「初めて怖いと思ったんだ」
かれこれ数十分は背中を向けたまま動かない男が、それでも「何が?」と素っ気なく返した。
「死ぬこと」
快斗は答えない。
黙って続きを促すような背中。
「…オメーは後追いそうな顔してたし」
「コナンが目覚まさなきゃとっくに追ってた」
恐ろしいことをさらりと言う。
冗談じゃないと深いため息をつけば、更にその数倍は深くて重そうなため息がつき返された。
救急車のサイレンを聞いたような気がした後、気付けば白い天井の病室のベッドの上にいた。
何度か瞬きを繰り返したせいで、快斗のホッとしたような顔を見逃した。
視界がはっきりした時にはきつく睨みつけられていて、馬鹿だのふざけるなだの永遠と続きそうな叱責を受けた。
やっと謝罪を挟む隙を見つけて一言、
「わりぃ」
と言った。
快斗は拗ねた子供の顔を見せて背中を向けてしまった。
そういえば、彼の目の前で“こんなこと”になったのは、ずいぶん久しぶりのような気がする。珍しいと言ってもいい。
快斗の顔を見ながら意識を失うということ。まるで死ぬのは自分だとでもいうように、光を失った瞳を見ること。
『何で守ろうとしねぇんだよ、自分を!』
自己防衛本能とかあんのかよ!?
悲痛に喚いた彼の言葉を反芻する。
どうしようもないんだと、そう思う。たぶん。
熱い物に触れてしまったら、火傷をしないようにすぐに手を離す。それが普通の人間の反射なら。
炎の中に人影を見つけたら、迷わず救いに飛び込むのが己の反射で。
うっかり命を落とさない為、授けられたのがこの頭脳と運動神経で。
――そうやっていちいち動揺するオメーだって、似たようなもんだろ?
火に油を注ぎたくはないから、今は何も言わないけれど。
どうしようもない堂々巡りだと知りながら、相手の無茶のたび激昂する、互いが滑稽で何だか笑えた。
そもそも、死ぬかもしれない、と思ったことすら殆どなかったのだ。
どんなに追い詰められた状況であろうと、諦めなければ死ぬことはないと盲目に信じた。
それは一応人間だから、一度だけ諦めたこともあったけれど、バーチャル空間での感情は現実味に薄く、きっと快斗もあの事件の詳細を知らない。
とにかく、こんな怪我で死の恐怖を味わうなど有り得ないことだった。
臓器も神経も傷つけようもない部位の刺し傷、貧血を起こすのはやむを得なくとも、取り乱すまでもない量の出血。
原因は全て目の前の男にあった。
心は弱くはなかったはずだ。
少し前まで隣にいた、数分前まで話していた人間が、あっさり殺される残酷なこの世界で。
むしろ、麻痺しかかっていたのだけれど。
自分がいなくなった時、こいつはどうなるんだろう、と思ってしまった。
何も変わらないなんて流石に思えなくて、意識を失う前に見た彼の顔が、どうなってしまうのかを雄弁に語っていて。
『コナン!?コナン!目、開けてよ…コナン…っ』
しつこいくらい縋る声が今も耳から離れない。どうしてくれるんだ。
怨みがましい本音を零した。
「初めて怖いと思ったんだ」
あんな顔されたら怖くもなる。
「そもそも初めてって…絶対おかしいだろ」
先程よりは軽くなったため息混じりに快斗が言った。
絶対などとつけられて多少ムッとしたから逆に聞いてみる。
「だったらお前は怖いのかよ?」
――お前こそ怖がってなんかいないくせに。
反撃のため続けようとした言葉は、
「もちろん怖いよ」
彼の即答のせいで行き場をなくした。
快斗は言う。
「だって俺が死んだらコナンちゃん泣くでしょ」
「誰が、」
お前のためになんか。
深く考えもせずにそう返してしまったのは、さも当然のことのように断言されると逆らいたくなるからで、つまりはこれも反射だった。
――快斗が、いなくなってしまったら。
本当は考えたくないから、知らない。分からない。
「…そこは嘘でも泣くって言うとこだろ…」
「嘘だって分かりきってる嘘ほど虚しいもんはねぇよ」
怨みがましげな快斗にしらっと返して視線を外す。
「それは、そうだけど」
やはり快斗は不満そうだ。
とはいえ本気で拗ねている様子でもない。
ぷつり、会話が途切れると、車の行き交う音ばかりやたら耳についた。近くに大きな道路があるのだろう。
そういえば、ここが何処の病院なのかすらまだ知らない。
かといって今すぐ知る必要もないだろう、と散漫な思考を止めた。
「…ま、怖いってことに気付いてくれたなら、」
少し経って、快斗が言う。
「よかった」
そんなによくもなさそうな苦笑いを浮かべながら。
「安心した。ほんの少しだけ、だけど」
「…よかった?」
引っ掛かって、聞き返す。
快斗が頷く。
「だってこれからはあんまり無茶しなくなりそうだし」
怖いってことに気付いたんならさ。
それのどこがいいんだよ、と思う。
「ちっともよくねぇよ」
「なんで?」
「その分、弱くなっちまうだろ」
ただでさえ力のない存在なのに、これ以上の弱さなどかけらもいらない。
俺は、強くないといけない。体が子供ならばせめて心だけでも。
「…だいたいお前が悪いんだ」
枕元に腰掛けた男を睨みながら言う。
「俺?」
心外そうな声が返った。
「たいしたケガでもないのにいちいち泣くな」
この男が泣くから事態が重くなるのだ。
「…たいしたケガじゃないって…?」
ちょっと、失言だったかもしれない。
格段に低くなった声を聞いて、少しだけ数秒前の己の台詞を撤回したくなった。
「それがたいしたことないんなら、いったい何をたいしたケガって呼べばいいんだよ!?」
せっかく穏やかな会話に変わっていたのに、再び喚かれてうんざりする。
ほんの少しだけの後悔が持つ力などたかが知れていて、彼に負けじと言い返した。
「とにかく!」
謝罪ならさっき既に終えた。もう一度謝る気は起きない。
「これからは俺が死にかけた時だけ泣け!」
「…また死にかけること前提なの?」
もはや怒るのもバカバカしいと言いたげな声で、快斗はわざとらしくうなだれてみせた。
いいじゃねぇか。死ぬとは言ってねぇんだし。
と、言い返すのはさすがに思い止まった。
「あーぁ」
今日一日でいったい何度目になるのやら、またもやため息を吐いた快斗が諦めたように笑う。
「もうコナンちゃんは好きにすればいいよ」
ぺたり、と床に膝をついて、ベッドには両肘をついてこちらを見上げる。
「俺のせいで怖くなったって言うなら、責任とって今度こそ守るよ」
お前が絶対死なないように。
ちょっと認識が変わったところで、結局のところ自分が死ぬことより目の前の男が死ぬことの方が余程怖い訳で。
それじゃ意味ないだろと呆れて返した。
守ろうとした側を守られる側が庇って、誰かの為だけに存在する反射を持った二人の攻防はきっといつまでも続く。
END
2012.4.8
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