俺がキッドを追い掛けていたはずで、なのに一体いつの間に、立場が逆転したのだろう。今では俺がキッドに追われている。
絶対に逃がさない、と彼は言った。
「俺から逃げられると思うなよ」
不敵に笑いながら宣言された言葉は事実で、どうやったら逃げられるのだろうかと、ずっとずっと考え続けた。大人しく待っていることなど、到底できそうにない男だった。絶対にどこまでも追い掛けてくるアイツを、どうすれば俺の戦いに巻き込まずに済むのか。
そして、悩み抜いた末に出した結論が、救いようがないほど間違っていたとしても。
おれ、は。
別れてくれと告げたのは夜だった。
最初は彼も冷静だった。表情ひとつ変えずに一言、投げつけるように返した。
「理由は?」
「元の姿に戻る。だから別れてくれ」
「何がどうなって“だから”なの」
全然理解できないと苛立った声を聞く。
「“工藤新一”が好きなのは蘭だ。だからもうお前とは付き合えない」
「…新一だってコナンだ。姿が変わったって気持ちまで変わるもんか」
「変わるも何もない。俺が好きなのはずっと蘭だけだった」
快斗は、いったい何を言われたのか、全く理解できないとでもいうように、ゆっくりと二回瞬いた。
「お前の好意を利用したんだ。この身体じゃあ不便なことも多いし、危険な状況を自力で切り抜けることもできねぇだろ?
「お前はこんな俺を好きだと言った。俺もだって答えてやったらバカみたいに喜んで、足代わりに使われても嬉しそうに笑って、惚れた男がこんな最低のエゴイストだとは夢にも思わないで…ホント、ハートフルにも程があるぜ。怪盗のくせに探偵の言葉を信じるなんてな」
嘲笑を浮かべたはずの表情は、歪んではいなかっただろうか。
「“工藤新一”を蘭に返したかった。そのために利用できるモノは何でも使った」
蒼白な顔で黙り込んでいた快斗が、ようやく虚ろな瞳で口を開いた。
「………俺、モノだったの?」
お前の目に映る“黒羽快斗”は、人じゃなかったのかと彼が問う。
決して見破られない完璧な演技で、最後まで嘘を吐き通すべきなのか。綻びを見つけてほしいのか。
青ざめた顔に、ぐらぐらと揺れる。
――俺は、何をしたかった?
快斗を失うのが嫌で、生きていてほしくて、死んでしまったらどうなるのかなんて考えることもできなくて、隣にいなくてもいいから、俺を嫌いになっていいから。
明日の夜には死んでしまうかもしれない人間を、好きだと思うのをやめてほしかった。刺し違える覚悟もなく潰せるような組織ではないのだ。
俺がこの世からいなくなった時、ざまあみろと思えるなら。お前が泣かずに済むのなら。
「俺は蘭が好きだ」
もう一度その一言を声にした時、まばたきを忘れた彼の目から涙が零れた。
「おまえには…」
なんて迫真の演技だろう。
こんなに痛いのに両目は渇き切り、平然と上っ面の謝罪を口にする、自分。
「悪かったと思ってる」
彼を死なせないためならば、傷ひとつ負わせずに守るためならば、心を傷つけた罪には問われないんだろうか。
真っ暗な部屋の中から遠い窓を見上げて、月を仰いで、思い浮かべた笑顔は霧散した。
目蓋の裏に傷ついた目だけが残るから、苦しくて会いたいと思ってしまう。
今なら全て嘘だったと、伝えることが正しいように思えてしまう。
いつも病的と言ってもいい程の必死さで、人の命を救ってきた。そして今救うべきは己の命だ。
一刻も早く脱出しなければ、ほぼ間違いなくここで焼け死ぬ。
階下は激しく燃えている。この部屋もやがて炎に包まれる。
考えられる脱出手段はたったひとつ。少し高い位置にある窓ガラスを割り、窓枠に両足を乗せ、飛び降りる。
無情にも下はコンクリートだが、更にここは五階だが、膨らませたサッカーボールをクッション代わりに使えば、そこまで酷いことにはならないだろう。
問題は窓に手が届かないことと、立ち上がる力すらないことだった。左足と肩を撃たれている。爆発で飛んできた破片の突き刺さった右足は使い物にならず、歩けないし、動けない。
それでも、誰かを救うためならば、火事場の馬鹿力とやらを発揮して、這ってでも前へ進んでいた。
それがいざ自分のためにとなると、1ミリも身体が動かない。必死になる理由が見つからない。
知らず手の中のものを握りしめて、その冷たい感触に震え上がった。
APTX4869の研究も行われている、組織の中枢機関に潜入した。今は全てが燃えている。消防車と警察を呼べない壊れた携帯電話も、薬のデータも、研究に携わっていた人々も。
統率力を失った上層部はこの場所を切り捨てた。屋上からヘリで逃走した。発信機を仕掛けておいたから、FBIが捕まえてくれるだろう。彼らもまた重傷を負っていた。
ヘリが空中へ浮いた瞬間にグラリと足元が揺れた。
爆音。
建物内へ引き返した時には既に遅く、階下は炎に包まれていた。灯油を撒いたのか屋上も燃えている。
何とか転がり込んだ物置のようなこの部屋の隅で、焼き殺されるのを待っている。
少しだけホッとしていたりもする。このまま炎が燃え続ければ、階下にいる人間の死因がはっきりしなくなる。
失血死なのか焼死なのか。どちらが決定的な原因となったのかを誰も知ることなく、全ては闇の中に葬りさられる。
機転を利かせて奪った拳銃を握る子供の手は酷く震えていた。
左肩を撃たれたせいで力が入らず、片手で支えるには重過ぎた。カタカタと震える指で引き金を引いた。
威嚇のための発砲であって、決して傷つけるつもりも死なせてしまうつもりもなかったのだ。
――ほんとうに……?
手の届かない窓から夜空が見える。ひっそりとした三日月と白い蝶。いや、鳩か。
近付いてくる白い鳥。
手を伸ばして触れてみたいなんてバカなことを考えて、立ち上がれやしないのにと笑う。
酸素が薄い。汗が滴り床を濡らす。赤い水と混じって水溜まりを広げる。
意識が朦朧とするのも無理はない。なるほど、人は死ぬ直前に幻覚を見るのか。
白い鳥は三角の翼に姿を変え、
――夢か。
飛んできた改造銃が窓ガラスを割る。
――夢だな。
なんて、都合のいい。
素早く羽を畳んで破片と共に飛び込んできた男が、胸倉を掴んで怒鳴って揺さ振った。
「なに諦めてんだよっ!!」
顔も腕も肩も切り傷だらけだ。パラパラと髪からガラスの粉が落ちる。
「とにかく逃げるぞ!」
背後に火の手が迫っている。
抱え上げられた時、力が抜け、ずっと握りしめていた拳銃が重い音を立てて床へ落ちた。男は驚いたように身体を揺らしたが、躊躇ったのは一瞬で、ガラスのなくなった窓から勢いよく飛び降りた。
どうやら翼を広げたらしい。途中から落下が緩やかになり、大した衝撃もなく地面に転がった。
荒い息を吐いている男に、いつ覚めるんだと聞いてみた。
「…はぁ!?」
男は素っ頓狂な声を上げる。無理もない。
夢の中の登場人物が、これが夢だと自覚しているのかどうかを考えたら、答えは否だ。
身体を起こして膝をつく。やはり立ち上がることはできない。
「これ、夢か幻だろ。じゃなきゃお前がここに来るはずがない」
そう、独りごちて、気付く。
――ああ、もうひとつ可能性があった。
妙に納得がいって呟いた。
「そうか、俺もう死んでんのか」
なかなか粋な計らいをしてくれる。幻覚を見たまま穏やかに死んでいけるなんて。
生きている間に余程いい行いをしたらしい。咄嗟には何も浮かばないけれど。
おかげで生きたまま焼かれるという想像もつかない最期を知らずに済んだ。いや、その前に一酸化炭素中毒で窒息死か。どっちにしろ苦しいだろう。有り難い。
ところでいつまで続くんだこの幻覚は。
「…っ、冗っ談じゃねぇ!!」
快斗は、いやキッドは血に濡れた顔を歪ませて、直後拳を振り上げた。
ごぉんと衝撃が伝わってぐらぐらと揺れる。再び地面に転がった。
現実の俺の頭に何か落ちてきたのかもしれない。夢とはいえしっかり連動している訳だ。よくできている。
そういえば彼は今なんと怒鳴ったのだったか。右から左へ抜けてしまったが。
もう、時間切れだからかもしれない。
そろそろ幸せな夢も終わり、視界が真っ暗になって快斗も消えて、俺は死んでしまうだろう。
その前に伝えておかなければ。
こんな形で快斗が現れたのもたぶん、未練が大きすぎたからだ。
「お前を、利用してたなんて嘘なんだ」
彼の顔をまっすぐ見て、そう言った。本物の彼には届かなくていいのだ。
頭の中で泣き続ける、あの夜の快斗の涙が止まるなら。
「会いたかった。お前が好きだ」
ポーカーフェイスを張り付けて嘘をついた時から言ってしまいたかった言葉を、自己満足に過ぎないと分かっていても、夢の中の、死が見せたのだろう幻の、昨日まで恋人だった男に伝える。
「ものすごく好きだ。お前を巻き込まないためならどんな嘘でもつくくらいに」
好きだったんだ。
ああ、スッキリした。これでもう何も心残りはない。
「嘘、ついて悪かったな」
そしてゆっくりと息を吐く。
まぁ、平均寿命と比べてしまえばずいぶん短いが、人を愛して、愛されて、充実した幸せな人生だった。
「ホントだよ」
不機嫌そうに言ってキッドの姿が消えた。
「というかアレ、やっぱり全部ウソなんだな?」
消えたのにまだ声が聞こえる。
瞬きを繰り返して目を凝らすと、黒い服に早変わりした男がそこにいた。
何だか夢を見ている訳ではないような気がしてきた。
「…快斗…、か?」
「他の誰かに見える?」
「いや、見えねぇけど」
夢だと思ってた。
ぼんやりと言う。
未だ現実だと信じることもできないのに。
途端、わしっと両頬をつままれた。
「いでででで…っ」
器用な指で限界まで引っ張ってみせる。
「これでもまだ夢だって言う?」
かぶりを振ってヒリヒリする頬を擦った。
現実だった。
今さら気付いて茫然とする。
「俺、今、最っ高にムカついてるし機嫌悪いし聞きたいことも山ほどあんだけど!」
苛々と並べ立てながら快斗は、素早く傷の応急処置をしていく。右足に刺さった破片を見て顔を顰めて、引っこ抜いたら血が出るか、とぶつぶつ呟く。
「先に病院連れてってやる。ありがたく思え」
そう言って、地面に転がったままだった死にぞこないの身体を、口調とは裏腹の優しさで抱き上げた。
ぬるつくのはどちらの傷から流れた血だろう。もう混ざり合ってしまって判別できない。
「だいだい、利用するために傍にいたんならさ、こんな時こそ助けてって言うべきだろ。でも、コナンは俺に助けてくれなんて一度も言ったことない」
詰るような声を聞き流しながら手を伸ばす。
簡単に彼に届いてしまった。白い鳥だと思ったお人好しすぎる男に。
「だから嘘だって気付けたんだよ」
あの時はショックでわかんなかったけど。ホント死ぬほどショックだったけど。
「なあ聞いてる?」と動く切れた唇を指でなぞれば、くすぐったいと言って快斗は顔をしかめた。
2012.5.31
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