「あの日、消えたかった」

 消えて、いたら。
 コドモになんか、ならなかったら。

 考え出すと止まらない。
 浮かぶのは都合のいいことばかり。

 こんな想いを知らなくてすんだ。
 嘘吐きの大罪も背負わずに、穏やかに死んでいけたはず。
 大切な人に悲しみを与え続ける、この日々に苦しむこともなかった。
 彼女の悲しみはとうに過ぎ去って、今頃、きっと幸せそうに笑っていた。
 待ちぼうけをくらわす“アイツ”じゃなくて、誰かの温かい腕の中で。

 だから、あの日、消えたかった。



「それ、は…

 俺の存在否定してるの?」

「そうかもな」

 傷つけてしまうことを承知でそう答えた。

「出会わなければよかったっていうの?」

 質問を重ねる快斗の声に感情はなかった。

「こんな不自然な出会い、誰が望むかよ」

「そうやって、俺を傷つけて、おまえ自身を傷つけて、
楽しい?」

 ――いいや、ちっとも。カケラも楽しくなんかない。

 目を合わせることができなくて、顔を上げることすらできなくて、耐えられなくなって逃げ出した。

 家を出て、やっと気が付く。
 しんと静まり返った外界は真夜中だった。
 ずっと邸内で不規則な生活を送っていたせいか、時間感覚が全くなくなっていた。
 今日の日付すら分からない。

 空を見る。天気くらいはわかる。曇っている。

 月の見えない夜だった。







けれど何故だか此処にいる僕は








 つい口走ってしまった言葉が鼓膜を震わせたのは、何日前のことなんだろうか。
 都内で起こった殺人事件。
 犯人は医者の医療ミスで夫を亡くしたという未亡人だった。
 親に交際を反対されていたが、心中を謀ったことによりなんとか認めてもらい、やっと結婚した矢先の出来事だったらしい。
 彼女は担当医を殺した。
 計画的な犯行ではなかったためトリックも単純で、事件解決まではあっという間だった。
 けれど。
 手錠をかけられる直前の彼女の言葉が、何故か耳に残って離れない。

『一緒に死のうとした時が、一番、幸せだったの。あの人は、ちゃんとした手術を受けないともう長くは持たないと言われていたし。あの日、消えたかった…』

 消えたかったわ。

 何度も繰り返して泣き崩れた。
 未だ耳に残る残響。

 ――そうだな、確かにその通りだ。

 心の声が形になったのかとすら思った。

 忘れようとして工藤邸に篭って、ひたすら本を読んでいた。
 いつの間にか快斗が来ていた。
 いい加減やめろよと本を取り上げられて、あの言葉が口をついて傷つけた。
 ずっと心の奥で考え続けていたのかもしれない。
 間違ってしまった全てを理想の形に変える、全てを無に返すただひとつの手段。

 消えたかったと繰り返す彼女の叫びに、蘭の泣き声が、涙が、重なって悪夢を呼ぶ。
 眠れないのにうなされる。

『新一、しんいち…』

 どうしておまえはまだ俺を呼ぶ?
 薄情で嘘つきな男のために泣く?

 そこに愛と呼ばれるモノがあるのかも最早わからない。
 約束と義務に縛られて泣いている。
 放り出してくれとこちらから言える訳もなく。

 なかったことにすればいいのか。いっそ、消えればいいのか。
 この存在を消してしまえばいいのか。

 ずっと眠っていないせいで、頭が正常に働かない。
 歪んでくる。視界じゃなくて、この思考回路が。

 負けるなとか逃げるなとかそんな、在り来りの言葉は聞き飽きた。
 じゃあ何を聞きたいんだ?我が儘なコドモ。

 蘭を裏切っても中森青子を苦しめても欲しいと望んだ、快斗のことまで傷つけた俺は。
 快斗が隣から去れば本当に、独りきりになってしまうのに。

 街の明かりが眩しくてくらりとする。

 女はまだ言う。

『消えたかったの』

 耳の奥で蘭が泣く。

 快斗が、言う。

『俺を傷つけて、楽しい?』



 あの時、消えられなかったのならば、今、消えてしまえばいいと、思った。
 同じことだ。これでいい。
 誂え向きに高いところまで来ているし。

 この光の中に吸い込まれるのだと思ったら、少しだけ気持ちが楽になった。







 柵すらないコンクリートの淵に片足をかけた時、それ以上、体が動かなくなった。

「はい、そこまで」

 腕が巻きついて捕まって、安全な世界へと戻される。

「………」

 声にならない声で、たぶん呼んだ。


 かいと


 引き止めた腕からは焦りも動揺も伝わってこない。
 無造作に下ろされた体が傾いて、転じた視線は空の暗闇を捉える。
 ずっとつけられていたんだろう。
 コイツなら表情ひとつ変えずにやってのけそうだ。
 完全に気配を消してしまえば俺でも気付けない。

「いい加減帰ってきてくれないかな?」
 こっちの世界に。

 再び快斗の声が聞こえて、振り向いた時、伸ばされた右手に殴られると思った。
 ぼんやりその行方を目で追った。
 頬で止まる。
 撫でるように触れて、離れる。
 ただ、それだけなのに。

「ぃ、つっ!」

 熱いような痛みが走って両目を見開いた。

「正気に戻れた?」

 快斗は、悪戯が成功した子供のように笑っていた。
 瞠目しながら聞く。

「なんだよそれ」

「え?ドライアイスだけど?」

 ケロッと答えられて眩暈がした。

「火傷するだろ!何やってんだ」

「一瞬だから平気だよ」

「俺じゃなくてオメーがだな…」

 いまひとつ分かっていない快斗に、捨てろと喚いた。

「あぁ」

 ポチャン

 やっと気付いたとでもいうように、昼間の雨でできた水溜まりへ、カケラを放った快斗が掌を見る。

「ちょっと赤くなってるかも」

 水溜まりは白い煙を吐きながら、アクアリウムのようにぶくぶくと泡を生み出す。
 けっこう大きい塊だったんじゃなかろうか。

「バカだろ」

「仕方ないでしょ、心痛の方が酷かったんだから」
 こんなの全然痛くなかった。

 真顔で返されて言葉を失った。

 それは間違いなく俺のせいだ。
 その掌の火傷だってきっと俺のせいだ。

 黙って俯くことしかできない。

「……コナン」

 視線の先にある水溜りが、幻想的な煙を吐き出し揺れる。

「何か、あったんだろ?」

 かぶりを振る。
 知らぬふりでそっと抱きしめてくる。

「俺に話してよ」

 考えてみれば随分久しぶりに聞こえた、感情の篭った声だった。

「どんな小さなことでも聞くから」

 綺麗なモノは時々痛い。
 だから近付きすぎてはいけない。
 今はそれと同じように、優しい声が胸に痛かった。

「独りで抱えこまないで」

 酷いことを言ってしまったというのに変わらない優しさはまるで、生々しい擦り傷に染み込む冷水。

 今更後悔が押し寄せる。
 謝罪の言葉すら思いつかない。

「……あの、快斗…、俺…」

 ごめん、と口にする前に遮られた。

「言葉で言われても信じない」

 にべもない声に困惑して問う。

「じゃあどうすればいいんだよ?」

「キスして」

 想定外の要求だった。

「…は?」

 思わず間の抜けた声が出る。

「いいじゃん。今さら渋るような関係じゃないでしょ」

「そういうことじゃねぇよ」

 あっけらかんとした言葉に戸惑った。

「…そんなんで、いいのか?」

「そんなんって…俺、今までコナンちゃんからしてもらった記憶ないんですけど」

 そんなんと言うくらいなら文句を言わずにさっさとしろ、と快斗は拗ねたように言う。

 ぶつかる寸前に目を閉じる。

「…ん…」

 一瞬触れるだけで離れるキス。

 うっすらと目を開ければ快斗が、感情の読めない瞳でじっと見つめていた。

「コナン、さっきそんなんでいいのかって、聞いたよね」
「…あぁ」

 曖昧に答える。
 少し赤みの引いた掌が、今度は痛みを与えることなく頬を撫でた。

「コナンが、此処じゃない場所にふらふら上っていったなら、殴って、怒鳴って、押し倒して、俺の存在がおまえの中に刻み込まれるまで犯してやるつもりだった、そう、思ってたよ」

「……ここ…?」

 物騒な台詞の大部分は右から左へと抜け、慌てて辺りを見回した。

 遮断されていた感覚が一気に流れ込む。

 冷たいビル風、素っ気ないコンクリート、夜の匂い、夜の街、イルミネーションの灯る東都タワー。

 この場所を俺は知っている。

「でも、迷いなく此処へ向かったみたいだから、いいよ」
 キスで許すよ、次はないけどね。

 月、花火、ヘリコプターに閃光。
 今でも鮮やかに蘇る。

 忘れもしない、目の前の男と初めて対峙した、杯戸シティホテルの屋上だった。

 ――何も考えていなかったのに、どうして?

 答えは、出ない。見つけられない。



「あのさ、」

 快斗が言う。
 回された両腕に力が篭る。

「…独りで逝くのだけはなしにして。誘われればそんくらい付き合うから」

 胸をキリキリと締め付ける懇願。

「……軽く言うなよ」
「軽くじゃないよ、心から言ってる」

 分かってしまうから怖いんだ、と思う。

「だって、俺はコナンちゃんに会ったから生きてるんだよ」

 満更、嘘でもなさそうだから怖い。
 この、能天気にしか見えない男にだって、きっとある。暗い思いに囚われる夜くらいは。

「……なんだそれ」

 チラリと垣間見えた闇になど気付かないふりをして、呆れてみせながらも考えた。
 俺が明日から先を生きるのもたぶん、快斗がそこにいるからだ。



「そんで、やっぱり俺と出会わない方がよかった、って言う?」

「…どうだかな」

 出会わなければ、快斗はどうだったというのだろう。
 逡巡しながら答えを探す。
 今、はっきりしていることだけを数え上げる。

 俺に傷つけられることはなく、心ない言葉も吐かれずに済んだ。
 掌に火傷もしなかった。

 出会って得したことなんかきっと何ひとつない。

「…過去をどうこう言ったって仕方ないだろ」

 結局、そう答えることしかできなかったけれど。

 ただ、無に帰したくない関係なら此処にひとつある。
 温もりも声も優しさも、どこまでも共に居てくれる執着も。

「答えになってない…」

 言外の想いなど読み取れるはずもない快斗は、不満そうな顔をしつつ、腰を上げた。

「まぁ、そこらへんは帰ってからじっくり聞かせてもらおっかな」







 帰ろうと手を引いた男の腕の中、いつしかウトウトとまどろみ始める。

 まるで子供じゃないか。情けない。

「眠っていいよ」
 連れて帰ってあげるから。

 歌うように恋人がそう言った。

 消えたいと泣きながら繰り返す女の声は聞こえない。
 傷ついた快斗の言葉は意味を変えた。

『そうやって、俺を傷つけて、おまえ自身を傷つけて、楽しい?』

 悲しげな声がスッと心に染みる。
 そうか、俺も、傷ついていたのか。

 蘭はまだ泣く。
 頭の中の彼女に「ごめん」と告げる。
 目尻に溜まった涙を拭うと蘭は、

『コナンくんは悪くないんだよ』

 そう言って笑った。

 こんな現実も確かにあった。



 優しい腕の中で見る夢うつつ。

 もう一度目が覚めたら、そうしたら快斗に、ちゃんと、伝えようと思う。

 不自然で、間違いだらけで、傷を増やすばかりの出会いだったとしても。

 ――おまえに会えて、よかったよ。



END

2011.5.16


 
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