「…本気で、行くの?」

酷く抑揚のない声で快斗が言った。

「なんで…」

一体何処から洩れたんだ。

茫然として、煩いほどの蝉の声が聞こえなくなる。
冷や汗が背中を伝って落ちていく。

「さぁ?」

はぐらかした快斗の唇が笑みを象る。

「何せ俺は国際的犯罪者様だからね」

答えるつもりはないらしい。
理由を知ったところでこの状況が打開できるとは思えないが、それでも気になるのは探偵の性か。



行方を眩ますための準備を、着々と進めていた。組織の中枢らしき場所を見つけたから。下手したら一ヶ月以上戻ってこれないかもしれなかった。
今は都合よく夏休みだ。架空の“江戸川コナン”の両親へ会いに行くことにして、探偵団の面々からは呑気にお土産なんか要求されて。
この嘘が使えない相手には、何と伝えるか決めかねていた。灰原は共犯だから問題なし、服部は大阪だからいいとして、…快斗には。
いくら考えても答えが出なかった。これはいっそ黙って消えてしまおうと、開き直った矢先。
道端でばったり出くわして、しかもすっかり嗅ぎ付けられているなんて。
これ以上ないほどの不運だと思った。



僕のものにしたい




「まぁ、とりあえず俺の質問に答えてよ。行くの?」

「あぁ」

躊躇ったらきっと付け込まれる。
そう思うからはっきりと認めてやった。

「そんで?俺が笑って“いってらっしゃい”とか、そんなこと言うと思ってんの?」

その声が、途中で何度も鋭く尖る。
苛立ちを押さえ込もうとして、ことごとく失敗しているようだった。

「…言ってくれればいいと、思ってる」

「へぇ、そう」

冷淡な笑顔にぞくりとした。

「さすがに俺が反対することくらい分かってるんだ」

力強い手の平が手首を掴んむ。

「…ふざけんな」

押し殺した声と共に力が強まる。
潰されるんじゃないか、と不安になるほどに。
その勢いのまま、ぐいと引かれた。

「何処行くつもりだよ?」

子供の軽い身体では抵抗するにも限度があって、踏ん張り切れなかった足が引き摺られるままに進む。

「おい!」

何度も声を上げたところで、快斗は決して振り向かない。
数分と経たずに連れ込まれたのは、いつか一度だけ来たことがある、キッドの隠れ家のひとつだった。







ドアが閉まった途端、靴を脱ぐ間もなくベッドの上に放られて、噛み付くようなキス。頑なに閉じた唇の隙間から無理やり舌を捩込んで絡めて離さない。胸を押し返す両腕からは力が抜けていく。肺活量の違いを考えてみろと言ってやりたい。

「……はっ、…はぁ、はぁっ…」

濡れた唇が唾液を引いて離れるのを、朦朧としそうな意識で見送って、今度は盛大に咳込んだ。

「…っ、窒息させる気か…?」

何とか搾り出した掠れ声で聞く。
質問ではなく、非難だった。

「そうかもね」

苦しさから潤んだ瞳で睨みつけても、快斗は悪びれず平然と答える。
脱げた靴がベッドから転げ落ちて床にぶつかった。


「呼吸も自由も何もかも奪って、俺にお前を縛りつけて、俺だけのものにして、」

押し殺した声で快斗が言う。
そんなのおかしい。普通じゃない。

「…何処にも行けなくしたいんだ」

怒りで剥き出しになった欲望が怖かった。認めたくない恐怖に鳥肌が立った。

快斗を押し返していた細い両腕は片手で軽々と纏められ、頭上で押さえ付けられる。
その腕を撫でるように触れたのは、あの、夜目に鮮やかな赤いネクタイで。

「おい…なんの、真似だ」

それが両手首に巻き付いていくのを、為す術もなく感じていた。
酸欠で身体が動かないのだ。

「なにするつもりかって?聞かなくてもわかるよな、探偵くん?」

きつい結び目が痛みを伴って作られる。

「…は、なせよっ」

緩慢に足を蹴り上げて抵抗するが、それも簡単に封じられてしまった。
この後起こるだろうことが何も、分からないと言える、子供だったらよかった。

シャツのボタンに手が掛かる。剥ぎ取られたそれが床に放られるまで、本当に一瞬の早業だった。

「…お前、俺の歳…わかってんのか?犯罪だぞ」

剥き出しの背中に触れたシーツが、ひんやりとしていて小さく震える。
いや、寒いのは刺さるように冷え冷えとした視線のせいだ。

「なんで?」

下着ごとボトムを下ろされる。睨みつけることしかできない。

「同い年なんだから問題ないだろ」

「そういう意味じゃねぇよ、っ」
俺は今、子供で…



快斗とは付き合っているのだし、俺も中身は高校生だ。いつかはそういうことになると知っていた。けれどこんな目で見られたかった訳じゃない。こんな冷たい目で、それでいて未成熟な体を舐めるように。
視姦されているようだった。先ほどまでとは違う理由で体が震える。

「フーン…でも本当に子供だって言うなら」

「…ぅ…っ」

いつの間にか緩く勃ち上がったそれを快斗の爪先が弾く。

「キスだけでこんな風に感じたりはしないよな」

意地悪い声の主を羞恥から更にきつく睨んだ。
意に介さない手の平が体の線をなぞるように撫で上げて、また深く口づける。

「…それに、俺は元々犯罪者だ」
今更だろ。

そして口づけの合間に吐き捨てた。

「…ん…っ」

自嘲する声なんて聞きたくなかった。そんな顔するなと言おうとした。
けれど快斗が言葉を封じるから。


呼吸を許さないほどの執拗なキスがいっそ痛ければよかった。







「も、う…、やめろよ、っ」

「諦める気になった?」

今すぐ“逃げない”って言えばいいんだ、そしたら優しくしてやるよ。

ギッと唇を噛んでかぶりを振る。

「あっそ」

答えをしっかり見咎めた快斗は、好き勝手な蹂躙をまた始める。

悔しい。

その感情を自覚した瞬間に、きつく閉じた瞼がじんわり濡れた。
「泣くほどいいの?」と薄く笑う背中に、思い切り爪を立ててやる。
零れた滴を追い掛ける、唇だけは本当に優しいのに。

「こんなの嫌だって、そうやって泣いたらさ。俺が逃がすと思ってる?」

悔しい。ろくに抵抗もできないこの体が。こうして恋人の下に横たわって、震えているしかない無力さが。黙って送り出してももらえない頼りなさが。
悔しくて悔しくて堪らなかった。







「…っ、これで、気は…済んだ、だろ」

湿ったような荒い吐息が混ざり合う。
濡らされた感触が不愉快で顔をしかめた。
行為を終えた快斗は繋がりを解いて、体温の伝わらない距離で俺を見る。
滲んでぼやけた世界の中、暗く光る目を捕まえた。

「まだ、逃げたい?」

冷たい目をした快斗は笑う。
切れた息を言い訳にして、俺は何も答えなかった。

「…まぁ、どう考えても動けないと思うけど」

それは表情に相応しくない、何処か疲れたような声で。

「這ってでも出ていくって言うなら止めないよ」

やれるものならやってみろと吐き捨てて、爪痕の残る背中が部屋を出ていく。この手首に絡む鮮やかな赤はそのままに。
俺は皺くちゃになったシーツの上、ぐったり横たわったまま見送った。
やがて、シャワーを浴びる水音が聞こえてくる。

「…っ…」

呻きながらゆっくりと体を起こした。ネクタイの結び目に歯を立てる。拘束は呆気ないほど簡単に解けてしまった。

メガネはベッドサイド、それから。
床に目をやる。必要なものは全て落ちている。
汚れた体を適当にシーツで拭う。衣服を拾い上げて素早く着る。恐る恐る床へ足をつける。
這ってでも出ていくなら、と快斗は言ったが、何とか立って歩くことができた。

「一応、加減はしたみてぇだな…」

それともこの体が意外と丈夫なのか。

俺を一人にして部屋を出た快斗の、真意を思いながらぽつりと呟く。

ちゃんと玄関先に並べてあった靴を履いて、ドアノブに手を掛けた。微かな音を立てて扉が開く。
水音はいつの間にか止まっていた。
代わりに耳に届く蝉の声。
暮れかけた夏の陽が酷く眩しい。



快斗はいつだって俺のことを誰より理解している。もしかすると、俺自身よりも。

――お前、本当は分かっていたんじゃないか…?

最後の疲れたような声を反芻して思う。

無理矢理犯したって繋いだって何の意味もない。どんなに止めても無駄だということを、ちゃんと分かっていたんだろう?
そして結局は諦めて、好きにしろ、勝手にしろよ、と。
“いってらっしゃい”を言えないから、代わりに思い切り傷つけて突き放した。
それは俺にとって都合がいいはずで、けれど感じるこの心許なさは何なのだろう。
快斗が半分以上諦めていたとはいえ、怖いほどの目で縛り付けたいと語った彼に、逃げ出すという答えを叩きつけたのは俺だ。

――シーツの上に落ちたネクタイを見てお前は何を思う?

考えると胸が鈍く痛んだ。


――逃げる訳じゃない。お前を、裏切る訳じゃない。必ず此処に戻ってくる。

そんな言葉で信じてもらえるなら何度でも言うけれど、聞く気もない相手に言ってやる義理はないだろう。
快斗の顔は当分見たくなかった。強引で乱暴な行為を許すにはそれなりに時間がかかる。好都合じゃないかと笑う余裕まであった。

先ほどエレベーターの鏡に映った、酷い有様の顔を思い返してもう一度笑う。
部屋の窓を見上げてこっそり「またな」と言った。
真っ赤に腫れたこの両目は、たぶん前髪が隠してくれる。



END

2011.1.8


 
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