人が、死にかける瞬間を見た。

子供たちのトラウマにならなきゃいいなと思ったりもしたが、それを抱える羽目になるのは明らかに俺だった。

この世界で誰よりも愛する人が、殺されかける瞬間を見てしまった。

どうしてこんなことが起きたんだろう。俺はただコナンとの息詰まる頭脳戦を満喫したかっただけで、命を脅かすトラブルも寿命を縮めるサプライズも望んだ覚えはない。

思い返せばそもそも今日という一日は、始めから妙に不運続きだった。



同じ音が聞こえる




俺にとって、あの名探偵がやってくる犯行日は大抵厄日になる。追い詰められておおいに冷や汗をかく、くらいなら全く構わない。それを楽しんでいる節もあるし。けれど、様々なレパートリーを持つ余計な事件の数々に俺まで巻き込むのは、本気で勘弁してほしい。
今日なんて、名探偵の幼なじみに警察へ引き渡されそうになった…のは明らかに俺のミスだが。ハイジャックに殺人バクテリアに爆弾とはどういうことだ。一般人ぽくビビってみせつつ、ここまでやるかと呆気にとられる思いだった。
この切羽詰まった事態にうんざりしていられたのは、バイオテロが嘘っぽいと感じていたせいでもあるけれど。
ここにいない名探偵がどうにかしてみせることを無意識のうちに信じていたからだと、数分後に俺は気付いてしまった。



「おまえらがやったのか?」

低い声で男が尋ねる。
テロリストに捕まったコナンと子供たちが、ラウンジへ連行されてくる。悪夢の始まりはこんなシーンだ。
コナンは予想通り爆弾を解体していたらしい。この短い間にそれだけやってのけた彼の手際は相変わらず見事だったが。

この展開は非常にまずい。

「やったのはボクさ。こいつらは関係ないよ」

コナンは怯える子供たちを守るように、あくまで強気な姿勢を崩さなかった。

おまえの気持ちはよく分かる。実際、解体作業をやったのはおまえだけで、彼らは手を出していないことも。
けどさ。もうちょっと上手い言い方があるんじゃないか?
ハイジャックグループのボスを相手に、コナンはどう考えても無謀すぎる。
これでおまえに何かあって、子供たちに消えない傷が残ったらどうするんだ。

爆弾を傍らに置いた男が距離を詰める。

「フン…」

子供たちは怯えて後退るが、彼は動きを止め一歩も退かない。
そんな名探偵の方がよっぽど怖いと思った。
何とか仲間を守ろうとするその姿が、いつもより小さく見えて怖かった。
とても、悪いことが起こりそうな予感がした。
けれど張り詰めきった空気に身じろぐことすら躊躇ってしまう。
何より俺の動きを止めるのは、テロリストを睨み上げている彼の存在。手も足も出せなくなる人質だった。

「…いい度胸だ」

大柄な男が、むんずとコナンの襟首を掴んで持ち上げた。
彼はジタバタともがくけれど、解放されることは叶わない。
男が大股で窓際へ近付く。
片手で窓を開け、ぶら下げた彼を…

「…っ!?」

即座に意図を察して血の気が引いた。

空中へ放り投げられたコナンの悲鳴が、あっという間に遠くなる。
瞬間、仕事も役柄も全て忘れた。彼を助けることしか頭になかった。

「コナン君っ!!」

彼の幼なじみが悲痛に叫ぶ。後を追いそうな勢いで窓へ駆け寄る。
足の速さなら彼女には負けない。

「待て!」

素早く前へ回り込み、右腕で彼女を制した後、台に足を掛け飛び乗ると、ぽっかり口を開けた空がそこにある。
俺は迷いなく飛び込んで、青の中へと落ちていった。







空と雲、強風、下は海。
何とかコナンを視界に捉えた。
抵抗風に翻弄される小さな体。
俺が捕まえなければ名探偵は間違いなく死ぬ。死は何人の上にも変わりなく訪れる。さすがの彼だって逃れることはできない。

「く、そ!」

腕を伸ばす。
届きそうで届かない。
この手が掴むのは空ばかりで焦りが募る。

「ぅわっ」

風に煽られてまた離れる。

このまま二人で心中というラストも悪くはないが、下が海なのはいただけない。水中に沈んだ遺体は間違いなく、俺の大嫌いな生物に食われてしまう。それだけは断固拒否したい。海が墓場だなんて冗談じゃない。
バカバカしいようなことを真剣に考え続けてみるのも、そうしないと正気を保てないからだ。
既にパニックを起こしかけていた。
冷静だったら空中平泳ぎなんて普通はやらない。
大真面目に空を泳いで距離を縮めると、汗に濡れた掌が辛うじて右足を掴んだ。
実感がない。まだ怖い。
更に体を引き寄せ、ギュッと抱く。この胸の中に、高ぶる感情のまま愛しい人を。



「…キッド…」

喘ぐような小さな呼び声が、確かに鼓膜を震わせた。
腕にかかる細い腕と指の感触。
助かったんだろうか、俺は、助けられたんだろうか。
そのまま雲の中へと突っ込む。
羽根を広げた。
風に乗って空を舞う。もう落ち続けることはなかった。

安堵の余り腕の力が抜けそうで、よかったとか大丈夫かとか、そんな言葉を口にしたら泣いてしまうと思った。



「まーさか窓から放り投げるとはなぁ」

結局口に出したのはそんな台詞で。
平常心を保て、と己に言い聞かせる。
せめてもの矜持で手の震えは止めた。
表情と声もいつも通りに取り繕えたはずだ。
ただ、異常なほど上がった心拍数をどうにかする術は全く知らない。

「どうする名探偵。このまま降参かぁ?」
「なわけねぇだろ!今すぐ飛行船に戻れ!」

尤も、ついさっき死にかけたことなど忘れたかのように平気でそんなことを要求する名探偵だって、脈拍数だけは俺といい勝負だった。

「無茶言うな。俺のハンググライダーはエンジンつきじゃないんだ」

それに今はまだ、あんな危ない場所へ名探偵を帰してやろうという気にはなれない。
ちっとも懲りていない様子の腕の中の彼を飛行船に戻したが最後、己の身を顧みない無鉄砲な行動を起こした挙句、またもや危ない目に遭うのだろうから。

「生きてるだけでもラッキーと思えっ!」

意地悪くニヤリと笑ってみせて、ジタバタするコナンと共に急降下。
行き先はとりあえず佐久島に決めた。街中に降りるよりはマシだろう。
高度を下げると一斉に蝉の声が聞こえる。非現実的な空の旅から現実へ舞い戻って、あぁ夏だったんだなと今更思った。
お互いの体温を感じることで落ち着いていった、ふたつの鼓動。離れてしまうのが少しだけ嫌だった。



「…っと」

滑らかに砂浜へ着地して、さりげなく優しく手を離す。
俺の腕から解放されたコナンは、こちらなど全く見向きもしない。
礼くらい言えよと思いつつ、彼の視線の先をたどる。
既に遥か遠い飛行船が見えた。






人生における最大の衝撃を、最近の俺は更新し続けている。その傍らには何故かいつもコナンがいる。
愛する者ができると弱くもなる、というのはこういうことを指すのだろうか。

山羊と戯れながらつらつらと考える。

すんなり納得できるような、少しだけ意味が違うような。







「おっまえなぁ…」

遠ざかる飛行船から視線を外し、携帯電話を取り出したコナンが、動物の気配に振り返る。
そして、あからさまに顔をしかめた。

「何でそんなに呑気なんだよ」

すっかり呆れ返った目で見られてしまったが。
何でそんなに冷静なのか、逆にこっちが聞いてみたい。ついさっき九死に一生を得たばかりじゃないか。

まぁ、大方事件のことしか頭にないのだろう。
すぐに事件のことへ頭を切りかえられる辺り、彼はさすが探偵だ。怪盗には到底できない芸当だ。

人生最大のトラブルに見舞われた後では、山羊に癒しを求めてしまうのも致し方ないことだと思う。本当はコナンに癒してもらいたかったのだが、「こんな時に何考えてやがる」の一言で一蹴されてしまった。探偵怪盗云々以前に、彼は絶対感覚がおかしい。



「…あぁ。爆弾と殺人バクテリアと、ハイジャック犯を乗せた飛行船が、そっちに向かってんだよ」

そんな名探偵は今、飛行船が向かう先である大阪の“服部平次”に電話をかけている。
次第に先程の衝撃から立ち直れば、彼の共犯者的ポジションにいる現状を面白く感じてきた。

「既に感染者も二人…」
「三人だ」

手始めに西の探偵との電話に堂々割り込んだ。

「え?」

この情報を知る由もなかったコナンが、通話口から離れてこちらを見る。

「水川っていうディレクターも、右の手の平に発疹が出た」
「…ってことだ」

説明を引き継いだ名探偵が簡潔に結ぶ。

「一応知らせとこうと思ってな」

どうしていきなりキッドの声がと、訝しく思う色黒男の姿が目に浮かぶようだ。何しろコナンはさっきから説明を省きまくっている。

「……ああ、今のところはな」

西の探偵はとりあえずコナンの身を案じたらしい。
携帯電話を肩に挟んで、検分するように両の手の平を見遣る。

その時、俺の抜群の聴力が、ヘリコプターらしきものを捉えた。

空を見れば姿が見えてくる。すぐに気付いたコナンも顔を上げる。

「あれは…警察のヘリだな。飛行船を追ってんのか?」

博士の発明品である高性能なメガネを使い、

「……警視庁」

文字を読み取ったコナンが呟く。

ニヤリと笑んだ彼の口元を、視界に入れて確信する。
彼は飛行船へ戻るつもりだ。例えどんな手を使ってでも。

「…わり!またかける!」

そして西の探偵と繋がっていた電話を、短い謝罪であっという間に切った。
多少、通話相手が気の毒に思えてくるほどだ。

今度は蝶ネクタイを取り出したコナンが、再び電話をかけ始めた。

「目暮警部、工藤です」

変声機で話す彼を見守るのも、なかなか新鮮で興味深い。

「今、愛知県の佐久島にいるんですが…飛行船を追って、警視庁のヘリが」

西の探偵との通話中に発見したそれを利用するつもりなのだろう。
さて、問題はいかに上手く言い繕って、コナンと見知らぬ男の二人連れが乗る許可を取り付けるか、だが。

「…ハイジャックの件は、知っています。そこで、警部にお願いしたいことが…」

彼はどんな手を使うのやら。

低い柵へと寄り掛かりながら、こっそり横目で様子を窺う。

「僕もそのヘリに乗せてほしいんです」

その台詞の、何かが引っ掛かると、思った。
たった今、電話で捜査一課の警部に頼み事をしているのはコナンで、けれど変声機で出している声は別人のもので。

「この、工藤新一を」
「…ん?」

つまりこうなってそうなって、俺にとばっちりが回ってくる訳だ。







「おい、どこに工藤新一がいるんだよ?」

砂浜に作られた木製の黒い箱の上、通称おひるねハウスのてっぺんで。
まるで救助を待つ遭難者のように、一心に空を見上げてヘリを捜す探偵へ、聞く。

「オメーだろ、工藤新一は」
「だーかーらー!」

苛々と彼が返す。

「俺に化けてくれって言ってんだよ!」

コナンが言いたいことくらい理解していた。

「ったく」

別にそれくらい構わないが、本日二度目であることを考えると多少げんなりする。
化けるに至った顛末もよくない。

「まーたオメーに化けんのかよ…」
「え…?」

思わず漏らすとコナンが不思議そうな顔で俺を見た。
慌てる。

「あぁ、いや」

真昼間にキッドの格好で名探偵と並んでいる、という有り得ない状況に、少々リラックスし過ぎていた。

「…手を貸すのはいいが、俺の仕事の邪魔すんじゃねぇぜ?」
「そいつぁ保証できねぇけど……」

コナンが気まずげにポリポリと頬をかく。邪魔する気満々だったようだ。

まぁ、邪魔してこない名探偵なんて、らしくないし物足りないしつまらない。

「なるべく努力するよ」

そこでニカッと笑われてしまえば完全に俺の負け。

「……へーへー」

勢いをつけて立ち上がり、しゃーねぇなぁ、とぼやきながら、一瞬の早着替えを披露する。

コナンは僅かに目を瞠った後、

「制服かよ。暑苦しい」

うんざりと文句をつけてくれたが。

「今はこれしか持ってねーの!」

怪盗が彼の制服を常備していることに関しては、何も突っ込んでくれなかった。

「クールビズをご所望なら下着だけでもいいんだぜ。どーせ変態扱いされんのはオメーだしなー」
「おい!」

からかいながら服に手を掛ける。
コナンが真っ赤になって喚く。

「お前その顔で脱ごうとすんな!!」

耐え切れなかったのか飛び掛かってきた子供と、板の上に転がってじゃれ合って。

「ちょっ!落ちる、落ちるって」
「また飛べばいいんじゃないか?」

名探偵は笑っていて、

「墜落するに決まってんだろ」

呆れながら俺も笑っていて。

このまま佐久島で事件を忘れて彼との時間を過ごしたいと、一瞬だけ思ってしまったけれど。



バタバタとスラップ音が聞こえてきた途端、コナンが身体を起こして、言う。

「ヘリだ」

一瞬で探偵の顔になっている。既にその頭の中には、事件のことしかないのだろう。
仕方ない。
コナンにとって大切な人たちは、俺にとっても大切だから。誰かを失ったコナンなんて見るのは嫌だから。俺も守りたいと思う。
仕事だってあるのだし、と、緩み切っていた気を引き締める。

ほどなくして、大きな音と風を引き連れたヘリコプターが、目の前の砂浜へと着陸した。







「そんじゃまぁ、グッドラックってことで」

色々と、本当に色々とトラブルに見舞われつつ、何とか戻ってきた飛行船上で、強風に吹き飛ばされそうな名探偵と共に入口を目指す。

船内への入口付近、どっかり座り込んでみせたのは、名探偵なら一人で何とかするだろうという思いもあったのだけれど。
建前抜きの理由はただたんに動けないだけだった。

――あぁもう。

好き勝手に散々煽りやがって。襲ってくださいっていうお誘いか?
いくら紳士と評される怪盗だって、こんな状況でなかったら彼を間違いなく押し倒す。
勿論、コナンにそんな意図がなかったことなど、残念ながら分かりきっている。



この後、まさか放り出されたままで終われるはずのない名探偵が、恐ろしい復讐劇を始める訳だが。
俺のことまで都合のいい手下くらいにしか思ってなさそうな名探偵への意趣返しとして、大事な彼女にちょっかいでもかけてやろうかと。
怒涛の展開を振り返りつつ企みを混ぜて、飛行船上で傍観を決め込んだ俺の口元は、にんまりと笑みを象っていた。



END

まず、完成するまでものすごく時間がかかってしまいまして…申し訳ありません…っ!
なるべくシリアスに、と言い聞かせつつ頑張りましたが、後半はシリアスさのカケラもない話になってしまいました…
色々会話の捏造もしているので、修正希望箇所がありましたら遠慮なく言ってください。
楽しいリクエストありがとうございました!
2012.8.20


 
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