この世界から誰一人味方がいなくなってしまったことを知った時、何かが粉々に砕け散った。
涸れない涙と責めるような瞳。俺を取り囲む世界の全て。
壊れた世界は戻らない。誰にも、戻せない。
本当に?
その瓶の中には数錠のカプセルが入っていた。大きさはどれも、ほぼ同じだ。
一錠だけ明らかに色が違う。だから口に入れるまで目を閉じる。ちょっとした運試しのつもりだった。
瓶の中身は残り一錠。もう目を閉じる必要もない。
なかなか運がいいなと笑った。耳に届いていたのならば、酷く乾いていたのだろう声で。
快斗はいない。彼は忙しい。
月明かりの下、怪盗として闇夜を飛び回った彼は、今や華々しく光を浴びるマジシャンだ。
置いていかれた、取り残された。勝手にそんな風に考えてしまう。
今朝、顔を合わせた時。
申し訳なさそうな表情で快斗は何かを言った。たぶん今日は遅くなるとか、そういう類いのことを。仕方ない、それで生計を立てているのだから。
ぱくぱくと動くその口が閉じてから、俺は何と答えた?
「俺のことは気にしなくていい」
快斗が心配を滲ませた顔で、なおも何かを言い募る。
「いや、俺も今日は向こうに泊まるから」
俺の言葉を聞いた彼は、やっと少しだけ安堵を浮かべたから、たぶんこれで正解だったのだろう。
寝不足で頭は働いていないというのに、快斗との会話は今まで解いたどんな暗号よりも難解だ。
その後、快斗より先に家を出た。
――そうか、ここは彼のいるあの家ではなかった。
快斗が工藤邸に居着くようになったのは、組織を潰しに行く数日前のことだった。
待ってる人がいた方が張り合いあるでしょ、と彼は笑った。
確かに、笑っていた。
何処にいるのかすら分からなくなるほどぼんやりしている。寝不足どころではなかった。一睡もできていなかった。
長い夜にはひたすら瓶を傾け続ける。
数時間後に届くだろうメール、110と現在地を添えて。机の上には一枚の紙切れ。
目を閉じて瓶の中身を減らす。一錠を除いて効果は知らない。栄養剤か何かだろう。睡眠薬なら眠りにつけるはず。
薬を飲み込んで、何も起こらないことを確認して。
繰り返して繰り返して朝になる。
送信される前にメールを消してしまう。紙切れを引き出しに入れる。
バカみたいだ。
ころり
瓶の中から最後の薬が転げる。
灰原には四時間後、メールが届くように設定してある。
件名に110、本文にはここの住所を。
ありふれたマンションの一室だ。対組織戦の前に泊まったことがあるから、彼女ならすぐに分かるだろう。
薬を掌に乗せる。かつて必死に捜し求めた、出来損ないの名探偵、APTX4869。
深い意味があった訳でもなく、一錠隠し持っていた。
もう一度、しかも自ら飲むことになるなんて、本当に夢にも思わなかったけれど。
何より大切な存在を、“江戸川コナン”を、快斗に返してやろうと決めた。
何度も伸び縮みを繰り返してきたおかげで、心臓はすっかり弱ってしまった。例えこの毒薬が初めて服用した時と同じ効果をもたらしたとしても、体が耐えられないだろう。よく分かっている。
メールに、手紙。万が一の可能性なんて端から信じていない。
ただ、心なら届くだろうか。“工藤新一”を殺してしまえば。
返してやろうとした俺を、お前は許してくれるだろうか。例えばここで息絶えても。
手の中のそれをコップ一杯の水で流し込む。
「…ぅ、ぐ……」
激しい痛みに襲われる。両手で胸を押さえる。体が縮む時と似ているようで異なる感覚。今まで感じたどんな痛みも、遥かに上回ってしまうほどの。
けれど、あの時の快斗の涙よりは痛くない。
支えきれなくなった体が床へと倒れ込む。
音の聞こえなくなった世界から、光までもが消えていった。
最早どうでもいいことだ。
もうすぐ何もかもが消えてしまう。
意識が途切れる寸前まで、快斗のことばかりを思っていた。
魔法を生み出す器用な指先、
双子のようによく似た顔、
通夜の後から聞こえなくなってしまった声、
それを悟られないように、必死で見つめ続けた唇、
笑い声に、
笑顔。
思い出すだけで痛みも忘れて笑うことすらできる。
途端、何か叫んだ。喉が痛い。
聞こえない。
体が、一回り小さくなったような気がする。
だって己の存在はこんなにも心許ない。“コドモ”だった時と同じだ。
俺は愛される存在に戻れたか?
目で見て、触れて、確かめることすらもうできないけれど。
快斗は、ちゃんと笑うだろうか。
“コナン”には笑ってくれるんだろう?
俺はこの身がどうなろうと。
お前が笑えばそれでいいんだ。
END
2011.1.26
title:MAryTale
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