「おまえの顔見るとホッとする」
相も変わらず読書中のコナンにコーヒーを出してやると、いつも素直でない彼にしては非常に珍しく嬉しいことを言ってくれた。
「……それはどうも」
唐突すぎるそれを聞いて、何か裏があるんじゃないかと、つい疑いを抱く悲しい性。
陶器のマグカップを両手に抱えて冷ますコナンは、俺の答えや戸惑いなど気に留める様子もない。
しばらく湯気を揺らし続けて、一口飲む。
「…誰かを覚えていることと、思い浮かべられることってイコールでは結ばれないと思わないか?」
また本を開いて読み始めるのかと思いきや、今度はよくわからないことを聞いてきた。
「どういう意味?」
本は膝の上に伏せられたままだ。
「例えば、道で知り合いと擦れ違うだろ、顔を覚えているからそれが知り合いだとわかる。けど、今その人物の顔を…瞼の裏に鮮明に思い浮かべろ、と言われたら?」
カップの中、僅かに波立つ水面を見つめながらコナンが言う。
「…ぼんやりとなら浮かぶんじゃないかな」
目を閉じて、それを試してみてから答えた。
鮮明に、は難しいかもしれない。顔ではなく、具体的にその人物の写った写真を思い出したりして、けれどそれは静止画でしかないから、どんなにはっきりと思い浮かべても、動きを与えた途端あやふやになって消える。昨日や、一昨日…少なくとも一ヶ月以内に会っていればちゃんと思い浮かべられるのだけれど。
「あ、でもコナンちゃんのことなら…どんなに長い間離れてても覚えてられるよ」
それだけは自信を持って言えるから。
「俺も、おまえのマヌケ面ならいつまでも覚えてると思う」
できればマトモな顔を覚えていて欲しいけれど、贅沢は言うまい。どんな顔だろうと、鮮明に思い浮かべてくれるのなら嬉しい。会えないでいる時、コナンも俺と同じように、記憶を反芻してくれるのなら嬉しい。
そもそも思い出すとか忘れるとか、そんな仮定は全く意味がない。会わなくなるつもりも離れるつもりもないのだから。
それはコナンも分かっているはずで、だったらこんな話を始めた意図はなんなのだろう。
彼の瞼の裏に浮かばない、曖昧に消えるそれは誰の顔?
コナンはまだカップの中身を見つめていた。
「……忘れかけてる、顔があるんだ。鏡にも窓ガラスにもカメラにも、写るのはみんなコナンだろ」
この、マグカップの中のコーヒーにも。
自分が一番遠いのだと言う。遠い昔、会ったきりの知り合いのように。
「だから、おまえの顔見るとホッとする」
僅かの甘さも含まない結論。
ホッとする、安心する。裏を返せば、それまで彼は不安でいるのだ。ふと目を閉じて、曖昧な影を追い掛けるたびに。
切なくなってコナンを見つめると、細い指で両頬を軽く引っ張られた。
「ま、俺はもっとマトモな顔してたけど」
そう言って、一度置いたマグカップを再び手に取る。
そしてまじまじと俺を見た。まるで鏡を覗き込んでいるかのように。
何となく動いてはいけない気がして、無機物へ向ける瞳の前で固まった。
数秒後に、ぱちりと瞬き。
一瞬でいつも通りの彼に戻る。
「前から思ってたんだが…」
「なに?」
ホッとした俺は短い問い掛けを返す。
「おまえが化ける“工藤新一”は、見た目以外全くの別人だな」
「…そう?」
怪盗のプライド的にちょっと引っ掛かる指摘だった。
「しっかり演じてるつもりなんだろうが、顔とか言動がまるで違う。俺はおまえほど気障じゃねぇし」
コナンはムスッとして更に言う。
自覚と他者の認識の間には決して埋まらない溝があるんだよ、と思ったけれど、言わなくてよかった。
俺には苦いコーヒーを飲み干したコナンは、今度こそ甘い台詞を呟いた。
照れ隠しに俯いて早口で。
「まぁ、
似てないからおまえが好きなのかもな」
堪らなくなって触れた唇は当然、苦かったけれど。
砂糖のようにキスが混ざれば、ちょうどよく仄かに甘くなる。
「…っいきなりなんだよ」
「あんなこと言われたら当然でしょ」
「だからっておまえな、…ん…」
抗議には笑うばかりでまた唇を寄せた。
薄れていく記憶に、顔に、“工藤新一”という存在に。不安を覚える彼の苦さも、キスに溶けて少しずつ消えればいい。
END
2011.2.7
[ back ]