引きこもりは不健康だからいいかげん外に出ろと言われた。

『貴方好みの事件が落ちているかもしれないわよ』

そんな言い様で半ば追い出された。
仕方なく惰性のように歩いてみる。誰かと擦れ違う度にありえないことを期待してしまう自分が嫌で、足は自然と人気のない方へ向かう。

外に出るのは久しぶりだった。けれど何の感慨も覚えない。
家の中にいても外にいても同じだ。そこに快斗がいなければ。


夕闇に雫



あまりに顔を合わせないことを不審に思ったのか、灰原が訪ねてきたのは一週間前のことだった。



「……何やってるの?」

見下ろしてくる彼女に、床へ懐いたまま答える。

「…見りゃ、わかるだろ」

情けない光景だったと思う。自分でも呆れる。
灰原は、もう見慣れてしまったと言わんばかりに眉を上げるだけで、驚きもしなかった。

「つまり、また寝食忘れて本を読み耽った挙句に、動けなくなったってこと?」
「いや…」

質問というより確認であるそれを、曖昧に否定する。

「まぁ、いいけど」

灰原は、深くは突っ込まずそう言って、とにかく何か食べなさいと差し入れを食卓に並べた。

「黒羽くんは何も言わなかったの?」

ぐらつく体を何とか椅子に収める。途端に聞かれたくなかった問い掛けが降ってくる。

「いつもなら放置なんかしないはずよね」
「………」

箸を握る右手が宙に浮いた。

「今週に入ってから見掛けないけど…
ケンカでもしたのかしら?」
「……」

少し口ごもった後、

「…いなくなった」

何でもないようにその言葉を告げる。

「……え?」

全然ダメだ。何でもないようには聞こえやしない。

「だから!黙ってどっか行っちまったんだよ」

自棄になって言う。今さら灰原相手に張るような意地もないだろう。

「最近引きこもってると思ったら、そういうことだったの」

彼女は一瞬だけ意外そうに目を瞠ったが、「これで納得できたわ」とすぐ言って、ますます呆れ顔になった。

「貴方まるで嫁に逃げられたダメ亭主ね」

「………」

確かに家事全般やら何やらを率先してやっていたのは快斗だし、同棲状態だったことも否定はしないが。
非常に不愉快な表現だ。反論できずムスリと黙るしかないから、俺はますます不愉快だった。



それから、一週間。
半ば無理やり栄養を摂取し、動かない体は元通りに戻ったけれど。その中身はいつまでも空のままだ。

気付けば、ぼんやり歩き続けたせいで、随分と家から離れていた。
疲れた足を止めて辺りを見回す。
賑わう商店街とは対照的に、野良猫が横切るばかりの裏通り。活気のある声がすぐそばから聞こえてくるだけに、取り残されたような物寂しさに襲われる。
夕日でセピア色に染まったこの街もいけない。色褪せた記憶を辿るかの如く、過去ばかりが甦って胸を締め付ける。

この道を、一度だけ快斗と歩いた。

俺がまだ、見かけは小さな子供で、“江戸川コナン”と名乗っていた頃。
確か、特に後味の悪い、救いのない事件現場からの帰り道だった。
事件で受けた衝撃も悲しみももう薄れたのに、つないだ手の平の感触だけは、今でもはっきりと思い出せる。



「コナンちゃんはさ、せっかくだから子供の特典もっと使えば?」

相変わらず唐突に現れた快斗は、俺に何か尋ねたりはしなかった。尋ねる代わりに軽い調子で、帰路の半ば、そう言った。

「例えば道端で甘えたっていいし、疲れたなら抱っこもしてあげるし、泣いたって構わないんだよ、誰も、笑ったりしない」

引いていた手を離して抱き上げてくる。額がぶつかるほど近くで目を合わせて。
包み込むように柔らかな声だった。

「…それを利用してお前が引っ付いてくるのはどうなんだ」

その声に負けてしまいそうな想いを抑え込み、やっといつもの憎まれ口を叩けば快斗は笑う。

「甘えられないコナンの代わりに、俺が甘えてあげてんのっ」

思い切り抱きしめてくる優しい両腕。離せなんて口だけで、回り切らない腕を広い背中に伸ばして。

俺が“工藤新一”に戻ってからも、快斗のスキンシップの多さは変わらなかった。
鬱陶しいほど傍にいる快斗から、置いていかれる日がくるなんて思ってもいなかった。

思い浮かべる記憶の全てが痛い。
子供ではなくなった、体も、もちろん手の平も。
あの日つながっていた右手が冷えて、空気ばかり掴むことが無性に悲しい。
同じ道を今、独りで歩いて、もう何もかも許される子供ではないのに。



…どうして今さら涙が出るんだ。







「何で泣いてるの?」

その時、素っ気ないほどの声が聞こえた。

「…っ!?」

ハッとして顔を上げる。
精一杯腕を伸ばしても触れられない距離を置いて立っていたのは、帽子を目深に被った一人の男。
顔は殆ど見えないが、不審人物だとは思わなかった。
なぜなら、俺はこの男の姿も声も何もかも、嫌というほど知っているから。

「…泣いてねぇよ」

顔を逸らす。
口元しか晒さない男が一歩踏み出す。

「嘘だ、泣いてる」

無遠慮に伸びてきた指は、意外なほどの優しさで目尻を拭った。

「ねぇ何で?」
「…うるせぇ」

振り払おうとした。
一瞬でも手が触れる前に彼の指は離れた。
体温を感じられる何かに触れることができれば、目の前の存在を信じられるような気がしたのに。

「こういうのは見て見ぬフリするのが常識だろ」
「そんな冷たい常識知らないね」

男が、望む答えを待って口を結ぶ。
お前がいなくなったせいだ、と。そんな答えを待っている。

「…お前にだけは言わねぇよ」

躊躇いは答えを迷ったからじゃない。
色々な感情が押し寄せてきて、うまく言葉にならなかったせいだ。

「何だよそれ。初対面なのに剣呑じゃん」

誰が初対面だ、ろくに変装もしていないくせに。
責められたって困るのはそっちだろう。
能天気男の顔を思い切り引っ張りたい衝動に駆られ、俯いて唇を噛み締めた。

「…ま、時間もないし、とりあえず行こっか」

こちらの憤りを分かっているのかいないのか。相変わらず呑気な声でそう言って、男が先に歩き出した。
彼のポーカーフェイスはなかなか見破れない。感情も見えない。判断材料が口元と声だけでは尚更だ。

「…どこに…?」

訝しみながらも後を追う。
ゆっくりとした歩調を保ちながら、想いは迷子になった子供のように必死だった。

―今はまだ、お前を見失いたくない。

「二人で出かけるといえばデートでしょ。付き合ってるんだし」
「は…?」

今日の彼は支離滅裂だ。会わない間に頭でも打ったのか、何かをはぐらかすための意図的なものか。
先ほど初対面だと言ってのけたその口で付き合っているのだと言う。見ているのは口元だけなのにデートなのだと言う。
呆気にとられている内に涙もすっかり引っ込んだ。



狭い道を並んで歩く。たぶん家に向かっているのだと思う。
不思議なことに誰とも擦れ違わない。
「そういや、最近この辺に出てる強盗のこと知ってる?」から始まって、近所の店の話やら明日の天気やら、世間話のレパートリーを使い尽くす勢いで彼は話し続ける。どうでもいい会話以外はしないでくれと、どこか牽制されてでもいるような。
「風、強いな」
「日が暮れたな」
唯一見える彼の口だけが開閉を繰り返してよく動く。俺は上の空の相槌を打つばかりで。

「……なぁ」

明日の気温予測と降水確率の話が終わった頃、初めてこちらから話を切り出した。

「ん?」

促すような声が返ってくる。やはり口元しか見えず表情が分からない。

「何でそんな帽子被ってんだ?」

ひとつくらいは尋ねてもいいだろうと思った。聞くまでもない質問だが。

「…デートの邪魔されたくないから。
ほら、俺の顔って女受けいいみたいだしさ」

本当は、何かから逃げている、または身を隠しているからだ。俺に話せないような目的のために。

「歩いてるだけでワラワラ寄ってくるんだよ」

彼は軽口を続ける。

「…へぇ」

自分から聞いておいて返すのは生返事。
お互い冗談だと分かっている白々しいやり取りだ。ほんの少しだけムッとするのは間違っているし、きっと彼の思う壷だろう。
俺が問い掛けたことで世間話を再開しにくくなったのか、どうでもいい話のネタが尽きたのか。彼の口は中途半端に閉じられたまま動かなくなる。
それっきり会話が途切れてしまった。



黙りこくったまま二、三分は歩いただろうか。大通りの手前で二人、何となく足を止める。この先には歩いてゆけないと分かっていた。
再び口を開いて彼は小言を言った。やっとありのままの感情が滲んだ声で。

ちゃんと寝てちゃんと食べろ、危ない事件に首を突っ込むな。

それは逢瀬が終わる合図だったから、何の答えも返さなかった。言い付けを守るつもりもない。寝食を忘れて本を読み、目についた事件を片っ端から解決してやろうと考える。幸い未読の推理小説は山積みだし、引っこ抜いた電話線を繋ぎさえすれば、協力依頼は幾らでも舞い込んでくる。

―心配して飛んで帰ってくればいいんだ、お前なんか。
どうせ今日だってそれで会いに来たんだろ?



「じゃあな」

別れ際、彼はそう告げて帽子を被せてくる。前も見えないくらいに深く深く。

「新一も目立つ顔してるから被っときなよ」

一瞬だけ懐かしいくせっ毛が見えた。慌てて帽子の鍔を上げた時には、既に姿は消えていた。



微かに汗で湿ったその帽子には、快斗の熱がまだ残っている。



END

2011.1.21



 
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