『……もしもし…?』
窓の外が明るくなってきた頃、縋りついた機械から聞こえたのは間抜けな声。
その声に安堵でなく恐怖を感じた。
――もしもこちらが夢だったら?
現実は常に残酷なものだ、そうだろう?
満月の夜、午前三時過ぎの世界。眠っているうちに取り返しがつかなくなる。
早くここから抜け出さなくては。
届かなくなる前に俺は手を伸ばしたい。その手が血に染まっていても掴みたい。
力の抜けた手の平から、音もなく機械が滑り落ちた。
眠り姫はキスで起こすもの。
だったら、いつか起こるかもしれない現実から逃げようと、深い眠りに落ちた子供を起こすには?
そんなお伽話は読んだことがないから、俺は馬鹿のひとつ覚えみたいに、口づけを贈る以外なにもできない。
日の出と同時にコナンから電話があった。相手がコナンだと認識すらしていなくて、明らかに寝起きだと分かる声で「もしもし」と言った。電話はすぐに切れてしまった。だから着信履歴を見て相手を知った時は、ものすごく驚いてしまったのだ。
そもそも、コナンからの電話自体が珍しい。一方的な頼み事をする時以外でかけてきてくれたことなど、俺の記憶にある限り一度もなかった。それはなかなか寂しい事実だが、だからこそ一本の電話を怪訝に思ってこちらからかけてみた。もうすっかり目は覚めている。
Trrrr…
永遠と続く呼び出し音。コナンは出ない。
ベッドの上に胡座をかいて考えた。
寝ぼけて電話したなんてことは、彼に限ってありえないと思う。とすると考えられる可能性は。
――俺、昨日なんかコナンに言ったっけ…?
己の言動が彼にもたらす影響は、殊の外大きいらしいと知っている。けれどここ数日は特に変わった会話をした覚えがない。
よく考えろと一週間前まで遡って、コナンとのやり取りの全てを反芻した。
理由をある程度推測してから会いにいかなくてはならない。「何でもねぇよ」の一言で、おしまいにされては堪らないからだ。
三十分後、身支度を済ませて家を出た。
コナンに普段と異なる行動を取らせた理由。三十分考えてみても思い当たることがひとつしかなかった。他に何かないだろうかと、無駄に思考を巡らせた。
本当は、最初から何となく分かっていた。それを認めたくなかっただけで。
遠慮がちに鳴らしたチャイムは間の抜けた音を響かせ、まもなくエプロン姿の蘭ちゃんがドアを開けてくれた。
「…黒羽くん!?」
俺を見た彼女が目を瞠る。
人の家を訪ねるには、まだずいぶん常識外れの時間だった。
「朝早くからごめん。コナンに」
会いに来たんだけど、と言おうとしていた。その名前を口にした瞬間、彼女が途方に暮れたような顔をしたから、言葉が喉に張り付いてしまった。
「……コナンに何かあったの…?」
まさかいなくなったとか言われないよな。
不安に駆られつつ、当初の予定とは違う質問を投げる。
「…起きてこないのよ」
何でもないはずのことを、深刻な声で告げられた。
「って、寝坊?また夜更かしでもしてた?」
仕方ないからこちらで軽く受け止めて返す。何でもないことだろ、という具合に。
「そういうことじゃなくて…」
蘭ちゃんはすっかり困惑していた。
「…声をかけても揺さぶっても全然起きないのよ。具合が悪い訳でもなさそうなのに」
「あがっていい?」
何かを考えるより先に、そんな言葉が飛び出した。
それこそ常識外れな要望だが、蘭ちゃんは迷いなく了承してくれた。
「うん…」
黒羽くんなら起こせるかもしれないし。
どうぞ、と促されて室内に足を踏み入れる。眠そうに朝食をとる毛利探偵にも一応挨拶しつつ、コナンが眠る部屋へと向かう。
ただ眠っているだけなら何の問題もないはずだけれど。
元々コナンは朝に弱い方だ。でも、全く目を覚まさないようなことは今までに一度もなかった。起きてもしばらくぼうっとしているとか、そんな姿を見ただけで。
先ほどまで起こそうと試みていたのか、部屋のドアは開いたままだった。
確かにコナンは眠っている。とても静かに。
呼吸音が聞こえてこないから、動いているはずの心臓の鼓動を聞くために、その胸元へ耳を当てたくなった。
後ろに立つ蘭ちゃんが、コナンと壁時計を交互に見た。忙しいはずだ、朝のこの時間は。
「蘭ちゃんは支度とかしてていいよ。俺まだ時間に余裕あるし」
コナンのことは任せて。
振り向いて告げる。
「…そう?」
すっかりコナンの保護者代わりになってしまった彼女は、少し迷っていたが。
「…ごめんね」
結局、心配そうにしながらも部屋から出て行った。
そしてコナンは相変わらずぴくりとも動かない。声をひそめていた訳でもないのに。
どう考えてもこれは異常事態だった。
枕元に腰を下ろしてコナンを見る。
うなされてでもいるのだろうか、酷く憔悴した顔を。
昨日も一昨日も顔を合わせているというのに、どうして何にも気付けなかった?
目の下の隈、素っ気ないような態度。
『どうしたの?』
『本、読んでたせいで寝不足なんだよ』
『また?』
よくあることだ。尋ねてもそれだけで終わってしまう。だってコナンは。思い詰めた顔なんか俺には見せない。
「コナン?」
悪夢の中にいる彼に届けばいいと呼びかけて、額の汗を拭ってやる。
固く閉じた両目は現実を拒絶しているように見えた。後悔から深いため息が零れた。
失敗した。
判断を誤ったかもしれない。俺の勝手な思惑から始まった話は、予想以上に重く受け止められてしまった。
隠しごとをしているつもりはなかったし、いつか話そうとは思っていた。俺ばかり彼の事情を知っているのはフェアじゃない。
けれどそれより、こちらの事情を全て曝せば、コナンももう少し何か教えてくれるようになるんじゃないか。そんな思いの方が大きかった。
敵同士だった頃ならば、深い事情は知らない振りで、ただ一夜限りの心踊るゲームを楽しんでいるだけでよかった。だが、最早お互いの存在は好敵手の域を遥かに超えている。
恋人で、唯一無二で、誰よりも失うことが怖いと思う、例えば想像するだけで気が狂いそうなほどに。
だからもう一歩踏み込んでもいいんじゃないか、踏み込ませて欲しいと望んでいる。組織絡みの事件に巻き込まれる度に音信不通になるコナンを、ひたすら心配しているだけの現状はもう嫌だ。
恋人が一番苦しんでいる時に助けられないなんて絶対おかしいだろ?
巻き込みたくないと彼が言い続けるのなら、こっちから思い切り巻き込んでやる。
そう思って、何もかも打ち明けた結果がこれだ。
何もかも……ビッグジュエルばかり狙う理由、月へと得物を翳す理由、話すまでもなく彼なら分かっているだろうことも含め、最終的な目的までを全て。
コナンに話す機会は五日前の夜、キッドの犯行後にやってきた。
二人きりの逢瀬の最中にパンドラを狙う組織の下っ端が乱入、邪魔をされた腹いせにちゃっちゃと片付けた後、一部始終を見ていた彼から聞かれたのだ。
『あいつら、お前を追ってんのか?』
大体の事情は知ってるだろ、と俺は返した。
長い話になった。感情的になったりもした。コナンの顔が明らかに曇ったのは、オヤジの話をした時だったろうか。
『不老不死なんてくだらねぇことのために、人の命が奪われちゃたまんねぇだろ』
だから、オヤジを殺した奴らだけは絶対に許せねぇんだ。
俺は確かそう吐き捨てた。思いの外冷え冷えとした声になった。
コナンは黙り込んでいた。
あの時、何と言ってやればよかったのだろう。
微かに滲んだ殺意を読み取ってしまった彼に、どんな言葉を。
安心させるような言葉?嘘でもいいから?
彼は昏々と眠り続ける。
やっぱり相容れないんだろうか、怪盗と探偵は。結局、犯罪者でしかない俺は。
かつてコナンが言ったように、空と海でしかない俺たちは永遠に交わらない?
急にコナンを遠く感じて、冷えた小さな手を握る。
起きる訳がないと分かっていながらキスをして、
「…ごめんな」
何に謝ればいいのだろう?
耳元で小さく呟いた。
END
2011.1.24
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