だから、油断すると見失っていることがある。
「止めても聞きゃしねぇ」と灰原に愚痴ったら、「事件を見つけて走っていくあなたも似たようなものよ」と呆れ声で返された時には、悔しいことに反論の言葉が見つからなかったが。
 思考が関係のない方へ流れがちなのは、十日前に何が起きたのかをあれこれ推測してみたところで、全く埒が明かないからだ。情報が少なすぎる。
 誰ともすれ違わないままT字路に着き、隣の路地に入る。似たような町並みが続いている。
 歩いてみて分かったことといえば、平日の昼間の静けさと、人通りがないことくらいだった。これでは警察が聞き込みをしても、何の成果も得られないはずだ。
 せめてこの辺りの住人に話を聞きたいが、一軒一軒訪ねて回るしかないんだろうか。

 人がいないことに不気味さではなく長閑さを感じてしまうような、穏やかな春の陽気だった。
 無為な散歩を続けているだけの自分がバカみたいに思えてきて、一旦、依頼人の家へ戻って小五郎達と合流しようか、と引き返し掛けたその時、女の子の声を聞いた気がした。
 何と言ったのか分からないほど微かな声だったが、訳もなくギクリとして辺りを見回す。
「だめだよ」
 今度は辛うじて聞き取れた。警告のような響き。上だ。
 すぐそばにあるアパートを見上げると、二階の窓が開いていた。ひょこりと覗いている小さな顔は、当然ながら捜している写真の少女とは一致しない。年齢は同じくらいだろう。真面目な顔で何かを伝えたがっている。
「あのね、ひとりでおでかけしたらだめなんだよ」
「どうして?」
「ゆびをとられちゃうんだって」
「指?」
「うん」
 思いもかけない答えに困惑して聞き返すと、少女は大きく頷いた。
 子供を外へ遊びに行かせることを嫌がった親が、脅すために作って聞かせた話かもな、と思う。指をとられるなどと言っては必要以上に怖がらせてしまう気もするけれど、何せこの辺りを誘拐犯がうろついている可能性があるのだ。親の気持ちは分からないでもない。
「それって、お父さんやお母さんに言われたの?」と聞く。
 予想に反し、少女は「ちがうよ」と言った。
「でも、みんな言ってるの」
「みんなって?」
「あさちゃんと、こうくんと、ななちゃん」
「友達かな?」
「うん」
「柚恵ちゃんって子は知ってる?」
「ううん」
 僅かな期待を込めた問い掛けには、あっさりと首を横に振られてしまう。
「じゃあ、友達のお家の場所は分かるかな?」
「ななちゃんちは、あっち」と言いながら、その子は俺が歩いてきた道の先を指差した。「あっち」ではどの家なのか分かるはずないのだが、ななちゃんという友達の名字や家の場所を教えてくれそうな母親は留守だと言うし、相手は幼い子供だから仕方ない。
「ありがとう」と返して、再び歩き出す。相変わらず人気もなく静まり返った町に、初めて気味の悪さを感じていた。

 一人で外にいたら指をとられる。最初に言い出したのは大人か、子供か。子供向けのテレビ番組や童話の影響で生まれた話ならいい。もしもそうでなかったとしたら、この地域に住む子供にだけ広まっている噂だとしたら? どうして指が出てくるんだ?昔、そんな事件があったんだろうか。柚恵ちゃんがいなくなったことと関係はあるのか。
 仮説や疑問は次から次へと浮かび、答えを出すにはまだ情報が足りない。とにかく他の子供からも話を聞かなければ。
 周囲への警戒が疎かになっていたことを自覚したのは、背後の気配に振り返った後だった。あまりにも遅すぎた。
 スプレーのようなもので霧状になった液体を吹きつけられ、抗い難い眠気に目蓋が重くなる。
 霞む視界の中、辛うじて捉えた男の顔には、この行為に対する興奮も恐れもなかった。通行人の顔で俺を見ていた。


 そこから先の記憶は曖昧だ。
 どれくらい眠っていたのかも分からない。気付いた時には冷たくて硬い床か、台の上に仰向けで転がっていて、目を開けたところで何も見えず、病院に似た消毒液の臭いと、腐敗しきった肉体が発するあの嫌な臭いを嗅いでいた。意識を奪うために使われた薬のせいか、頭の働きは酷く鈍い。
 両手首の感触から、頼りの時計型麻酔銃は奪われていないことが分かっても、目隠しと手足の拘束が厄介だった。両手が一纏めにされているならまだしも、恐らくは粘着テープで、床だか台だかにバラバラに貼り付けられては腕時計に触れることすら難しい。
 すぐ側で見張っていたらしい誘拐犯であるはずの男は、俺が目を覚ましたことを知ると、子供に接する時に大人が見せるような甘さは一切感じられない声で、用が済めばすぐに解放するから、騒いだり暴れたりしないでほしい、というようなことを言った。威圧的な響きではなかったが、下手に刺激したら殺されるかもしれない、とは思った。
 とりあえずは従順な子供の振りで、「用ってなに?」と聞いた。視線を鋭くしても目隠しの下なら気付かれない。
「君の指をくれないか。右手と左手から、一本ずつ」
 どの指にするかは選んでいい、眠っている間に切り落とすから痛くはないよと、男は常軌を逸した台詞を吐く。動揺するどころか妙に腑に落ちてしまったのは、先ほど聞いたばかりの少女の言葉が、耳の奥で甦ったからだ。

 ──ゆびをとられちゃうんだって。

 子供達の恐怖の対象がこの男だとしたら、生きたまま解放された被害者がいる、ということになるんじゃないか。
 どの指にするかと再度問い掛けてきた男に、考えたいから少し待ってほしいと伝えてみる。彼は激昂や焦りを見せる気配もなく、ただ待っていたようだった。

 この指がいいと告げた時、男は初めて感情の揺らぎを見せた。戸惑いと動揺とを乗せた声で、本当にいいのかと聞いてきた。いいよ、と答える。男はまだ躊躇した様子で黙り込んだ後、やがて、何か満たされたように、「左だけもらうよ」と囁いた。


 次に目が覚めた時には、既に病院のベッドの上だった。
 右手は不自由なく動かすことができたが、包帯でぐるぐる巻きにされた左手からは、指が一本減っていた。
 俺が眠っていた間の出来事と事件の顛末は、病室へ見舞いに来た柚恵ちゃんの父親と、高木刑事から──おっちゃん含め、他の大人達は話したがらなかった──それぞれ聞き出すことができた。
 途中から捜す対象を江戸川コナンに切り換え、聞き込みをして回ったり、馴染みの刑事に連絡を取ってみたりと依頼そっちのけで捜していたらしい小五郎達は、約五時間後の十九時半頃、俺を腕に抱いて歩いている男を見つけたのだという。男は、倒れていた子供を保護しただけだ、怪我をしているから病院へ連れていくつもりだったと主張したが、聞き込みで得た目撃情報と男の背格好が一致していたため、嘘をついているのではないかと疑いを掛けると、拍子抜けするほどあっさりと犯行を認めたらしい。布で圧迫止血されている俺の手を見た小五郎が、先に病院に行くべきだと判断し、近くの国道で運よく空車のタクシーを拾い、タクシーの中で通報して誘拐犯共々病院へ直行する旨を告げ、病院前で警察へ引き渡したのだ、と。

「毛利探偵は、噂通りの名探偵だったよ」
 話を終えた後で依頼人の榛田は言う。
「君のことも、娘も、見つけてくれて……」
 もし、もっと早く毛利さんを頼っていれば。
 そこで声は途切れたけれど、聞かなくても続く言葉は分かってしまった。
 
 ──娘は、助かっていたかもしれない。

 口にしても痛みが増すだけの無意味な仮定。


 犯人の自宅で、両手の小指が欠けた少女の遺体と、ホルマリン漬けで保管されていた左手の小指が見つかったらしい。どちらも捜していた柚恵ちゃんのものだった。
 家中を隈無く探しても、他には何も見つからなかったという。左手の小指も、俺の指も。
 指の在り処を詰問された男は、微笑むだけで決して答えなかったらしい。聞かずとも大体の検討はついているはずだが、高木刑事はそれを子供に言えるような人ではないから、「分からないんだよ」と眉の下がった顔で言って謝った。必ず見つける、とも言わなかった。







3

「で、動機も聞いとくか?」
 事件の話を始めてからは全く音を発さなくなった隣の男に、顔も向けないまま問い掛ける。答えは返ってこなかったが、どうせ元々話すつもりでいたことだ。俺はひとつ息を吐いてから、もう少しで終わる話を再開する。
「子供の頃、ピアノが好きだったんだってさ。ピアノを弾く綺麗な細い指に憧れてて、自分の指がそうなればいいと願ってたはずが、年齢を重ねるにつれて指への執着が歪んでいって、とうとうその指を自分のものにしたくなるくらい捻れちまって、犯行に及んだ、ってことらしいぜ。今回遺体で見つかった女の子の前に男の子を一人誘拐していて、どの指をくれるか聞いた後、その子の手が子供の頃の自分の手に似てたって理由で切り落とすのを止めて、無傷で解放してる。たぶん、その男の子が親には言えなかった体験を友達に洩らしたことで、あの辺りに住む子供達の間で、密かに噂が広がっていったんだろうな」
 一人でいる子供を見つけたらとりあえず眠らせて、隠しもせず抱えたまま徒歩で家まで運ぶというだけの、アリバイ工作もトリックもない犯行だ。人通りが少ない地域だったことと、堂々としていたことが幸いして発覚せずに済んでいたが、あのまま行き当たりばったりの犯行を繰り返していたら簡単に捕まえられただろう。
 俺は何もできなかったけれど、それでも、次に攫われた子供があの少女のように殺される可能性だって十分にあったのだから、俺が最後になってよかった、とは思っている。
 話せることはこれで全てだった。疲れ切っていて、隣を見上げることすら億劫だった。
 俺は、キッドがどんな顔で話を聞いていたのかを知らない。どんな顔を晒しながら、漸く口を開いたのかも、知らない。

「何か、あった?」とキッドは言った。
「……はあ?」
「それとも、俺に言いたくないことがあって、嘘ついてる?」
 一音一音に気を使って出しているような、慎重さを感じる声だった。
 そもそも質問の意図が解らず、「何を言いたいんだ」と困惑して問い返す他ない。
「おまえらしくないっつってんだよ。どの指を切り落としていいか、なんてとち狂ったこと聞かれたところで、素直にそれを考えて答えるような奴じゃねーだろ。俺の知ってる名探偵なら大人しく従ったりしない。言葉巧みに相手の素性やら動機やらを何もかも聞き出して自首させるとこまで持ってくか、その頭でとんでもない方法考え出して犯人気絶させてから警察呼んで事件解決、くらいのことするだろ」
「無茶言うなよ。ろくに動けなかったんだぞ」
「そういう状況でも無茶苦茶でえげつないことやるのがおまえなんだよ」
 俺は知ってる、と彼が言う。
「なくなってもいいと思ってただろ」
 いつもとは立場が逆だ。
 隠しておきたい部分を暴かれて、糾弾されそうになっている。
「……オメー、コソ泥やめて探偵にでもなるつもりか?」
「茶化してないで早く否定しろ!」
 右手をきつく握られる。荒げられた声は不自然に震えていて。
「頼むから……」
「……キッド?」
 俺はやっと彼の顔を見上げたのだ。
 どうしたんだ、と言い掛けた。言えるはずがなかった。声が出ない。
「そんな、大事な指なくすなよ……」
 彼には決して似合わない雫が、白い衣装にぽつぽつと染みを作っていく。
 いったいいつから泣いていたんだろう。どうして。どうすればいい。
 焦って思わず立ち上がった。俺の右手を握り締めていたキッドの左手には、もう力が籠められていなかった。
 何をしようとしているのかも見失いかけたまま、事務所内を回って目に付いたボックスティッシュを掴んで、彼の許へ戻る。
「……使うか?」
 キッドは数枚を纏めて引き抜きながら、躊躇いなくモノクルを外して脇に置いた。露わになった両目を乱暴に拭っている。
 おかしな夜だ、と思う。現実味が薄い。今度は盛大に鼻をかみ始めた怪盗の前に、ボックスティッシュを抱えて立ち尽くしているなんて。

「俺は」と、ぎこちない声を発した。
「大事だとは、思ってなかったぜ。なくなったっていいだろ」
 薬指くらい、と言う。
「いい訳ねーだろ!」
 涙目で睨んでくる男はまだキッドなんだろうか。
「なに考えてんだよ!」
「なにって」
「なに考えてたんだよ……」
 あぁ、また泣かれそうだ。俺に傷つけられたみたいな顔をしていた。身に覚えなんてまるでないのに。
「なぁ、キッド」
 いっそ全てを吐き出してしまえばいいのか、と投げ遣りに思って。
「前に、指切りしたこと覚えてるか?」
 と聞く。
 した、というかさせられたのだが。
「当たり前だろ!」
 ずずっと鼻を啜って彼が答える。
「名探偵は全っ然守ってくれなかったから、忘れられてると思ってたけどな!挙げ句、ちょっと目離した隙に怪我どころか指一本なくなってるし、自分の指なのに、どうでもいいものみたいに言う」
 苛立ちを隠そうともせず俺を責める声は、途中から悲しげな声に変わって、小さくなって。
「……どうでもいいと思えてたら、なくしたくもならなかっただろうな」
 自嘲するように呟いた。
 誰かが──俺まで対象に含んでしまっているらしい、不特定多数の誰かが──傷つくことを嫌う彼の優しさが、ただ、痛いと思う。お人好しで優しいから、コドモの身体で対処しきれない事態に直面した時は手を貸してくれる。落ちていくしかない時は受け止めてくれる。あの一方的すぎる約束だって、事件に首を突っ込んでは怪我をするコドモを心配したからこそ、言い出したことなのだと知っている。
「なくしたかったの……?」
 ショックを受けたような彼の声には答えずに。
「指をくれって言われたあの時、指切りのこと思い出したんだよ」
 誘拐の目的が指だと知った瞬間に考えたことを、ぽつりぽつりと言葉にしていく。
「……思い出しててそうなったんなら、質悪すぎるんじゃねぇ?」
「仕方ねーだろ。どんな約束したかってことじゃなくて、指切りしたこと思い出してたんだから」
「どう違うのか解んないんだけど」
 解らないままでいてくれたら、と思う。今からしようとしているのは、決してややこしい話ではないのだ。
 全く思い通りにならなかった心と、ありふれた感情の話。
「なくなっても困らない指は、小指なんだってさ」
 彼の表情を確かめながら話す勇気はなかった。不自然に目を逸らして、滔々と続ける。
「指なんて潰されたり引っこ抜かれたりしない限りは、元通りくっつけられるだろ。犯人は切り落とすってはっきり言ってたしな。だから、指一本犠牲にして犯人の目的を達成させれば反撃の糸口が掴めるかもしれない、せめて、解放された後にこの場所を見つけるための発信器くらいは仕掛けられるんじゃねーか、って考えて。機能的には必要ない指だって聞いたことがあったから、小指にしようと思った。そこまではよかったんだ。
 なのに、おまえと指切りしたこと思い出して……」
 口の端に歪んだ笑みが浮かぶ。
「おまえがあの時、手袋外してたこと思い出してさ……なくしたくないって思ったんだよ。自覚もしてなかった感情が割り込んできて、逃げる方法なんか考えられなくなった」
 長い間認めようともしなかった感情に負けて、探偵でいられなくなった情けない自分。
 そんなものに取り合っている場合ではないのに、俺はすっかり狼狽えてしまった。違うだろ、と何度も言い聞かせた。
 元の体に戻れる日がいつになるのか分からないまま、戻れるのかどうかも分からないまま、もうすぐ四月になってしまうけれど。工藤新一の時間が止まったまま取り残されて、追いつくこともできなくなってしまうけれど。

 ──いつか必ず、絶対に、死んでも戻って来るから……

 堪えきれず泣き出した蘭に江戸川コナンの声で伝えたその言葉が、決して忘れることは許されない、一番大切な約束だったはずで。
 俺は蘭のことが好きで、必ず戻らないといけなくて、戻ったらきっと周りに冷やかされながら交際が始まって、そのままいつかは結婚するんだろう。
 だから、おまえがなくせない、なくすことを許されない指は薬指だと、そう言い聞かせれば言い聞かせるほどに、未来が義務のように重たく感じて、苦しくなって。
「おまえと指切りした指をなくしたくないと思ってる自分に気付いたから、薬指なんかなくなればいいと思った」
 絡められた小指から伝わった感触や体温を覚えている指を、なくしたくないと思ってしまった。
 いつか指輪をはめることになる指も、約束も、いっそ捨ててしまいたい衝動に駆られて、俺はあの時、薬指を選んだのだ。
「最低だろ」と言う。後悔なんかしなかったし、何も解決しないのに清々した。
 キッドは黙っている。こんな酷い話を聞かされたのだから、当然のことだと思った。
「おまえを」と言い掛けて、躊躇って、言葉を切ったけれど。
 もう、言ったも同然なんだろう。言ってしまえ、と息を吸う。

「おまえを好きになってた俺は、きっと、らしくないんだろうな」

 途端、胸の辺りに鈍い痛みを感じた。
「……っ!?」
 拒絶されることへの恐れから生じた痛みではなかった。
 潰れかけたボックスティッシュの角が胸に当たって、地味に痛い。
 どうしてそんなことになっているのかというと、目の前の男が急にぶつかってきたからで。
 ──いや、信じ難いが現実を認めよう。
 目の前の男が、急に、抱き着いてきたからで。
「……離せ」
「無理」
「ティッシュの箱が当たってて痛いんだよ」
「んな些細なことで痛がるなよ。どうせなら手が痛いって言って」
「意味分かんねーよ。手も痛い」
 両手だって箱と身体の間で潰されかけている。
「っ、悪ぃ!」
 弾かれたようにキッドが離れて、それから、気まず過ぎる沈黙が生まれた。予想の斜め上どころじゃない反応をされてしまって、なんだかもう、全てにおいて意味が分からない。
「……ええっと……」
 先に口を開いたのはキッドだった。
「……そうだ、指輪いる?」
 そう言った彼がごそごそと懐から取り出したものを見て、
「いらねーよ」
 とりあえず呆れて即答する。
「盗品じゃねーか」
 新聞に写真が載っていた、ビッグジュエル付きの。
 昨日、三月三十一日の夜遅くに──それとも日付が変わって四月になってからだったか──盗まれた指輪で、キッドは盗んでもすぐに返すことが多いのに今回はまだ返されていない、というニュースを見て、とうとう目当ての宝石を見つけたのか、それとも他に理由があるのか、遅い朝食を取りながらぼんやりと考えていた覚えがある。
「この指輪の持ち主は長生きできるって言い伝えがあるんだぜ」
 キッドが言った。だからこそ期待もしてしまったけれど、と小さな声で呟いて。
 彼の事情に関わりそうな独り言には敢えて取り合わず、「胡散くさ」と短く返した。
「いいだろ別に。害はねぇんだから、何を願ったって」
 吹っ切れたように言ったキッドは、断られても指輪を引っ込める気はないらしい。
「数時間だけでも持ち主になってみれば?」
 ──つまりは代わりに返しておけということか?
 キッドは、俺が理由もなく抱えて続けていたボックスティッシュをぽいっと放って、左手を取ろうとして、包帯の白さにたじろいだように手を引いて、
「……ないんだっけ」
 遣る瀬ない声をほろりと零す。やっとほんの少しだけ後悔した。
 けれど、ここでまた指の話を蒸し返されては堪らない。俺は慌てて言葉を探す。
 そういえば、今夜顔を合わせた時も真っ先に、彼は「左手を貸せ」と言わなかったか。
「オメーさ、妙に左手に拘るよな」
 改めて疑問に思い、聞いてみる。
 キッドは、なんで当たり前のことを聞かれるのか分からないと言わんばかりの顔で、答えた。
「好きな奴に指輪はめるなら、左手の薬指選ぶに決まってんだろ」
「…………へ?」
「元々そのために来たんだよ。ほら、今日なら引かれちゃったとき冗談にできるし」
 俺が告げられた言葉の意味を咀嚼し終えるまで、ちょっと黙っていてほしい。今は処理能力が極端に低下しているから、どれくらいかかるか検討もつかないが。
 今日とはエイプリルフールを指しているのだということだけは辛うじて理解し、習慣で身に付けていた腕時計に目を遣る。午前二時四十分。
「……もうとっくに終わってるぜ」
「オメーがそんな怪我してなきゃ、日付変わる前に渡せたんだよ!」
「……それは、悪いことしたな……?」
「ホントにな」とキッドは力を籠めて言ったが、もう怒ってはいないらしかった。
 痛みはないかと確かめた後で、やっぱり左手に指輪を乗せてくる。困って顔を見ると穏やかに笑って、忘れられない夜を思わせる言葉を口にした。
「指切りしよっか」


 差し出した右手の頼りない小指に、力強くて、信じ難いくらい器用で、マジックという魔法を生み出す指が絡む。あの時と同じ、手袋のない手。
「もう、何もなくすなよ」
 とキッドは言った。
「ゆーびきりげんまんっ、嘘ついたら針千本のーますっ」
 いつかとは違う、間延びして弾んだそれは、キッドらしくない声だと思ったし、だからこそ彼らしいとも思った。
「ゆーび切った!」
 そんな、彼の呼び名通りの子供みたいな声が、堪らなく好きだと思ったのだ。








****

 現実味のない、何から何まで夢想じみていた夜も、日が昇ってしまえば呆気なく終わる。指切りの後でキッドは暇を告げ、まるで何事もなかったかのように、昨日までと変わらない朝を迎えた。唯一残った証である指輪も、言い訳に苦心しながら中森警部に返した。
 ──色々あった気もするけれど、キッドとの関係が変わることはないんだろうな。
 俺がそんな結論を出しかけた矢先、再び彼が──恐らくは素顔で──探偵事務所を訪ねてきた。戸惑いながらも何てことない会話を交わしたその日から、何故か毎日のように会いに来るようになった。青子が、紅子が、白馬が、とやたら個人名が出てくる日常の話をしたり、尊敬するマジシャンである父親の話をしたり、ホームズの話をにこにこと聞いてくれたりした。
 くだらない喧嘩はしょっちゅうした。
「俺が素手で触った指をそんなに大事に思ってくれてたってことは、裸で抱き合えば今度こそ怪我しなくなるってこと!?」とトチ狂った思い付きを口にした後で、おもむろに、「今日、家に泊まりにこない?」と誘ってきた男を、キック力増強シューズで容赦なく撃退したり──彼は誤解していたようだが、あれは断じて照れ隠しではない。
「俺はとっくに付き合ってるつもりだったのに!」と泣き崩れるそいつを見た時は、キッドの涙に驚愕して要らないことまで話してしまったあの夜をやり直したくもなった。意外と簡単に泣くのだ、この男は。
「指輪まであげたのに!」
「もらってねーよ!オメーが盗品押し付けてきただけだろ!」
「だいたいなんでいつもおまえ呼ばわりなんだよ!オメーのことだから、いい加減本名くらい分かってんだろ?名前で呼べよ!」
 名乗ったら名探偵が拗ねそうだから我慢してるのに、と涙目で言われ、ふざけるなと思う。
「情報多すぎて名乗ったも同然なんだよバーロー!」


 小さな友人達を始めとして、知り合いに見られていることも忘れて遠慮ない言葉のぶつけ合いになってしまう場面も、度々あったせいだろうか。なんでもそれは微笑ましい兄弟喧嘩のように見えるらしく、その場に居合わせた人達は皆、「コナン君、元気そうだな」と思ってくれるらしい。最近は腫れ物に触るような接し方をされることが多かったのだが、いつのまにか元通りに戻っている。
 こうなることを見越していたからこそ、毎日くだらない喧嘩ばかりしてしまうように仕向けられたのかもしれない、なんて、まさかな、と考えてみただけで、本気で信じてはいないけれど。


「最近楽しそうじゃない」と、揶揄を多分に含んだ声で、それでも心から安堵したような表情を浮かべている灰原に言われた時、初めて気付くのだ。例えば博士や灰原と顔を合わせることを避けていたり、元太達からの遊びの誘いを断り続けたり、工藤新一の声で蘭に電話する日を先延ばしにしたり、服部からの電話には出なかったり──そうやって、心から大切に想う人達をも遠ざけて、なくしかけて、知らず暗い場所へ落ち込んでいた俺のことを、快斗が引き上げてくれたのだということに。



2018.4.1


 
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