「…はぁ…っ、はぁっ…」
階段を勢いよく駆け上ってきたせいで、今もまだ息が切れている。汗が一筋流れ落ちて、夏の湿気が肌に絡み付く。
数時間前にニュースを見るまでは、すっかり忘れていたのだけれど。そういえば、今夜はキッドの予告日だと気付いた途端、何故か無意識に足が動いた。
それにしても、こんなに急ぐ必要なんて全くなかったというのに。
どうかしてると独りごちて、瞬く夜景を何の感慨もなしに見下ろす。
そうして漸く荒い息が整った頃、こちらへ向かってくる白い翼が見えた。
「来てくださったんですね、名探偵」
演技なんだか素なんだか。
逃走経路として予想した通りの場所へ降り立った怪盗が、嬉しげに笑う。
「最近なかなか顔を出してくださらないから。そろそろ私から会いに行こうかと思っていたんです」
いつも、おかしいだろうと思う。
コイツが普段どんな表情を浮かべていようと勝手だが。
少なくともこの笑顔は、探偵に向けていい類いのものではない。
今はコイツの笑顔なんか見たくない。
その温かさに心の中まで浸蝕されて、押し隠した本音が溢れてしまいそうになる。
「…俺は別に、お前の顔見に来た訳じゃねぇんだよ」
澱んだ胸の内を悟られたくはなかったから。
歓迎の言葉は全て無視して、盗ったもん返せよと上目に睨んだ。
「はいはい、勿論お返ししますよ」
なんなら家まで持って帰ってください。
ふざけたことを言いながら、キッドが宝石を投げて寄越す。
月光に煌めくアクアマリンは、綺麗な曲線を描いて手の平の上へ。
「バーロ。誰がんなことするかよ」
そう吐き捨てて踵を返せば、何故か後ろから深いため息が追い掛けてきた。
「…帰るんですか?」
「用は済んだからな」
惜しまれているのとは少し違う声音を、怪訝に思いながらも即答する。
「名探偵は、何をしに来たんでしたっけ?」
そう聞かれて一瞬答えに詰まった。
いったい何をしに来たのだろうか、俺は。
「…オメーが盗んだ得物を取り返しに…?」
何とか、尤もらしい答えを引っ張り出す。
「だったら、まだ用は済んでないと思いますけど」
もう一度溜め息をつきながらキッドが言う。
「はぁ?!」
宝石は今、間違いなく俺の手の中にあるじゃねぇか。
「よく見てください。それ、偽物ですよ」
「……」
確かに、覗き込めば透けて見えるお馴染みのマーク。
「貴方らしくもないですね」
「うるせぇ。紛らわしいもん投げてよこすな」
本物もあるんだろ?早く出せよ。
おおいにしかめっ面で投げ返した。
「何か…あったんですか?」
「別に」
気遣わしげな声で聞かれて、素っ気なく答える。
何があった訳でもないのに止まらなくなりそうな弱音を、誰が簡単に吐けるだろうか。
「…何もねーよ」
半ば自分に言い聞かせるようなつもりで、そう続けた。
「それなら何故、頑なに目を逸らすんですか?」
指摘されて思わずキッドを睨み据える。
「…っ…」
衣装が汚れるのも躊躇わずコンクリート上へ両膝をついたキッドと、まともに視線が絡んでしまった。
「名探偵…?」
探るような目で見られている。
捕まってしまったら絶対に逃げられない。
「…俺のことなんかどうでもいいだろ。宝石返すのか返さねぇのかはっきりしろよ」
突き出した手の平は、何の意味も持たずに所在無く固まる。
我ながら下手な話の逸らし方だと思った。
「……」
そうやって、痛いほどの視線でこちらを見るのはやめてほしい。
いくらかぶりを振ったところで追い払えやしない思考が、無力感を伴って責め立てる。
ずっとこのままなんじゃないかって、考え出すともう止まらないんだ。
慣れたような気になっていた子供の視線、腫れた目で笑う蘭の顔、俯いた時の淋しげな表情、慰める術を持たない小さな手の平…
『いつになったら帰ってくるの?』
蘭に電話するたび聞かれるけれど。
そんなの俺が、一番知りたい。
堪えられなくなって俯くと、不意に手首へ手袋ごしの熱を感じた。
「…なんだよ」
今度こそ本物を返す気になったのか?
「何でもないと、貴方が言い張るならそうなのかもしれませんね。それでも」
顔を覗き込まれて息を呑む。
至近距離に迫る、工藤新一によく似た顔。
「その瞳が、泣いているように見えて仕方ないのです」
辛いなら辛いと言えばいいんですよ。理由なんて考える必要はない。
「…お前まで」
真摯すぎる声に戸惑いすら覚えてしまう。
「そんなこと言うんだな」
昼間、灰原からも何かあったのかと聞かれた。彼女も本当は優しいから。
何もねぇよとごまかした後も、何か言いたげな目を向けていた。
「いったい何処が違うって言うんだよ?」
いつも通りだろと笑ってみせる。
俺の演技はそんなに下手か?
もっともっと、完璧に。弱さも痛みも見透かされないように。
これでもまだ足りないとお前は言うのか…?
「話したくないのなら、何も言わないままで構いませんけれど」
懇願するようにキッドが言う。
「せめて、そんな顔をして笑うのはやめてください」
そんな顔、と言われても。
浮かべていた笑みをどうすればいいのか分からずに、少しずつ表情が崩れていく。
「私にまで、平気な振りをして笑ってみせなくてもいいでしょう?」
頬を辿る指が優しすぎて振り払えなかった。
「貴方は、笑顔なんて滅多に見せてくれませんけれど。作り笑いをされても悲しくなるだけです。
…不機嫌そうにされている方が、私は安心しますから」
だからそのままでいいのだと、許されたような気がして胸が詰まった。
「…お前、変な奴」
「今更でしょ」
一瞬だけ素の雰囲気を出してキッドが笑う。
そして温かい声で続ける。
「たまには思う存分落ち込んでください。
あんまり平気な振りで無茶ばかりしていると、そのうち駄目になってしまいますよ。些細なことでバランスを崩して、そのまま壊れてしまうことだってあるのですから」
「…あぁ」
でも、呆気ないくらい簡単に救われることだってある。
数日前に見た夢を思い出した。透明になった夢だった。
俺はこんなガキだから、知り合いに声を掛けたって誰も気付かなくて、誰の視界にも入らなくて。目的地もないのに歩き続ける迷子。
幼い子供のように声を上げて泣き出しそうになった時、見つけてくれたのはたぶんお前だった。
キッドの指がそっと眼鏡を奪う。
それは間違いなく伊達眼鏡のはずなのに。
少しだけ世界が歪んで見えた。
今更、気付いたことがある。
何だかそれはものすごく認めたくない事実で。
「なぁ、」
さっき何しに来たのかって聞いただろ?
本当はお前に会いたかったのかもしれない。
そう伝えてみたらコイツは、いったいどんな顔をするだろうか。
けれど滲んでしまった視界ではろくに見えないし。
パタリ
コンクリート上に小さな染みができる。
どっちにしろ顔を上げられない。こんな顔は情けなすぎて晒せない。
回された腕が背中を優しく撫でる。
暑苦しいはずなのに不愉快でない体温が不思議で、やっと帰る場所を見つけた子供のように、その胸の中へと濡れた顔を埋めた。
END
リク内容は「少し疲れて、弱気になって沈んでいるコナン君。それでも、無理して弱さを見せまいと強がっている。それを見抜き、気遣うキッド」でした。
設定が気に入ったので頑張ってみたのですが…いまいち消化しきれていないような…
…こんな感じでいかがでしょうか…?
随分お待たせしてしまってすみません!
書き直し・返品等受け付けますので言ってください。
リクエストありがとうございました!
2010.7.16
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