どうかそのまま変わらないでくれと、望んだことはただそれだけだった。
迷っていた彼の背中を押したのは、他の誰でもない俺自身だ。
「お前を置いていってもいいか?」
そこで俺が否と答えればコナンは、あれほど渇望していた“工藤新一”へと戻る未来を捨てただろう。
己を縛る嘘から先に解放されることを、彼は裏切りのように思っていた。
「置いていかれるなんて思わないよ。仮の姿を捨てたって過去がなくなる訳じゃないし。これからだって俺のこと誰よりも分かってくれるだろ?」
それだけでいいんだ、と言った。俺は本当にそれだけでよかった。
コナンが躊躇いながら頷くのを確認して、“コドモ”同士の最後の逢瀬は終わった。
コナンと会ったのはそれが最後だった。俺の恋人と会えたのも最後だった。
こんな些細な、たったひとつの望みすら叶わない未来なんて、俺は想像すらしなかった。
慢心。油断。馬鹿みたいだ。
絶対に確かなことなんてこの世界には何ひとつないのに。
そのまま死んでしまうんじゃないかと思う程の苦痛を湛えた声を上げて、コナンは高校生の体を取り戻した。そして昏々と眠り続けた。
心配で心配で本当はずっと傍についていたかったのだけれど、土曜日が過ぎ、日曜日も終わると、俺は高校へ行かざるを得なかった。
(何せ出席日数的な要因で、留年の危機が迫っていた。)
「目、覚ましたら電話して」
月曜日の朝まで粘った後、灰原哀として生きることを選択した少女に頼み込んだ。
「授業中でも絶対出るから!」
「終わった頃にするわ」
彼女はきっぱりとそう言い切る。
「…彼が、気に病むもの」
付け加えられた理由は十分納得のいくもので、仕方ないかと頷いた。
そんな経緯があったものだから、まさか昼前の思いっきり授業中である時間帯に、ケータイが鳴るとは思わなかった。
もちろん迷いなく電話をとった。
「っ、もしもし!」
あんまり必死な様相すぎて注意もされない。
「…黒羽くん、江戸川くんが」
虚ろな声で告げられた言葉に、ガタッと席から立ち上がった。
カバンも忘れて教室から飛び出す。
「哀ちゃん、コナンがどうしたの!?」
何も考えられず、即座に聞き返してから違和感を覚えた。
今、彼女は“江戸川くん”と言わなかったか?そして俺は“コナン”と返した。
電話の向こうの少女は気持ちを落ち着かせるように一つ息をついて、言う。
「工藤くんはさっき目を覚ましたわ。その代わり」
最初は彼女が何を言っているのか、ちっとも理解できなかった。
「江戸川くんはどこにもいなくなってしまったけれど」
それはそうだ。当たり前のことだろう。コナンと新一は同一人物で、同時に存在することはできない。小学生の子供が高校生に戻れば、当然コナンはいなくなる。
「そういうことじゃないのよ」
電話の向こう側でもどかしそうに彼女が言う。そして説明を放棄した。
「とにかく来て」
そんなこと、言われる前からとっくに駆け出してる。
「…新一は、名乗らなくても俺の名前知ってた」
不遜にフルネームで呼び捨てて、素顔の俺の前に立ってくれた。
お前は誰だという問いにそう答えると、
「貴方ねぇ…」
同じく存在を忘れ去られた少女が呆れきった声を上げる。
「だから今、工藤くんには記憶がないのよ」
結果として俺は新一に、名無し男だと認識されることになった。
構うもんか。
コナンがいなくなったとはつまりそういうことだった。
新一はコナンであったことを忘れた。
黒羽快斗も灰原哀も、小学生の友人たちのことも全て忘れた。
「黒羽くん、わかってる?」
「何を?」
見知らぬ男と見知らぬ少女が一人ずつ居た。新一にとっての事態の認識はそんなもので、別に記憶障害ってほど大袈裟なことじゃないだろうと、夕方には隣家へ帰っていった。ここには彼に忘れられた二人が残った。
「いい?悪いのは彼じゃないのよ」
言い聞かせるように彼女が言う。
「そんな結果を引き起こす薬を作ってしまったのは私で、」
「哀ちゃんだって悪くない!」
自責の念が篭った言葉を叩き落とす。
分かってる。
誰が悪い訳じゃないことくらい。ちゃんと分かっているけれど。
――全部忘れてしまいたかった?
男と付き合っていること、しかもその男は犯罪者だってこと、嘘をつき続けて悲しませた末に、幼なじみを裏切ってしまったこと。
――コナンなんて消してしまいたいと思った?
感情が爆発しそうなのに涙も出ない。
悲しいのとは違う。
どこまでも落ちていく。
彼の中の“コナン”がいなくなってしまったら、俺、は。
誰が分かってくれる?誰が嘘つきの痛みを一緒に背負ってくれる?
目の前が真っ暗になる。彼への恨みばかりが募る。
どうして、酷い、思い出せ、約束を全部なかったことにするな。
暗く濁った俺の目をまっすぐ見つめて、
「彼はちっとも悪くないのよ」
彼女はもう一度繰り返した。
――悪く、ない?
そんな訳あるか。
その夜、キッドとして彼の家を訪ねた。
「私が誰か、分からないんですか?」
探偵なのに。
キッドを目にした新一は、何だこの変な男は、というような顔で固まった。それから瞬く。瞬きで見知らぬ男が家の中にいるという現実から、解放されるとでもいうように。
いつまで待っても目の前の白い物体は消えないことを悟ったのか、
「あいにく俺には記憶がないんだ」
やがて開き直った彼が答える。
「一般常識の範囲だと思うんですが」
怪盗キッドの存在なんてたぶん、幼い子供からご老人まで、大部分の人が知っていることだろう。これは決して思い上がりでなく。
「それで?」
しかし、コナンを忘れても工藤新一はやはり探偵だった。
「仮装の趣味でもあんのかよ?」
名無し男。
「なんだ、それは分かるのか」
馬鹿丁寧な口調をやめて冷たい笑みを浮かべる。
雰囲気で分かると新一は答えた。
「というかお前いったいどっから入った?」
「そりゃあ合鍵で玄関から」
彼自身から渡されていた鍵を投げて返す。
大切にしていたから傷ひとつ付いていない。
「なくても入れるけどな。俺、ドロボーだし」
「何しにきた」
俺の軽口など聞きもせず、質問を重ねて睨みつけてくる。俺を敵だと見做したのだろう。鋭い探偵の目をしていた。
この目を見る度ゾクゾクする。今夜は何も感じない。
「当ててみれば?」
「…泥棒が欲しがるもんなんて何もねぇぞ?」
「それはどうかな」
ふっと顔を近付ける。気圧されたように新一は後ずさる。
「…なぁ、お前、女抱いたことあんの?」
「……何でそんなこと答えなきゃなんねぇんだよ」
名乗ってもくれない男相手に。
睨みつけてくる彼の顔がほんのり赤い。間違いなくないんだろうなと思う。数日前までは小学生だったことだし。
酷薄に笑いながらまた一歩足を踏み出す。トン、と彼の背中が壁にぶつかる。追い詰めた。
「なんでって?今から俺がお前のことを、」
細い両手首を片手でまとめ、壁に容赦なく押し付けた。
空いた左手で殊更ゆっくりとネクタイを外し、手首を縛り上げてしまう。
「女みたいに抱くからだよ」
驚愕に見開かれた目を見ないように、罵倒の声を聞かなくて済むように、噛み付くような口づけをして言葉を封じた。
やっていることは泥棒と同じなのにプライドを持って怪盗だと名乗り続けた男は、今夜最も唾棄すべき犯罪者へと成り果てる。
弾け飛んだシャツのボタンが視界の端を掠める。鳥肌の立った肌を撫で回す。それでも股間を刺激すれば分かりやすく反応を示すのだから、男の体は悲しいと人ごとのように思った。
力の抜けた彼の体を床へ押し倒した。その衝撃に新一は顔をしかめる。ゴンと鈍い音が聞こえていた。それは痛いだろう。俺だって痛い。ものすごく痛い。死にそうなほどこの胸が、恋人を失った心が痛い。
「ちょっとは冷静になりなさいよ」
それから何日も同じ行為を繰り返した頃、隣で何が起きているかに感づいた少女が冷やかに言う。
聞こえない。
「貴方が彼を傷つけてどうするの!」
感情を高ぶらせた彼女の言葉に、首を傾げる。
彼?違う。俺は、だって。
恋人には酷いことなんかひとつもしていない。コナンにはいつだって優しくしてた。そっと、壊れ物を扱うように抱いた。乱暴なんてしたことない。
俺が毎晩気を失うまで抱くのは、“工藤新一”という男だけだ。
「忘れているようだから言うけれど、江戸川コナンと工藤新一は同一人物なのよ」
「俺を知らない新一なんか赤の他人だろ」
「…貴方は矛盾しているわ」
苛立たしげな溜め息まじりに彼女が告げる。
「そうやって彼を突き放す癖に、ずっと縛りつけるのね」
目立つところにばかり噛み痕をつけて、抱き続けて。
「蘭さんのところへ行けないように」
「……これが間違ってるっていうなら、」
仮定じゃない、絶対に間違っているのだと、僅かに残った冷静な心が囁いた。
「…俺はどうすればよかったの…?」
本当に心底途方に暮れて、情けない声で尋ねると、少女は返す言葉を失って黙りこくった。
最近、好きだとか愛だとか、温かい感情は何ひとつ存在しないまま繰り返す行為の最中、切れ切れの息の合間に新一の声が聞こえる。
かいと
そう、呼んでいるように聞こえる。
END
2012.3.25
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