「それじゃ濡れるだろ、名探偵」
抱っこしてやる、と真顔で怪盗が言う。
「いらねーよ、つーか俺の傘も持ってこい」
使えねぇなぁとぼやいてみせる。
「入れてもらってる立場で偉そーなこと言うな」
口論じみたやり取りを飽きずに続けながら、怪盗と歩く雨の夜道。
たまにはこんな夜があってもいい。
腕時計は九時を回っていた。
ランドセルに入っていた予告状によると、警察やマスコミの前に気障な怪盗が現れた頃だ。
暗号は使われていなかったため、探偵の出る幕はない。
少し離れたビルの屋上までは、現場の喧騒も届かなかった。
ただの気まぐれか何かしらの規則性があるのかは知らないが、時折、キッドは探偵に予告状を寄こす。その頻度はてんでバラバラで、一度さりげなく問うてみた時には「貴方にお会いしたい時に渡すんですよ」とはぐらかされた。
渡すといっても手渡しされたことは一度もない。ランドセルやらポケットやら下駄箱やらに、ふと気が付くと入っている。末尾に落ち合い場所を添えて。
だからここで待っていれば、間違いなくキッドはやって来る。
取り繕い続けた表情がすっかり削げ落ちている。
こんな顔でアイツと会う訳にはいかないのに。
雲に隠れそうな月をぼんやりと見上げ、明け方の悪夢を思い出した。
それはもう最悪の夢見で、汗びっしょりで目を見開いて、ついさっきまで物言わぬ身体となって転がっていた大切な人たちに、にっこり笑って「おはよう」と言う。
ココロとカラダがちぐはぐで、そういえばこんな朝ばかり続いていた。
誰も彼も守るつもりでいるのに、無力さばかりを思い知らされる。
『心配すんなよ!ヤバくなったら俺がなんとかしてやっから!』
灰原との約束を破ってはいけない。
『いざとなったらコナン君が守ってくれるもんね!』
歩美の無垢な信頼を裏切ってはいけない。
『いつか必ず絶対に…死んでも戻って来るから…』
まるで呪いのような蘭への誓いを違ってはいけない。
たかが悪夢に怯える脆弱さなど、許されるはずがないのだ。
きつく唇を噛み締めて、鉄柵を握る手に力を込める。
情けない顔を晒せるのも今だけだった。
アイツが現れればいつもの探偵の顔を貼り付け、朝になればまた笑い、笑って笑って、夜が来て、それはいつまで続くのだろう。
気が遠くなりそうだと思った。
「…いたんてい?」
遥か遠い街の明かりを見ているようで、本当は何も見えていなくて、何も聞こえてはいなくて、訝しげな声に気付くまで、少し時間がかかったのかもしれない。
「名探偵?」
強められた声にハッと振り返る。
「!…、って」
途端、額とシルクハットの縁がぶつかった。彼の顔があまりに近すぎたせいだ。
ぶつかって弾かれて距離が開いた。
「…こ、今夜はずいぶん遅かったんだな」
気を取り直して言ってみる。
「中森警部と追いかけっこでもしてたのか?」
ポーカーフェイスはどこへやら、怪盗は困ったような表情を浮かべていた。
そんな顔を見ると調子が狂う。
眉を下げたままキッドは答えた。
「けっこう前からいましたけど」
返す言葉を失った。
「私のことを月だと思ってみるのはどうですか?」
畳み掛けるようにキッドが言う。
「弱音、吐いてみる気はないですか?」
「んなもんねーよ」
即答した。
「ないようには見えないんですけどね…」
ふむ、と顎に手を当てたキッドは、思索顔で少し黙った。
警察は既に追跡を諦めたのか、妙に静かな夜だった。
ポン
ややあって、この場にそぐわない音が鼓膜を震わせた。
雨の日ならしょっちゅう耳にする、勢いよく傘を広げる音。
「どうぞ」
頭の上に差しかけられ、訝って返す。
「雨なんて降ってねぇだろ」
「傘に隠れれば泣けるでしょう?」
すっと傍らへ腰を落とし、傘で子供を覆ったキッドは、癒すような声でそう言った。
「お前が帰ればいいんじゃねぇか」
そうすればいくらでもぼんやりすることができる。
そのうち沈んだ思考に疲れ切って、落ち込んでいることをバカバカしく思えるかもしれない。
「それは、できません」
キッドが傘の向こうできっぱりと答えた。
「危険だと判断した場合、無理矢理でも吐き出させないといけませんから」
「…なんだそりゃ」
異物飲み込んだ幼児じゃあるまいし。
茶化したのに彼の顔は真剣なままだった。
「飲み込んで、抱え込んでいるモノがたくさんあるんでしょう?貴方の、その胸の中に」
「………」
「だから、名探偵が少しでも楽になるまで、ずっとこうしているつもりです」
あんまり優しすぎる声に、返す言葉が見つからない。
「……なんで、」
結局、どうでもいいような問い掛けで、俺は話を逸らしてしまう。
「傘なんか持ってんだよ」
「今夜遅くは雨になるそうなので」
傘越しに再び空を見上げる。言われてみれば一雨きそうな雲だった。
頭上の傘は先ほどから微動だにしない。
「腕疲れるぞ」
「ご心配なく」
雨が降り出しそうとはいえ、降る前から傘を差そうと思う人はいない。
少し歩けば屋内への入口があるのに、わざわざ吹きっさらしの屋上に留まって、しゃがみ込んで傘を差しかける怪盗と、その下にいる子供。
端から見れば滑稽で、それから何よりも、と。
傘越しの真摯な顔を窺って微笑ってしまう。
思えば随分久しぶりに、自然と零れた笑みだった。
そのうち本当に雨が降ってきた。
ぽつりぽつりと傘を叩いていた雨音は次第に強くなり、それでも微動だにしない男に、少し呆れながら声をかけた。
「入れよ」
「泣いてません?」
「誰が泣くか!」
勢いよく否定してから溜め息をひとつ。
「というか最初から丸見えだったじゃねぇか」
これ、ビニール傘だし。
空が透けて見えたのも、彼の横顔が透けて見えたのも、つまりはそういうことだった。
「あ、バレました?」
濡れ鼠と化した怪盗は悪びれず笑ってみせた。
バレるも何も見れば判る。
「入れって」
もう一度促す。
にじり寄るように僅かな距離を詰めたキッドが、やっと傘の下へ入ってきた。
「止みそうにないですね、雨」
「これじゃ飛べねぇんだろ?」
お互いがはみ出すことのないように、しゃがみ込んだ彼と身を寄せ合って。
バカのひとつ覚えみたいにまた空を見上げる。
「どうやって帰んだ?」
「そうですね、一緒に歩いて、というのはどうですか」
腰を上げ、器用にも手に持った傘はぶらさないまま、一瞬で白スーツを私服に変えた男が、にっこりと空いた手を差し出した。
「ほら、相合い傘で」
素直に少し冷えた手を取った。
だんだん温もっていく彼の体温を感じながら、なんとなく、今夜は悪夢を見ないだろうと思った。
END
リクエスト内容は「Kコで、一人で背負い込んで、弱さを見せまいとする姿を心配するキッド」でした。以前にもリクで同じような話を書きましたし、別の選択肢もあったのですが…再挑戦してみたくて結局これを選んでしまいました。少しでもお気に召すお話になったでしょうか?
返品等受け付けますので遠慮なく教えてください。本当に、毎回リクエストしてくださってありがとうございます!
2012.9.24
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