己の血液は鮮やかに赤かった。
ふだん不健康だと散々言われていて――そう、憎たらしいショタコン男から――それで血液もそれなりに不健康な色をしているんじゃないかと、勝手に思い込んでいた。
意外だった。
最も健康を害してしまうような事態に、健康な肉体を実感するとは。
皮肉だ、滑稽だ。
だから、救急車に乗せられて意識を失うまでの間、ひたすら薄笑いを続けていた。
「自己犠牲精神って嫌いなんだよね」
眇めた目で快斗がそう言った。
その視線をベッドの上で受け止める。
「誰かを守る為に自分が傷つくとか、すごく納得できない。これは理屈じゃないんだけど」
血液を飛び散らせた刺し傷は、縫い合わされて包帯の下にある。
何針縫っただとか傷の大きさだとかは正直どうでもいい。
塞がったのなら何の問題もなかった。
病院に駆けつけた快斗は一瞬、泣き出しそうな顔で俺を見た。
最近、この同居人は泣き虫だ。
こんな些細なことで泣かれても、と思う。
学校帰り、蘭が捕まえようとして空手技を外した引ったくり犯が、居直ってナイフを出してきた。本当に物騒極まりない。
一瞬だけ怯んだ蘭と男の間に割り込んだのは、彼女を守らなければという本能と、もうひとつ。後ろめたさが確かにあった。
心を傷つけてしまったのだから、せめてその身くらい守らなければ。
待たせ続けた挙句に裏切ってしまった男として。
「残される恋人のことを何だと思ってんのかね、全く」
こちらが黙っていれば快斗は、更によく分からないことを嘆き出す。
泣きかけた後は怒っているようだった。
「…別に蘭は恋人じゃねぇぜ?」
今の俺に恋人はいない。過保護な同居人がいるだけだ。
尤も“江戸川コナン”という存在は…一応、目の前の男に多少なりとも愛されて、恋人として付き合っていたようだけれど。
他人事のように考えた。
「誰が蘭ちゃんのことだって言ったよ」
快斗の不機嫌な声が返ってくる。
「なに怒ってんだよ」
一応、義務として尋ねてみる。
「別に」
素っ気ない答えの後、彼は、
「ちょっと妬いただけ」
命投げ出してまで守ってもらえる彼女にさ。
口の中でボソボソと呟いた。
何を言ってるんだコイツは、と思う。
「おまえのためにだって投げ出せるぞ?」
――そうだな、むしろ、おまえのためなら。
快斗の愛する存在を自ら消してしまったと悟った時、思った。
蘭はまだ新一が好きだろうか。
コナンよりも好きだろうか。
『新一、ホントに帰ってきてくれたのね!』
一番喜んでくれた彼女から、寄せられる好意に縋りついた。
その癖、愛を告げられれば逃げ出すのだ。
違う。
コレは欲しくない。
頭の中に声が蘇る。
――コナンくん
甘く、優しく懐かしい響き。
あの子供に向けられていた純然たる母性愛が、己の望んだものだった。もう一度それに包まれてみたいと。
幼なじみの告白に、口ごもって答えられなかった男は、今更ながらに考える。
分からない。
誰かを愛するっていったいどういうことなんだ?
少し、見失いかけていた。
何を捧げれば愛してると言うに値する?命なら簡単に捧げられる。彼のためなら死んでいい。
「そうじゃなくて!」
快斗がもどかしげに言葉を紡ぐ。
「そういうことが」
けれど彼はそんなもの欲しくないだろう。
「言いたいんじゃなくて…」
言葉を探して、不意にその顔を歪ませ、
「……死なないで」
懇願する。
「俺は新一まで失いたくない」
失った誰かとは父親を指すのか、江戸川コナンをも含むのか。
聞かなかった。聞きたくなかった。
「……オメーはいちいち大袈裟なんだよ」
フイと顔を背ける。
「ちっとも大袈裟じゃないと思うけど?」
溜め息が聞こえて、沈黙して、再び躊躇いがちに、口を開く彼の気配を感じた。
「……こないだ言ってたことだけどさ、あれは違うよ」
三日前、おまえが好きなのは“コナン”だろう、と突き付けた時のことらしい。
あのやり取りが二人の間に、決定的な溝をもたらした。
「もう長年の習慣でさ、俺、本当におまえのこと大好きだったから。偶然会えないかなっていつも目でおまえを捜してたんだ」
快斗は意図的に名前を言わない。
不自然に感じるしかないほどに。
「大丈夫だよ、すぐ慣れるよ。新一がコナンだった時よりもっともっと長い間、おまえとは一緒にいれるんだし」
――じゃあ何で“コナン”の声を聞いて泣いたんだ。
真摯な声で語られた言葉を、俺はどうしても信じられない。
『本当に大好きだったから』
過去形で語られたそれが鋭く胸を刺す。
言い訳が成り立っていないことに、快斗は気付いていなかった。
彼を、たぶん誰よりも愛して、いるから。
証明するために差し出せるものは、ひとつも見当たらないけれど。
せめて些細な嘘くらい、見逃してやらなければならないだろう。
病室で盗まれたキスを拗ねたふりで受けて、場所を考えろと怒って。
「好きだよ」
彼が軽々しく残酷に、そんな台詞を投げてくる。
「あぁ」
同じ言葉は返せない。
恋人と言えない曖昧な関係。
「もう無茶なことしないで」
「あぁ」
やっぱり俺はこの嘘つきが、憎たらしくて堪らなかった。
END
2011.5.3
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