快斗が、夕飯の食材――当然の如く、魚介類ではない――と一緒に、何故か大量の林檎を買ってきた。
 飲み物を取りに来た時たまたま見つけた。

「こんなに買って、どうするんだ?」

 陶器の皿へ盛ってあるみずみずしいほどの林檎の山から一つ取り上げて、自分で剥いてみようなどと思ったのは、気まぐれ以外の何物でもない。
 己の不器用さを綺麗さっぱり忘れるのは例えばこんな時。



このまま死んじゃえばいいのに。




 いびつな四等分が出来上がって、芯を取り除いて、皮を剥きにかかったところで。

「ぅわっ」

 ザックリと。滑った果物ナイフが手の甲を裂いた。

 そういえば前にも気まぐれを起こして夕飯の支度を手伝った時。
 見事に指を切って、おまえはもう包丁握るなと、言われたような、言われなかったような。
 今更思い出してもすでに遅かったけれど。

 ――怒られんの、嫌だし。
 とりあえずコナンは隠蔽に走った。







 別の何かになったみたいに。冷水の中を漂って、消えていく。

「コナンー?」

 なかなか部屋へ戻ってこないコナンを不審に思ったのか、ひょいと快斗が顔を出す。

「て、おまえ何やってんの?!」
 それじゃー血が止まる訳ないだろ。

 焦った声で、引き離された。

「林檎剥いてたら切った」

 見つかったからには、下手な言い訳などしても意味がない。

「原因はキッチンの惨状を見れば何となく分かったけど」
 行動の理由を聞かせてくれない?

 傷口を押さえた快斗が言う。

 それは、隠すつもりで血を洗い流していたことも忘れて、すっかり見惚れてしまっていたからだ。

「綺麗だと思って」

 溜まった水に傷口を浸して、止まらない赤をいつまでも眺めていた。
 人の血を見ることなど好きではないけれど。こうして水の中を漂う赤を見ていると、何故だか無性に惹き付けられるのだ。
 幻想的で、美しいとすら思う。

「はぁ?!」

 痛々しくしか、見えないって。

 切って捨てられて、部屋に連行される。
 途中見かけたキッチンカウンターの上に、林檎は放置されたまま変色し始めていた。
 味は大丈夫だろうけれど、美味しそうには見えない。そもそも血を被った果物など食欲をそそるはずもないが。



「応急手当の仕方間違ってるんだけど」

 心臓より上にあげて圧迫だろ、と絆創膏を貼り付けながら快斗がぼやく。

「手当じゃなくて証拠隠滅してたんだよ」
 こんな切り傷、ほっといても治るだろ。

「それはそれで質が悪いような…」

 快斗はまだぶつくさ言っている。

 自分の痛みなど、今感じている以上でも以下でもない。だから何も、怖くない。けれど、他人の痛みは感じることができないから。
 当たり前のことだ。けれど、想像して、予測して、それはこの傷よりも酷く痛む。

「…コナンちゃん最近元気ない」

 また、ぼんやりしていたらしい。
 快斗の溜め息に顔を上げた。

 ばれているだろうとは思っていた。
 数日間母親が不在だから泊まりにこいと、些か強引に引っ張ってこられたのも、ひょっとしてこれが原因なのだろうか。

「何がそんなに不安なの?」
「………」

 きっと、夢を見るからだ。毎晩のように繰り返し同じ夢を。
 らしくもなく弱気になっている自分を、見せつけられるようで嫌だった。
 それは、組織を恐れているというよりも。

「…とりあえず何もかもおまえのせいだ」

 手当を終えた快斗が顔をしかめる。

「そりゃ聞き捨てならないな」
 どういうことだか説明しなよ。

 小さな身体が、背中から優しく包み込まれた。



 快斗と過ごす、この平穏で平凡な――と言い切るには無理があるかもしれない――日常が好きだ。いつまでもこうしてはいられないと、心の何処かで悟ってはいるけれど。

 この幸福は、もうすぐ壊れる。敵の足音と迫る影。

 快斗が血に染まる夢を毎晩見る。飛び起きて不安で、携帯をきつく握り締める。実際にかけたことはないけれど、たかが夢に翻弄されて、居ても立っても居られなくなる。

 大切なモノのために戦う。失いたくないモノのために。
 一人で戦えるのならよかった。快斗が無事ならばそれでよかった。けれどその腕は俺を掴んで離そうとしない。
 一人では行けない。きっと逃げられない。快斗は何処までも追い掛けてくるだろう。自惚れでなくこれは確信だ。
 実際にこの前は途中で追いつかれた。
 組織の手掛かりを掴んだから、気付かれないようにこっそりと行動を起こしたはずなのに。

『一緒に、行くよ』

 驚いて振り返ると快斗が立っていた。
 今更帰れなど言えない、そんな場所で。
 だからこんなにも恐怖に震える。

 今、世界が終わればいい。
 失う恐怖に怯えるくらいならいっそ、この腕の中で幸福のまま死んでしまいたい。なんて、勝手すぎること言える訳ないか。







「寝不足なんだよ」

 重たいおんぶお化けを引き剥がしながら言う。

「…それって俺のせいなの?」

 情けない顔の、快斗を笑った。
 騙されてなんかやらないと、ごまかされた不満も滲むような。

「当たり前だろ」

 今はまだこの中に潜む暗闇を、見せてやるつもりなど全くない。



2010.4.7


 
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