「辛いならやめてもいいんじゃねぇの?」
缶コーヒーを投げるついでの軽い調子で、真っ白いスーツの男が言った。
奇抜な恰好の彼が平然と立っているのだから、ここはコンビニ前でも自販機前でもない。缶コーヒーはシルクハットの中から出てきた。何故か温かくて気持ち悪い。
キッドは、やめてもいいと言った。許可されてやめられることとは何だろう。
首が痛くても見上げないと何も見えない。足が痛くても歩かないと何処にも行けない。笑えないと思っても笑わないと幼なじみの顔が曇る。
だったら何をやめろと言うのか。
「…生きるのを?」
軽口のつもりで返した言葉に、彼の表情が強張った。
不安そうなお人よしの両目が、遥か下にあるだろう地面と、柵もないビルの屋上に立つ子供を交互に見やった。
「…冗談だよ」
そもそも、そんな意味を含んだつもりはない。
「冗談に聞こえなかったんだけど」
気遣うような声は聞かなかったことにする。
一歩踏み出してキッドが距離を詰める。
そして。
「ま、どうしてもっていうなら付き合うぜ?」
目の前でニカッと笑って言ってのけた。
「お前に付き合えなんて頼んでねぇだろ」
呆れてしまう。
それ以上に、そんなことを言われる理由がわからない。
「名探偵を独りで逝かせる訳にはいかないんでね」
「どんな理屈だよ」
「お前がいなくなったら、誰も追っ掛けてくれなくなっちまうじゃねぇか」
「中森警部がいるだろ」
「俺は、」
軽い口論の末、きっぱりと言われる。
「お前に追っ掛けられてぇの」
目線の高さを合わせた顔が近くにあって、軽い口調に見合わない、思いの外真剣な表情を浮かべていて。
「ったく、だから冗談だって言ったろ?」
いつまで引っ張んだよ。
ふいと顔を背けて、逃げた。
「あながち冗談とも思えなくてさぁ」
横顔にキッドの視線を感じる。
「お前にはそんな究極の選択しかねぇの?」
必死で頑張り続けるのか、それとも、全てをやめてしまうのか。
「そういう訳じゃ、ねぇけど…」
ただ、何かをやめる方法が分からない。
――やめられるもんならやめたいさ。
俯いた視線の先、小さな掌。
現実はいつでも放っておいてくれない。
「ま、あんま無理はするなよ」
言葉を飲み込んでしまった俺を、あっさりとした一言で解放して、砂のついた両膝をパンパンと叩きながら、キッドが腰を上げた。
帰ってしまうのだと悟る。
時間切れだ。
パトカーのサイレンが聞こえる。
そうなるように仕組んだのは俺だ。
どうしようもない、矛盾。
何としてもキッドを捕まえたいという感情が変化したのはいつからだろう。今では置いていかれるのが嫌だと思っている。
こっそり伸ばした右手の中を、マントがすり抜けて翼に変わる。
やっぱりこの掌じゃ何も掴めない。
「またな」と言って、白い影が消えた。
手の中にはすっかり冷えた空き缶だけが残った。
翌朝、目が覚めるとケータイがメールの受信を知らせていた。蘭か、と思って少しだけ気が重くなる。
「……なんだ…?」
開いたそこにあったのは、見覚えのないアドレスからの写真付きメールだ。
今日は晴れだよ、という胡散臭いタイトル。おひさまマークの胡散臭い絵文字。
まぁ、ウイルスとか、そういう類いでもないだろう。ケータイだし。
少しの逡巡の後、開いてみた。
画面に澄んだ青空が広がった。
――確かにいい天気だ。
自分でも空を見上げてみたくなって、寝不足で重い体を起こす。
何となく画面をスクロールしながらカーテンを開ける。
「コナンくーん?ご飯できてるよ!」
「うん!今行く」
蘭の呼ぶ声に精一杯明るい返事をして、画像の下から現れた署名に、
「……キッド…」
驚いたような、納得したような、微妙な心持ちでケータイを閉じた。
アドレスを教えた覚えはないんだが。
次の日も、そのまた次の日もメールは届いた。写真は花だったり公園だったりした。そのたびに小さな季節の変化を知った。返信はすることもしないこともあった。
ついに自分撮りした写メが送られてきた時、その満面の笑顔が何となくムカついて、いや、そんな写真が届いたことが無性に気恥ずかしくて、給食に出た煮魚の写メを送りつけるという嫌がらせをしてやった。
割と本気の涙声で電話がかかってきた。
『めーたんてーの人で無し―』
ちなみに電話番号も教えた覚えはない。
「たかが魚の写真の一枚や二枚で人で無し扱いすんな」
魚、と口にした瞬間、電話の向こうで遮るように情けない声が聞こえた。たぶん俺の台詞なんて殆ど聞こえてないんだろう。
『せっかく名探偵の為にとびっきりの写真送ったのに…まさか嫌がらせしてくるなんて…』
恨み言を垂れ流してうじうじしている。
あれのどこがとびっきりの写真だ、と突っ込みたいが、それを口にすれば怪盗がますます機嫌を損ねてしまいそうで、ああ、もう、とにかくめんどくさい。
「わかった、俺が悪かったよ」
本当に心底めんどくさくなって、全く心の篭っていない謝罪を口にする。
『…本当に悪いと思ってる?』
「あぁ」
こんな風に彼が情けない声を出すと、絶対勝てないということに気付いてしまった。
『本当に?』
電話の向こうで怪盗が、疑わしげに質問を重ねる。
「マジだって」
『だったら…』
とにかく面倒なので適当に返事を返していたら、
『お詫びにこの後デートして!』
とんでもないことを切り出した怪盗に、あんぐりと開いた口が塞がらなくなった。
「…っ、はあ!?」
昼間っから怪盗と会う羽目になるのか?いったい何処で?
「あんな目立つ奴と会うのはごめんだ」
とりあえず断る。
『大丈夫だって。白じゃなくて黒着てるから』
「黒?」
『学ラン。写メにも写ってただろ?』
直視すらできなかったのだから、服装など認識しているはずがない。
『んじゃ、授業終わる頃迎えに行くから。約束な!』
「あ、おい!」
答えを探している内に、会話を切り上げられてしまいそうな気配を感じて、焦る。
「勝手に決めんな!」
『だって名探偵、服のこと以外文句言ってないじゃん。つまりデートに異論はないんだろ』
「ちょ、」
ちょっと待て、と言おうとした時には、とっくに電話が切れていた。
迎えにくるということは、今日は掴むことができるのだろうか。すり抜けるマントではなく、あの手を。
やめることを許してくれたあの言葉。何となく笑ってしまうメール。俯きがちだった顔を上げさせてくれた晴れた空。直視できなかった満面の笑顔。
あんなに苦しかった心が、気付けば軽くなっていた。
きっと「ありがとう」なんて言えないけれど。
力を抜くことを教えてくれた彼に、どうしようもなく会いたいと思った。
END
2012.8.18
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